摩耗の閾値

端野ゼロ

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第2章 泥の聖域 —— 棄てられた街の質量

泥濘の抵抗と、剥離する指先

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擁壁の影から、一人の女が這い出してきた。

 泥濘(ぬかるみ)の中に膝をつき、必死に斜面を押し留めようとするその姿に、佐登は息を呑んだ。  視覚を支配する黄金の皮膜が、激しいノイズと共に一瞬だけ引き裂かれる。  そこに現れたのは、磨き抜かれたオフィスビルのホログラムではなく、現実に打ちのめされながらも、なお大地にしがみつく同期の姿だった。

「……真壁?」

 佐登の声は、激しい風の音にかき消された。

 真壁の作業着は、もはや元の色を留めていない。  アスファルトを侵食する汚濁の奔流を全身に浴び、彼女は人間というよりは、土の中から掘り起こされた古びた彫像のようだった。  彼女の視線は、佐登を捉えていない。  ただひたすらに、目の前の崩れゆく現実だけを凝視していた。

「遅いよ、佐登。もう、パッチじゃ隠せないところまで来てる」

 真壁の声は、喉が裂けるような悲鳴に似ていた。  彼女は震える両手で、崩落し始めた擁壁の基部を必死に押さえている。  だが、その指先を見た瞬間、佐登は胃の底が凍りつくような生理的嫌悪感に襲われた。

 彼女の爪が、剥がれかけていた。

 長期間にわたる現場作業での酷使。  そして、冷たい泥水による組織の壊死。  剥き出しになった肉からは、鮮血が土壌に混じり合い、毒々しい赤黒い紋様を描いている。  剥離した皮膚の隙間に、粘りつく黒い拒絶が執拗に入り込み、神経を直接苛んでいた。

「なにしてるんだ……そんなの、人力でどうにかなるわけ……」

「隠しても! 質量は消えない!」

 真壁が叫んだ。  その拍子に、彼女の足元がずるりと滑る。  彼女は顔から泥の中に突っ込み、むせ返るような腐臭を肺いっぱいに吸い込んだ。  それでも彼女は、折れた枝のような腕を伸ばし、再び擁壁の方へ這い進もうとする。

 佐登の網膜では、V-Assistが執拗に「正常」を主張し続けている。 『真壁:作業効率40%低下。休息を推奨します。』 『周辺状況:最適化プロセスの範囲内です。』

「嘘だ……嘘だろ、これのどこが最適なんだ……」

 佐登は叫び、真壁を助けようと一歩踏み出した。  だが、足元を掴む湿った重力が、非力な彼の脚力を嘲笑うように奪い去る。  重心を崩し、彼は真壁のすぐ隣に膝をついた。

 そこは、死臭のする領域だった。  パッチの下で、この壁はずっと断末魔を上げていたのだ。  和久井たちが綺麗なオフィスで、シトラスの合成香料に包まれながらコーヒーを飲んでいる間も。  この冷たい沈黙の中で、構造体は一秒ごとに死へと近づいていた。

「見なよ、佐登。これが私たちの仕事の『結果』だよ」

 真壁が血の滲む手で指差した先。  擁壁の亀裂の奥から、地下水を含んだ土砂が、巨大な生き物の脈動と共に溢れ出していた。  ドクン、ドクンと、大地が血を流している。  それはデジタルの光では決して表現できない、圧倒的な破壊のエネルギーだった。

 不意に、真壁の手が力なく泥の中に沈んだ。  彼女の指先に残っていた最後の爪が、音もなく剥がれ落ちる。  その瞬間、彼女の瞳から生気が失われ、代わりに底知れない虚無が宿った。

「……ああ、綺麗」

 真壁が、震える声で呟いた。  彼女の視界の中で、何かが決定的に壊れたのだ。  デバイスの安全回路が暴走し、彼女を「痛み」から守るために、究極の欺瞞を用意した。

「見て、佐登。お花畑だよ。……全部、金色の花が咲いてる」

 彼女が指し示すのは、赤錆びた泥水が吹き出す地獄のような光景だった。  だが、彼女の壊れた脳には、それが美しい祝祭の光景として映っている。  剥がれ落ちた自分の爪さえも、彼女にとっては散りゆく花びらの一部に過ぎない。

 佐登は震える手で、彼女の肩を掴んだ。  だが、その手から伝わってくるのは、もはや人間の温もりではなかった。  雨に打たれ続け、体温を奪われ、システムへの過剰適合によって精神を焦土化された、抜け殻の冷たさだった。

「真壁……しっかりしろ! それは……それはただの泥だ!」

「違うよ。これは、私たちが求めていた『幸福』だよ」

 真壁は虚ろな笑みを浮かべ、泥を両手で掬い上げた。  彼女の指の付け根からは、止まることのない鮮血が流れ続けている。  だが、彼女はその激痛さえも、脳を焼かれるような多幸感へと変換して受け入れていた。

 ――ズズゥン!!

 さっきよりも長く、深く、明確な終焉を告げる地鳴りが響いた。  足元の地面が大きく波打ち、世界が平衡感覚を完全に喪失する。  佐登のV-Assistが、ついに<致命的なエラー:構造的崩壊。即刻退避せよ>という赤色の警告を、悲鳴のように点滅させた。

 だが、もう遅かった。  山の質量が、ついにその重たい腰を上げ、すべてを無に帰すために動き出したのだ。

「立て! 死ぬぞ、真壁!」

 佐登は彼女を抱え上げようとした。  だが、真壁は重力そのものになったかのように動かない。  彼女はただ、黄金の幻影の中に亡命したまま、崩れゆく壁を愛おしそうに見つめていた。

 一歩歩くごとに、足首を掴む湿った重力が、佐登の体力を根こそぎ奪っていく。  2038年10月14日、午後3時42分。  N市の地図から、一つの歴史が物理的に抹消されようとしていた。

「荒木さん! 助けてくれ!」

 佐登が振り返る。  だが、そこにはただ、冷たい雨に打たれながら、無言で崩落を見つめる老土木技師の背中があるだけだった。  彼は知っていたのだ。  一度動き出した質量の審判は、どんなアルゴリズムを持ってしても、止めることはできないということを。

 頭上で、コンクリートが断裂する凄まじい音が響いた。  世界のすべてが、茶褐色の闇へと飲み込まれていく。  佐登の意識は、網膜を焼く最後の火花と共に、深い泥の底へと沈んでいった。
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