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人間とは?
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歳は40代か50前半といったところか。真夏日に黒いジャケットを着ているのに、不思議なことに汗一つかいていない。
「元気そうな女の子ですね。面倒を見るのは大変でしょう」
「まあ」
「私にも娘がいるんで分かりますよ。年頃の女の子は一番手がかかる」
男の生真面目そうな顔が崩れた。その柔和な微笑みからは娘への愛情が読み取れる。いきなり話かけられて驚いたが、どうやら悪い人ではなさそうだ。
「娘さんとご一緒に来てるんですか?」
「いえ、娘は今年家を出ましてね。正直、親としては目の届くところにいて欲しいと思ってしまいますが、何より尊重すべきなのは本人の意志ですから」
まともな価値観を持った親だ。それとも、これが普通の親の考え方なのだろうか。俺の母親は家を出るのを止めなかったが、それは俺の意志を尊重したからではなく単に無関心だったからか、俺の存在を疎んでいたからだろう。
「娘さんは親に恵まれて幸せですね」
「まあ、本人はそう思ってないようですが」
そういえば、この人は誰と来ているのだろうか。娘は既に家を出ていると言っていたが、そうすると奥さんと二人で来ているか。中年男性が一人で動物園ということは少し考えにくい。
「ところで、あなたは動物と人間の最大の違いはなんだと思いますか?」
「え?」
唐突な質問に思わず聞き返してしまった。誰と来たのか尋ねようとしたが、タイミングを逃してしまった。
「突然すみませんね。職業柄そういったことを考える機会が多くて、あなたはなかなか賢そうな顔をしているので、面白い回答を得られそうだと思ったんですよ」
「そんな、僕なんて平凡でつまらない人間ですよ」
「難しく考えなくても結構ですから、よければ答えてください」
職業柄ということは、何かしらの研究職なのだろう。生物学者だとしたら、一人で動物園に来ていることも不自然ではない。あるいは、作家とか芸術方面に携わっているか、もしかすると哲学を研究しているのかもしれない。俺のことを賢そうだと言ったこの男の方が、むしろ知的な雰囲気を放っている。
動物と人間の違い……知能という言葉がまず浮かんだが、それではあまりに漠然としているように思えた。チンパンジーのような類人猿ができずに、人間ができること、それは――
「道具を作ることですか?」
「なかなか悪くない答えだね。アメリカ合衆国建国の父の一人として知られるフランクリンは人間は道具を作る動物と定義している。あるいは、フランスの哲学者ベルクソンは人間の特質をホモ=ファーベル、工作人だと定義した。実際人間は自然という脅威に改変を加え、文明を築いてきた。だが、高度な文明が築かれた現代では、人からは工作人としての在り方が失われている。君だって、スマートフォンがどうやって作られたのか知らずに使っているだろう?」
「つまり、不正解ってことですか?」
「間違っているというより、古い答えと言った方が正確だね」
気がつけば、男とは目が合わなくなっていた。もはや俺への興味を失ったか、あるいは俺の答えに興味がなく、持論を披露したかっただけなのかもしれない。遠くを見つめる男の瞳には何か崇高な理想が映っているのだろうか。
「じゃあ、あなたは人間をどう定義するんですか?」
「私は、集積による発展こそが人間を人間たらしめていると考えている」
「集積?」
「群れと情報を共有するだけであれば、他の動物でも可能なことだ。しかし、情報を群れの中に蓄えて後世に伝え、それを用いて新たな発明を成すのは人類だけだ」
「なるほど」
男の語った論に納得はしたが、大層な語り口の割に平凡な答えで拍子抜けしたというのが正直な感想だった。結局のところ後世に情報を伝えるだけの知能が人間にはあるという話で、人間は賢い動物だとする定義と本質的に変わっていないように思う。
「だけどね、人間は不完全なんだ」
一瞬、男の声が低くなり、背筋がぞくりとした。何かに憎しみを向けたような、あるいは深く失望したような、そんな声色だった。
「知の集結が阻害されている。この地球上の物質や学問、思想の全てを理解するには、個人は脆弱すぎる。先人が築いた叡智を十分に活用できていない現状は非常に嘆かわしい」
