摩耗の閾値

端野ゼロ

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第3章 不可視の亀裂 —— 予算という名の断頭台

人間性の切断と、閾値へのカウントダウン

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N市役所、地域計画課。第A執務室の空気は、精密機械の内部のように無機質で、冷徹だった。

 天井のデバイスからは、シトラスの香りにペパーミントを調合した「集中力向上プログラム」の合成香料が、目に見えない霧となって降り注いでいる。

 和久井は、エルゴノミクスを極めた事務椅子に背を預けていた。だが、その完璧な椅子も、左胸の内ポケットにある「磁気通帳」が放つ、不自然な局所的質量までは相殺しきれない。

 物理的な質量を持った負債。
 それが、和久井という高性能な「システムの歯車」に、微かな、しかし致命的な偏心(ゆがみ)を与えていた。

「最終通告プロトコル、承認済み。……開始しろ」

 和久井の声は、波立たない水面のように平坦だった。

 目の前のホログラム・モニターには、廃棄対象エリアの俯瞰図が浮かんでいる。
 そこには荒木老人の古い家屋が、赤く点滅する「リソース消費点」として表示されていた。

 通信が接続される。
 視界の半分を占めるウインドウに、荒木の顔が映し出された。

 行政が意図的に帯域を制限したその映像は、デジタル・ノイズの雨に打たれ、幽霊のように見えた。
 荒木の瞳を覆うピクセルの崩れが、彼がすでにシステムの保護外にあることを残酷に示している。

 清潔なシトラスの香りが漂う中で、和久井の脳は、映像から漏れ出す「カビと鉄錆の臭い」をエラーとして検出し始めていた。
 嗅覚の矛盾が、脳幹を鋭い針で刺すような眩暈(めまい)を誘発する。

「荒木さん。聞こえますか。地域計画課の和久井です」

「……ああ、聞こえてるよ。役所様。今日も綺麗な空の上からお話しかな」

 荒木の声は、乾いた砂利を噛み砕くような不快な響きを持っていた。

 和久井の網膜を焼く光のグリッドは、荒木の背後の「剥落したコンクリート」を黄金の背景へと書き換えようと必死に演算を繰り返している。

 だが、そのテクスチャは現実の腐食に追いつかず、皮膜の隙間から、ドロドロとした黒い泥濘(ぬかるみ)の質感がストロボのように明滅する。

「N市地域最適化条例に基づき通告します。当該エリアは本日15時をもちまして、電力、および上下水道の供給を停止します」

「これは『戦略的撤退』に伴う、資源の再分配を目的とした最適化措置です」

「最適化、か。……ずいぶんと便利な言葉だ。自分たちの怠慢(たいまん)を、数字のせいにして責任を捨てちまう」

「数字は嘘を吐きません、荒木さん。あなたの居住区を維持するためのコストは、現在の納税受益率の300%を超えています」

「私たちは、未来を生きる若者たちのリソースを守らなければならない。非効率なノイズを切り捨てることは、唯一の理性的な選択です」

 和久井は自分に言い聞かせるように、震える言葉を紡(つむ)いだ。

 ポケットの中の通帳が、重い。

 自分が今、指先ひとつで老人の「生」を灰色に塗りつぶそうとしている。
 それは、かつて古谷たちの世代が自分たちから奪った「未来の質量」を、今度は自分が奪い返す、残酷な復讐劇にも見えた。

 葛藤が、胃の腑(ふ)を雑巾(ぞうきん)のように絞り上げる。
 論理は正義だと叫んでいるが、身体が、血が、それを拒絶していた。

 眼球の奥が、慢性的なドライアイに焼かれ、赤く充血していく。
 現実の「重さ」を隠蔽するためのコストが、和久井の精神を直接削り取っていく。

 和久井は荒木の映像から視線を逸らし、デスクの端の万年筆に目を落とした。
 古谷から押し付けられた、酸化の記憶を纏ったアナログな筆記具。

 その万年筆が。
 カタ、カタカタと。
 不規則な音を立てて、震え始めていた。

 執務室の空調は完璧に制御されている。ビルの免震構造は最新鋭だ。
 振動など、起きるはずがない。

 だが、万年筆は確実に踊っていた。デスクの表面と接触し、乾いた音を立てて跳ねている。

 黄金のパッチで隠蔽された地層の奥底から、物理的な崩壊の秒読みが、振動という名の抗えない質量となって這い上がってきているのだ。
 システムが「異常なし」と処理し続けているその下で、大地は確実に、その歪みを解放しようとしていた。

「和久井君。お前さんは、今、自分の手でスイッチを切ったと思っているんだろう」

 荒木の声は、死の間際にある者が投げかける「慈悲」のようだった。

「お前が切ったのは、俺たちの電気じゃない。……お前さん自身が、この地面の上に立っているという、最後の手がかりだ」

「その機械のパッチでお前の網膜は綺麗に塗りつぶされていても、足元の泥の冷たさまでは消せやしない。地面との繋がりを切ったお前さんは、次に山が崩れるとき、どこにアンカーを下ろすつもりだ?」

「……。通信を、終了します」

 和久井は逃げるように、アイコンを払った。
 荒木の顔が、デジタル・スノーの中に吸い込まれて消える。

 沈黙が戻った。
 いや、沈黙ではない。

 デバイスが作り出す「シトラスのせせらぎ」の裏側で、建物全体の鉄筋が軋む低く重い音が、和久井の鼓膜を直接揺さぶる。

 和久井は震える指で、実行コマンドを入力した。
 <廃棄エリア082:ライフライン一括停止。確認>

 指先が確定ボタンを数ミリ手前で止める。
 その数ミリの空間に、荒木の言った「重力」が、鉛のような密度で充満していた。

 心臓が、内ポケットの通帳を叩く。ドクン、と。

 和久井は目を閉じ、一気に指を突き通した。

 瞬間。
 ホログラムの地図上で、荒木の家が、血のような赤色から無機質な「灰色」へと塗りつぶされた。

 それは、行政という名の断頭台(ギロチン)が、音もなく振り下ろされた瞬間だった。
 地図から消えたのは座標ではない。そこに存在した質量の、行政的な死そのものだった。

「……処置、完了。……オール・グリーン」

 和久井は呟いたが、その声はひどく掠れていた。

 喉の奥に、なぜか塩素と泥の入り混じったような不吉な味が込み上げてくる。
 視界がストロボのように一瞬だけ暗転し、北欧風のオフィスが、ひび割れたコンクリートの残骸へと姿を変えた。

 慌てて再起動(リブート)をかける。
 黄金の光が戻るが、網膜に焼き付いた「廃墟の残像」は、どんな高精細なパッチを重ねても消し去ることはできなかった。

 デスクの上の万年筆が、一際大きな音を立てて転がった。

 震動は、もはや「演算エラー」として処理できる閾値(いきち)を超えていた。
 免震装置の限界を嘲笑うように、破壊の予兆が、役所の基礎を内側から食い破っていく。

 和久井の右足が、意志とは無関係に、ガクガクと激しく震え始めた。
 痛みは、まだ無い。

 だがその右足は、これから彼が背負うことになる「重力の審判」を予習するかのように、泥濘(ぬかるみ)の冷たさを、神経の先端で感知し始めていた。

 2038年10月14日、15時02分。
 和久井は、震える手で自分の右足をさすった。

 スーツの内ポケットにある磁気通帳が、まるで瓦礫の中から誰かが彼の手首を掴んでいるかのように、冷たく、重く、拍動していた。
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