流れ星と暮らすワンルーム

尾松傘

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壊れた絆

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 時計の針は死体のようにじっとうずくまっている俺を置いて進んでいった。胃の中のものを全部吐いたせいで空腹だったが、しばらくは何かを食べようという気にならなかった。
 だが、それも午後の5時を過ぎたあたりで限界がきて、陽太から貰った食料品の中からカップ麺を出してお湯を注いだ。インターホンが鳴ったのは、空虚な3分を待ち、最初の一口を啜ろうとしたそのときだった。
 
「ステ――」
「おーい、蓮いるんだろー?」

 陽太の声だった。あんな風に拒絶しておいて一瞬でもステラが戻ってくることを期待した自分の図太さに呆れた。

「鍵あるんだろ? 入ってこいよ」

 自分の喉から出る声が、あまりにいつも通りで違和感があった。でも、そんなものかもしれない。ステラがいる生活が特殊で、これが俺にとってのいつも通りなのだから。

「なんでずっと既読つけないんだよ。心配したぞ」
「悪い、スマホ見てなかった」

 部屋に入ってくるなり、陽太は部屋を見回して不思議そうな顔を浮かべた。

「ステラちゃんは?」
「出ていった」
「ステラちゃん一人で外出させたのか?」
「俺が追い出したみたいなもんだな。たぶんもう戻ってこない」
「は……?」

 ダン、と陽太がちゃぶ台を両手で叩き、カップ麺の汁が飛び散った。

「おい、どういうことだよ!」
「そのままの意味だよ」
「じゃあ、なんでそんな呑気にしてんだ!」

 陽太は俺の胸ぐらを掴んで強引に立たせた。

「慌てたところで何ができるんだ? だいたい、ステラは自分の意思で出ていったんだ」
「何って、走り回って探せばいいじゃねぇか!」
「もういいんだよ。無駄なんだ」
「お前、ステラちゃんのこと大事じゃねぇのかよ!」
「うるさいな!」

 俺は怒鳴りながら、陽太を突き飛ばした。陽太は唖然とした表情でこちらを見つめている。昨日と同じ、何かが壊れるような感覚があったが、もう止まれなかった。

「お前には関係ないだろ! これは俺とステラの問題だ!」
「そんなら、俺の問題でもある」
「違う! なんでそうやって首突っ込んでくるんだ。いつもいつも。前からお前のそういうところが、大っ嫌いなんだよ!」

 陽太の顔が固まった。それに気づいてなお、俺はまくし立てた。

「俺に構うな! いっつも勝手に俺のことわかった気になって、頼んでもないことして、何様なんだ!」
「ごめん……」

 ショックを顔に張り付けて、俺の言ってることを半分も理解しないまま謝る陽太に、一層怒りが湧いた。

「いきなり、熱くなって悪かったよ。ただ、わけを聞かせてくれねぇ
「ああ……」
「紙だけじゃなくて、タブレットとかも使ってたよな? ステラが読んだ漫画は全部チェックしたか?」
「全部は知らない。使い方教えたらすぐ覚えて、無料のやつなら好きに読んでいいって」
「じゃあその中に不健全なものがあったんだ」
「不健全?」
「ステラはラブコメがどうとか言ってたな。最近のラブコメって全年齢対象でも過激な表現があるらしいな。ちょっと調べたけど、驚いたよ。ステラはそういった漫画から歪んだ知識を身に付けてしまったんだろう」
「なに変なこと言ってんだよ……それじゃまるで、お前の母ちゃんみたいじゃんか……」
「知ったような口きくな!」

 陽太の胸ぐらを掴んだ。

「そうやって嘲笑ってたんだろ? 頭のおかしな母親に育てられた頭のおかしい男だって、哀れんでいたんだろ?」
「違えよ」
「言っておくが俺の母親はこんなもんじゃなかった。有害な漫画やアニメから遠ざけるのなんてほんの序の口だった……俺が勃起しているのに気づくとズボンを下ろされ、収まるまで謝りながらオナニーをさせられるんだ。あの男と同じようにならないようにって。誰にも手を出すことがないように、罪の意識を体に刻みこむって」