「もっと多くの人が学問を学ぶべきということですか?」
「いや、それでも不十分だ。自己の利益を追求する愚か者が情報資源の占有を図るため、人類全体の歩みは停滞してしまう。我々が新たなステージに立つためには、まず意思の統一が必要なのだよ」
話のスケールが大きくなってきた。もしかすると、宗教の勧誘でも受けているのだろうか。そういえば大学の構内放送でも宗教勧誘への警戒がしきりに呼びかけられていた。今にでもこの場から離れたいが、ステラを置いていくことはできない。
「人類の歴史は争いの歴史である。今ある技術の多くは戦争によって生み出されたものだ。経済においても競争が成長を加速させる。これまでの人類文明は争いによって発展してきた。これは人類が不完全である証拠に他ならない。では、なぜ人類は争いを止めないのか、その理由がわかるかね?」
男が首をぐるりと回して大きく開かれた目が俺を捕らえた。柔和な笑みを浮かべて娘の話を語っていた父親の面影はすっかりない。ここで男の問いを無視すれば、何かされるのではないかと思わせる狂気的な気迫があった。
「……誰しも他人よりも自分が大切だから?」
「その通りだ。戦争だけでない。ミクロな世界においても人は他者を蔑ろにして、自己の利益や優位性を保とうとする。エゴイズムに取りつかれた愚か者は己の享楽のために、有限な資源を浪費し、他人の尊厳を踏みにじり、叡智の集積と人類分目にの発展に目もくれずに生涯を終える。堕落した矮小なる個人の知が、先人が集積した叡智を蹂躙し、人類は獣に還ろうとしている。このままでは人類は自ら破滅へと歩んでいくだろう。それだけは食い止めねばならない。共利創造など生温い幻想に過ぎない。人類とこの星を未来永劫発展させていくには、個の存在が邪魔だ。全ての意思を統合する新人類として生まれ変わらねばならない。それこそ妄言と思うかね。まあ無理もない。だが、それができるのだよ……ステラの力を持ってすれば」
その名前を聞いて頭が真っ白になった。
「レン! ソイツから離れろ!」
声のする方向に振り返ると、かつてないほど必死な表情を浮かべるステラがいた。
そして、続く言葉でやっと男に抱いた既視感の正体に気が付いた。
「ソイツが天王寺桐也だ!」
「元気そうな女の子ですね。面倒を見るのは大変でしょう」
「まあ」
「私にも娘がいるんで分かりますよ。年頃の女の子は一番手がかかる」
男の生真面目そうな顔が崩れた。その柔和な微笑みからは娘への愛情が読み取れる。いきなり話かけられて驚いたが、どうやら悪い人ではなさそうだ。
「娘さんとご一緒に来てるんですか?」
「いえ、娘は今年家を出ましてね。正直、親としては目の届くところにいて欲しいと思ってしまいますが、何より尊重すべきなのは本人の意志ですから」
まともな価値観を持った親だ。それとも、これが普通の親の考え方なのだろうか。俺の母親は家を出るのを止めなかったが、それは俺の意志を尊重したからではなく単に無関心だったからか、俺の存在を疎んでいたからだろう。
「娘さんは親に恵まれて幸せですね」
「まあ、本人はそう思ってないようですが」
そういえば、この人は誰と来ているのだろうか。娘は既に家を出ていると言っていたが、そうすると奥さんと二人で来ているか。中年男性が一人で動物園ということは少し考えにくい。
「ところで、あなたは動物と人間の最大の違いはなんだと思いますか?」
「え?」
唐突な質問に思わず聞き返してしまった。誰と来たのか尋ねようとしたが、タイミングを逃してしまった。
「突然すみませんね。職業柄そういったことを考える機会が多くて、あなたはなかなか賢そうな顔をしているので、面白い回答を得られそうだと思ったんですよ」
「そんな、僕なんて平凡でつまらない人間ですよ」
「難しく考えなくても結構ですから、よければ答えてください」
職業柄ということは、何かしらの研究職なのだろう。生物学者だとしたら、一人で動物園に来ていることも不自然ではない。あるいは、作家とか芸術方面に携わっているか、もしかすると哲学を研究しているのかもしれない。俺のことを賢そうだと言ったこの男の方が、むしろ知的な雰囲気を放っている。
動物と人間の違い……知能という言葉がまず浮かんだが、それではあまりに漠然としているように思えた。チンパンジーのような類人猿ができずに、人間ができること、それは――
