野獣な御曹司の束縛デイズ

あかし瑞穂

文字の大きさ
3 / 9
1巻試し読み

3.

二日後の朝、綾香は秘書室で室内のチェックをしていた。それを終えると、入り口近くにある姿見の前に立つ。
いつものように長い黒髪を後ろで一つにくくり、細いストライプが入った紺のスーツをまとっている。これまでと変わらない冷静な秘書の姿がそこにあった。
始業時間は九時だが、綾香はいつも七時半には出社し、社長室の掃除をしていた。それからメールと郵便物を確認し、社長である海斗の出社を待つ。今日もその一連の流れを終えたところだ。
(引きぎ資料はもう用意できているから、後は……)
秘書室から社長室に繋がるドアを開け、中へ入った綾香は、ぐるりと周囲を見回した。部屋の一番奥にある社長机は、つややかなマホガニー製。
実用的なものを好む海斗は、室内の備品をスチール製にすることが多かったが、この机は祖父である会長が贈ってくれたものらしい。どっしりとした質感が、高級感をただよわせていた。
部屋の中央に配置された四人掛けのソファセットは、先週末に専用のクリーナーで拭いておいたおかげで、黒い革のつやが一層増していた。
社長机の後ろにしつらえた本棚のガラスにもくもりはなく、床にはチリ一つ落ちていない。入り口のドアの右手にある大きな窓からは、金色の朝日が差し込んでいた。
「これでいつ来られても大丈夫ね」
秘書室に戻った綾香は、壁に掛けられた時計を見た。八時半、と確認したところで廊下側のドアがノックされる。
(もういらしたのかしら)
綾香はドアに近付き、秘書らしい落ち着いた笑みを浮かべてドアノブを引いた――途端、全身が凍り付いた。
「お前っ……!?」
男性の声が秘書室に響く。綾香は目を大きく見開き、ドアの向こうから現れた人物を呆然と見上げた。
「あ……なた、は」
黒いスーツに包まれた長身に、思わず見とれそうなくらい端整な顔立ち。そして……海斗によく似た低い声。
(うそ……っ……!)
そこにいたのは、まさしく二日前にあやまちを犯しかけた相手――司だった。その彼が、信じられないといった表情で自分を見下ろしている。
――そうそう会うこともないと思っていたのに。
あの夜、熱い欲情を帯びていた瞳が、今は氷のように冷たく感じられる。軽蔑にも似たその瞳の色に、綾香の胸は痛んだ。
一方、司は、黙ったまま突っ立っている綾香を見下ろし、忌々いまいましげに口元をゆがめた。先に彼の方が冷静さを取り戻したらしい。
(もしかして……この人が、海斗さんの言っていた社長代理!?)
信じたくはなかったが、それ以外に彼がここにいる理由は考えられない。
綾香は、すかさず〝秘書〟の仮面をつけた。
その直前、思い出すまいとしていたあの夜の行為が胸をぎった。が、すぐにそれを振り払い、すうっと息を吸って吐く。
「……社長秘書の水瀬綾香です。よろしくお願いいたします」
そう言って、他人行儀に頭を下げた綾香をせせら笑うように、目の前の司が言った。
「……俺は、藤堂司。今日から海斗の代わりを務める、藤堂カンパニーの専務……お前の〝大事な〟社長の従兄いとこ、だ」
嫌味な言い方に、ぐっと綾香の息が詰まる。思わずにらみ付けてしまったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「そのように、社長から聞いております。社長が戻られるまでの二ヶ月間、精一杯補佐させていただきます」
そう答えた綾香を見る司の目は、優しいとは言えなかった。
「お前みたいな秘書を選ぶとは……あいつ、社長としては大したことないんだな」
(海斗さんを批判するの!?)
綾香はキッと司をにらんだ。
「私のことで、社長を批判されるのはおやめ下さい。社長には関係ございません」
すると司は、ふん、と鼻を鳴らして言葉を続けた。
「あいつには、以前から仕事の話になるたび『俺の秘書は本当に優秀で助けられてる』と聞かされていたんだ。その〝優秀さ〟とやらを証明してみろ。俺は人事権も行使できる。秘書として使いものにならなかったら、遠慮なく異動させるからな。覚悟しておけ」
綾香は、ぎゅっと唇を噛みながらも、「はい、承知いたしました」とまた頭を下げる。そして司の先に立って、社長室のドアを開けた。
つい、と司が大股歩きで社長室に入った。綾香も続いて入室し、ドアを閉める。いつもは海斗が座る席に、司がどかっと腰を下ろした。そしてつやのある机に肘をつくと、目の前に立つ綾香を無言のまま見上げた。
綾香は何食わぬ顔で、今後の業務についてのメモを読み上げる。
「……引きぎの資料はすでにご用意しております。それから本日のスケジュールですが、午前十時より……」
「全部キャンセルだ」
「は?」
綾香は顔を上げ、司の顔を見た。
「二度言わせるな。今日の予定はよほどの急務でない限り、全部キャンセルしろ。その代わり……」
じろり、と冷たい目で綾香をにらむ。
「今進行中の商談やプロジェクト関連の書類を全て見せろ。チェックし直す」
(私を全く信用していないのね、この男は)
はらわたが煮えくり返るのを押し隠して、綾香はいつもの冷静な笑みを浮かべた。
「……承知いたしました。すぐにお持ちいたします」
深々と礼をし、社長室から出ていく綾香は、背中に強い視線が突き刺さるのを感じていた。