 絶句する陽太。あんぐりと口を開けて、何も言えないでいるのが間抜けで笑えるが、ずっとそばにいた友人がこれほどまでに歪んでいると知れば、誰でも言葉を失うだろう。でも、まだ全部じゃない。俺の醜く歪んだ内側を、こいつは何も知らない。

「そのうち、勃起不全になるだろうって、母さんは考えてた……でも、失敗したんだ。俺に流れている父親の血が濃かったんだろう」
「それは違うだろ……勃つのが普通で、それをできなくするってのが無理なだけで――」
「俺、ステラでオナニーしたよ」
「は……?」

 深夜、ステラが寝ているのを確かめた後に、トイレでズボンを下ろし、ステラの無邪気な笑顔を頭に浮かべて、自分のものを扱いた。罪悪感と興奮で脳が半分に割れそうになりながら右手を動かすと、ドロッとした液体が出てきた。自分の内側から出てきたそれを見るたび、この瞬間に地球上で自分が一番惨めな存在なんじゃないかと思えた。ステラが来てから、そんな夜が3回あった。
 母さんの教育は罪悪感と性的興奮を紐づけただけだった。俺にとって性は罪と常に隣り合わせで、中学や高校のクラスメイトが教室内で大きな声で下ネタを話すのは信じられなかった。けれど、彼らと自分とどちらが異常かと問われれば自分だと言えるだけの分別はある。彼らの会話を盗み聞いて知ったが、本当に好きな人では、オナニーができないらしい。罪悪感が勝るそうだ。だとしたら、俺はなんだ。週に一度、深夜で懺悔室のようなトイレで、右手を動かす自分はどれだけ異常な存在なんだ。自分の中から毒を抜かないと過ちを犯すのではないかという不安から、自分を罰するような自慰行為はどれだけ歪んでいるのだ。

「お前さ、どうしちゃったんだよ? 本当に蓮か?」
「最初から俺はこういう人間だ……だから、ステラは逃げて正解だった」
「逃げた……? じゃあ、なんだ、まさかお前! ステラちゃんに無理やり――」
「違う。突き飛ばしたよ。それがショックで逃げたんだろう」
「追いかけたのか?」
「いや」
「そんだけならさ、まだ謝れば済む話じゃねぇか?」
「もう顔向けできない。俺は邪な感情をもってるから。ステラの純な心をきっと傷つける」
「ああ、もうめんどくせえ! それはお前もステラちゃんのことが好きだってことだろ! 両想いなのになんでこうなんだよ!」

 今度は陽太が俺を突き飛ばそうとしたが、俺は陽太の胸ぐらから手を離さなかった。衝動的に陽太に頭突きをした。

「黙れ偽善者!」
「黙ってられるか!」

 みぞおちに陽太の拳がめり込んだ。背中を丸め数歩後ずさる俺に陽太が言った。

「俺は応援してたんだよ。ステラちゃんとお前ならお互いを救えるって。でも、お前が俺の想像よりも救えない糞野郎だって、今はっきりわかった」
「やっぱり、俺のこと見下してたんじゃねぇか。でなきゃ救うなんて発想でないよな?」
「友達助けたいって思うことがそんなに変か?」
「わかんねぇよ、友達いねぇからな!」

 まだ痛むみぞおちから手を離し陽太に反撃の一撃を食らわせた。それを皮切りに、会話は途切れ、言葉の代わりに暴力を交わし合った。顔、肩、腹、金的、脛、背中、互いの全身を殴り合い、最後に立っていたのは陽太だった。

 「どうしてこうなるんだよ……」

 勝者の声は酷く細く、今にも泣きだしそうだった。
 
「俺は一人でもステラちゃんを探すよ」

 そう言い残し陽太は部屋に背を向けた。バタンという音がして、抜け殻のような俺はまた一人で部屋に残された。
 また一つ大切だったものを失った。正確には、失ったのではなく、捨てたのだ。あるいは、壊したのだ。自らの手で。昨夜と同じように。
 陽のあたるような生活を夢見るのは、もうやめよう。大切な存在を求めるのは、もうやめよう。何をしたって、どうせ俺はまた壊すのだから。
 陽太との揉み合いで半分くらいこぼれたカップ麺を器に戻し、汁を吸って伸びた麺を啜った。口の中にできた傷に染み、血の味が舌に広がった。
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