「道具を作ることですか?」
「なかなか悪くない答えだね。アメリカ合衆国建国の父の一人として知られるフランクリンは人間は道具を作る動物と定義している。あるいは、フランスの哲学者ベルクソンは人間の特質をホモ=ファーベル、工作人だと定義した。実際人間は自然という脅威に改変を加え、文明を築いてきた。だが、高度な文明が築かれた現代では、人からは工作人としての在り方が失われている。君だって、スマートフォンがどうやって作られたのか知らずに使っているだろう?」
「つまり、不正解ってことですか?」
「間違っているというより、古い答えと言った方が正確だね」
気がつけば、男とは目が合わなくなっていた。もはや俺への興味を失ったか、あるいは俺の答えに興味がなく、持論を披露したかっただけなのかもしれない。遠くを見つめる男の瞳には何か崇高な理想が映っているのだろうか。
「じゃあ、あなたは人間をどう定義するんですか?」
「私は、集積による発展こそが人間を人間たらしめていると考えている」
「集積?」
「群れと情報を共有するだけであれば、他の動物でも可能なことだ。しかし、情報を群れの中に蓄えて後世に伝え、それを用いて新たな発明を成すのは人類だけだ」
「なるほど」
男の語った論に納得はしたが、大層な語り口の割に平凡な答えで拍子抜けしたというのが正直な感想だった。結局のところ後世に情報を伝えるだけの知能が人間にはあるという話で、人間は賢い動物だとする定義と本質的に変わっていないように思う。
「だけどね、人間は不完全なんだ」
一瞬、男の声が低くなり、背筋がぞくりとした。何かに憎しみを向けたような、あるいは深く失望したような、そんな声色だった。
「知の集結が阻害されている。この地球上の物質や学問、思想の全てを理解するには、個人は脆弱すぎる。先人が築いた叡智を十分に活用できていない現状は非常に嘆かわしい」
「もっと多くの人が学問を学ぶべきということですか?」
「いや、それでも不十分だ。自己の利益を追求する愚か者が情報資源の占有を図るため、人類全体の歩みは停滞してしまう。我々が新たなステージに立つためには、まず意思の統一が必要なのだよ」
話のスケールが大きくなってきた。もしかすると、宗教の勧誘でも受けているのだろうか。そういえば大学の構内放送でも宗教勧誘への警戒がしきりに呼びかけられていた。今にでもこの場から離れたいが、ステラを置いていくことはできない。
「人類の歴史は争いの歴史である。今ある技術の多くは戦争によって生み出されたものだ。経済においても競争が成長を加速させる。これまでの人類文明は争いによって発展してきた。これは人類が不完全である証拠に他ならない。では、なぜ人類は争いを止めないのか、その理由がわかるかね?」
男が首をぐるりと回して大きく開かれた目が俺を捕らえた。柔和な笑みを浮かべて娘の話を語っていた父親の面影はすっかりない。ここで男の問いを無視すれば、何かされるのではないかと思わせる狂気的な気迫があった。
「……誰しも他人よりも自分が大切だから?」
「その通りだ。戦争だけでない。ミクロな世界においても人は他者を蔑ろにして、自己の利益や優位性を保とうとする。エゴイズムに取りつかれた愚か者は己の享楽のために、有限な資源を浪費し、他人の尊厳を踏みにじり、叡智の集積と人類分目にの発展に目もくれずに生涯を終える。堕落した矮小なる個人の知が、先人が集積した叡智を蹂躙し、人類は獣に還ろうとしている。このままでは人類は自ら破滅へと歩んでいくだろう。それだけは食い止めねばならない。共利創造など生温い幻想に過ぎない。人類とこの星を未来永劫発展させていくには、個の存在が邪魔だ。全ての意思を統合する新人類として生まれ変わらねばならない。それこそ妄言と思うかね。まあ無理もない。だが、それができるのだよ……ステラの力を持ってすれば」
その名前を聞いて頭が真っ白になった。
「レン! ソイツから離れろ!」
声のする方向に振り返ると、かつてないほど必死な表情を浮かべるステラがいた。
そして、続く言葉でやっと男に抱いた既視感の正体に気が付いた。
「ソイツが天王寺桐也だ!」
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