(なに、あの男……っ!!)
確かに、あの時悪かったのは自分だけれど、あの感じの悪さはなんなのか。万が一会うことがあれば謝ろう、と思っていた自分が馬鹿みたいだ。
(傷付けたんじゃないかって……反省していたのに)
恐ろしく元気そうだった。おまけに、あの視線。どうやら綾香が傷付けたのは、彼のプライドだけだったらしい。
(それにしたって……)
秘書としての能力まで疑われては、海斗に申し訳ない。綾香のプライドにも火がついた。
このまま、尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。
ぱぱぱっと資料を集め、再び深々と頭を下げて社長室に入る。どん、と社長机に資料を置いた綾香は、にっこりと秘書スマイルを浮かべて言った。
「では、私は通常業務に戻ります。ご用がおありでしたら、いつでもお呼び下さいませ」
何を考えているのか分からない瞳が、綾香をとらえた。一瞬心臓が跳ねたが、そんなことは微塵みじんも感じさせず、笑みを保つ。
「……午前中に、鈴木すず き商事との今までのデータをまとめろ。それから、このプロジェクトの進捗しんちょく状況を担当者から聞きたい。後は……」
次から次へと出てくる指示に、綾香は慌てることなくメモを取って対応した。

***

昼食もコンビニのおにぎりにかぶりついただけで終わらせた綾香は、朝に与えられた山のような指示をほぼ休む間もなく全てこなしてから、社長室のドアをノックした。机に広げられた資料を眺めていた司が顔を上げる。綾香は机の前に行き、深々と頭を下げた。
「お先に失礼させていただきます、社長代理」
それを聞いて、司の目がすっと細くなった。
「上司がまだ仕事中だというのに、先に帰るのか?」
その嫌味っぽい言葉に、綾香も冷静な秘書スマイルで応戦した。
「本日指示された作業は、全て終了いたしました。明日の準備も済んでおります。業務が終われば、だらだらと残業せず帰宅し、英気を養って翌日に備える――というのが、我が社の方針ですから」
大体、今はもう午後八時だ。残業時間帯に何を言っているのだろうか。
「……酒は飲むなよ」
「は?」
聞き返した綾香に、司がにらみ付けるようにして言った。
「お前は飲むとそのあたりの男を手当たり次第、ベッドに引きずり込みそうだからな」
「……!!」
突然、あの夜のことを持ち出され、綾香は息を止めた。
(手当たり次第って……!?)
右手をぐっと握りしめる。
(いつでも私があんなことをすると思っているの、この男はっ!?)
この一日、彼の嫌味な態度に必死に耐えていたというのに。綾香の感情が一気に爆発した。
「あの日だけですっ! あれだって、慣れないお酒を飲み過ぎたせいです! もう二度とあんなことは起こりませんっ!!」
「へえ……?」
薄笑いを浮かべている司の顔を、思いっきり殴りたい衝動をどうにかこらえ、綾香は努めて冷静な声で言った。
「……確かに、あの夜のことは私のあやまちです。申し訳ございませんでした。私はもう忘れましたから、社長代理もどうかお気になさらないで下さい」
きっぱり言い切ると、再び頭を下げ、かつかつとヒールの音も高らかに社長室から出ていった。

