摩耗の閾値

端野ゼロ

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第3章 不可視の亀裂 —— 予算という名の断頭台

無菌室の処刑宣告

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N市役所、地域計画課。第A執務室 。 ここは、先ほどまで佐登が泥の中で彷徨っていた「廃棄対象エリア」と同じ市内とは思えないほど、徹底して管理された空間だった 。

天井の埋め込み式デバイスからは、シトラスの香りに微かなペパーミントを調合した「集中力向上プログラム」の合成香料が、目に見えない霧となって降り注いでいる 。 V-Assistが網膜に投影する視覚パッチは、築40年の古びた壁を、温かみのある北欧風の白木と間接照明が踊るモダンなオフィスへと書き換えていた 。

和久井は、エルゴノミクスを極めた高級事務椅子に深く腰掛け、空中に浮かぶ半透明のホログラム・モニターを指先ひとつで操作していた 。 彼の動きには一切の無駄がない 。 完璧に最適化されたその歩様と姿勢は、彼自身がシステムを構成する一つのパラメータであることを証明しているかのようだった 。

「昨夜の廃棄エリアでのグリッチ、および佐登君のBMIフリーズについての報告書だ。チェックしておけ」

和久井の声は、波立たない水面のように冷徹だった 。 デスクの向かい側で、真壁が泥の詰まった爪を隠すように拳を握りしめている 。 彼女の周囲だけ、V-Assistのパッチが上手く馴染んでいない 。 彼女が現場から引きずってきた、粘りつく黒い泥の臭いが、この無菌室のような空間で異物として浮き上がっていた 。

「……報告書を読みました。佐登のフリーズは、デバイスの老朽化ではありません 。エリアの同期解像度が低すぎたことによる、脳への直接的な過負荷です 。あそこの擁壁、もう物理的な限界です 。パッチで隠すのは、むしろ破滅を早めるだけだと言ったはずです」

真壁の言葉に、和久井はモニターから目を離さずに応えた。

「『破滅』の定義によるな 。市民の情緒的安定を維持するという観点では、パッチは正常に機能している 。君が危惧しているのはコンクリートの耐用年数だろうが、それは統計学上の確率論に過ぎない」

「確率論? 現に水が漏れ出しているんですよ! 私もあそこにいました 。壁の裏側で、大地が悲鳴を上げているのをこの耳で聞いたんです!」

真壁の声が、静かなオフィスに鋭く響く。 和久井の指先が、一瞬だけ、コンマ数秒のラグを持って止まった。 高度すぎる彼のBMIが、建物自体の「歪み」からくる微かな振動を、演算エラーではない「予兆」として拾い上げてしまったのだ 。

(……不愉快なノイズだ)

和久井はそれを思考の隅に追いやった。システムは正しくなければならない。 彼は自らを「壊れない歯車」として信奉することで、この歪んだ世界に適応していた 。

「感情的な証言はデータではない、真壁君」

和久井は空中に指を滑らせ、一枚の複雑なグラフを真壁の目の前までスライドさせた 。

「来年度の予算配分案だ 。見ての通り、廃棄予定エリアの擁壁修繕費は、今年度をもって完全にゼロになる 。代わりに、その予算は『全市民向け視覚ライセンスの更新料』に充当されることが決定した 。物理的な修繕よりも、パッチの更新の方が遥かに安上がりだからだ 。これが我々の選んだ『戦略的撤退』の最適解だよ」

「安上がり……? あそこに住んでいる荒木さんたちは、どうなるんですか 。和久井さん、あなたは地図を指先ひとつで灰色に塗りつぶせば済むと思っているかもしれないけれど、あそこにはまだ、質量を持った人間が生きているんです」

和久井は、初めてゆっくりと顔を上げた 。 V-Assistが映し出す彼の瞳は、澄み渡った青空のように美しい 。 だがその奥にある生身の眼球は、慢性的なドライアイに赤く充血し、数字の羅列を追うための冷たさを宿していた 。

「地図から消えるということは、行政サービスという名の『虚構の保護』から外れるということだ 。彼らには、未来という重荷を降ろしてやる慈悲を与えた。……古谷さんの時代とは違うんだ」

その時、執務室の隅で佇んでいた古谷が重い腰を上げた 。 彼は再雇用職員としての、責任を持たない笑みを浮かべて歩み寄ってくる 。

「まあまあ、真壁ちゃん。和久井君の言う通りだよ 。僕らの若い頃は、それこそ泥にまみれて土木工事をやったもんさ 。でもね、結局、物理的なものは摩耗する。形あるものは壊れるんだよ。それに引き換え、デジタルはいい。いつまでも新品のままでいられる」

古谷は、スーツのポケットから一冊の古びた銀行通帳を取り出した 。

「これを見てごらん。磁気通帳だよ 。もうどこにも読み取る機械なんてない紙屑だ 。でもね、これを持っている間だけは、僕はかつて自分がこの街の基礎を建てたという重みを思い出せる 。……今の君たちが守るべきは、そんな呪いのような重たい感触じゃない。もっと軽やかで、美しい『現在』だろう?」

古谷の言葉には、若者から時間を奪い、負債を押し付けて逃げ切ろうとする卑怯さが混じっていた 。

和久井は、古谷の持つその「通帳」を嫌悪の眼差しで見つめた 。 それは非効率で、更新できない過去の遺物だ 。 だが、その通帳を見ていると、自分の完璧な歩様が、ほんのわずかに乱れるような感覚に陥る 。 自分の右足が、まだ経験したことのない「痛み」を予習しているかのような、生理的な嫌悪感だった 。

「……軽やかな、現在」

真壁の声が、低く震える。 彼女は自分の右手の指先を見つめた 。昨夜、泥の中で剥がれかけた爪は、応急処置の不格好なガーゼで覆われている 。 V-Assistのパッチは、その醜い傷口を「清廉な白い光」として上書きしようとしているが、ガーゼの下で脈打つ激痛はそれを拒絶し、彼女の神経を執拗に逆撫でする 。

「真壁君。次の現場へ行く前に、医務室から佐登君を連れ戻せ 。彼には新しいパッチの適用テストに参加してもらう 。彼の脳が拾い上げたノイズを、最適化の糧にするんだ」

和久井は再びモニターに向き直った 。 だが、彼が座るその椅子は、微かに、本当に微かに、床を通じて伝わってくる「地鳴り」に震えていた 。 それは役所の頑強な基礎すらも突き抜けてくる、この街の断末魔だった 。 和久井はその振動を、空調のノイズか演算エラーとして強引に処理した 。

彼の右足は、まだ痛みを知らない 。 だが、その右足が、自分の意志とは無関係にピクリと跳ねた 。 古谷の持つ通帳という名の物理的質量が、いつか自分の右足を砕き、一生消えない「責任」という名の拍動を刻みつけるその日まで、あとどれほどの猶予が残されているのか 。

「和久井さん。あなた、いつかその右足で、自分の言葉の重さを知ることになりますよ」

真壁は吐き捨てるように言うと、執務室を去った 。 残された和久井は、無言でキーを叩く。 ホログラム上の地図で、昨夜のエリアが一瞬だけ血のような赤色に点滅し――そして、無機質な「灰色」に塗りつぶされた 。

「削除完了(ALL GREEN)。……効率的な、朝だ」

窓の外では、V-Assistが作り出した黄金の太陽が、死に行く街の残骸を、眩いばかりの光で祝福していた 。 和久井は深く息を吐いた。 彼の喉の奥には、なぜか消えない「泥の味」が、微かに残っていた 。
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