***

「ったく……」
帰宅してシャワーを浴びた後、Tシャツに短パン姿で、れた頭にタオルを巻く。
そんな色気のない格好で冷蔵庫を開けた綾香は、発泡酒の缶に触れる。が、すぐに思い直して隣のオレンジジュースを手に取り、リビングのソファに腰を下ろした。
(悔しいっ……!!)
今思い出しても、腹が立つ。今日の自分は、秘書として完璧だったはずだ。胸の中で荒れ狂う感情だって、一かけらも表には出さなかったはず……なのに。
「いちいち嫌味を言うし、なんなのあの男はっ!!」
ぷしゅ、とプルタブを引き上げ、ぐびぐびとジュースを一気飲みし、からになった缶をダン、とテーブルに叩き付けるように置く。
「あああ、もう~っ、本当に人生最大の不覚だったわっ!!」
あの夜、どうしてあんな男にすがってしまったのだろう。同じ声でも、あの嫌味な男と優しい海斗では大違いなのに。
(そりゃ、仕事ができるってことは認めるけど)
今日一日傍にいただけで、司の優秀さは身に染みて分かった。こちらへの要求も高いが、司自身も慣れないはずの業務を軽々とこなしているのを見れば、文句のつけようがない。引きぎ資料も、一度目を通しただけで理解してしまったらしい。三十五歳と聞いているが、さすが藤堂カンパニーの専務を務めるだけのことはある――と、渋々ながらも感心せざるを得なかった。
綾香はふうと溜息をついてソファの背もたれに体を預けた。
今日は本当に疲れた。一日中、気を張りつめたまま仕事したから……おまけに、女性社員が頬を赤らめながら次々とやって来ては司についてあれこれ尋ねてくるものだから、それをさばくのも大変だった。
――綾香。
気を抜くと、あの夜聞いた司の声がよみがえってくる。その途端に、頬が、体が、かあっと熱くなる。
(いくら、海斗さんと綾菜の結婚式があったからって……お酒を飲んでいたからって……)
誰にも見せたことのない醜態しゅうたいを彼にさらしてしまった。会社でも幾度となく思い出し、そのたびに気合いを入れ直す羽目になった。今日一日、よく耐えたと自分で自分をめてやりたい。
(ま、まあ、向こうがけんか腰だったから、腹が立って落ち込んだり恥ずかしがったりする暇もなかった、っていうか……)
これから二ヶ月間、彼と顔を合わさなければならない。ううう……と思わずうめき声を上げてしまう。できることなら会社に行きたくない。
(でも私が職務を果たさないと、海斗さんが馬鹿にされてしまう)
それだけは嫌だ。自分の恋心はともかく、海斗の秘書としてのプライドは守らないといけない。恥ずかしがっている場合ではない。
馬鹿にしたような司の顔を思い出し、綾香はぎゅっと唇を噛んだ。
「……負けるもんですかぁっ!!」
感想 0

あなたにおすすめの小説

触れられないはずの私が、ただ一人の彼にだけ心も体も許してしまいました

由香
恋愛
男性に触れられると体調を崩す令嬢リリア。 そんな彼女にとって唯一“触れられる”存在は――幼なじみの公爵令息レオンだけだった。 手を取られ、抱き寄せられ、当たり前のように触れられる日々。 それがどれほど特別なことなのか、彼女はまだ知らない。 やがて政略結婚の話が持ち上がり、“触れられない相手との結婚”か、“彼に触れられる人生”かを選ぶことに。 「お前に触れていいのは俺だけだ」 逃げ場のない独占と、甘すぎる溺愛。 これは、触れられないはずの少女が、ただ一人にだけすべてを許していく物語。

【完結】泡になった約束

山田森湖
恋愛
三十九歳、専業主婦。 夫と娘を送り出し、静まり返ったキッチンで食器を洗う朝。 洗剤の泡が立っては消えるその繰り返しに、自分の人生を重ねながら、彼女は「ごく普通」の日常を受け入れている。 愛がないわけではない。けれど、満たされているとも言い切れない。 そんな午前中、何気なく出かけたスーパーで、背後から名前を呼ばれる。 振り返った先にいたのは、かつて確かに愛した男――元恋人・佐々木拓也。 平穏だったはずの毎日に、静かな波紋が広がり始める。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

crazy Love 〜元彼上司と復縁しますか?〜

鳴宮鶉子
恋愛
crazy Love 〜元彼上司と復縁しますか?〜

後宮入りしたら、冷酷な幼なじみ皇太子に囲われて逃げられません

由香
恋愛
幼い頃、ただ一人だけ優しかった少年。 けれど彼は――皇太子になっていた。 家の都合で後宮に入れられた私は、二度と会うはずのなかった幼なじみと再会する。 冷酷無慈悲と噂される彼は、なぜか私にだけ異常に甘くて―― 「他の男に触れるな。……昔から、お前は俺のものだろ」 囲われるように守られ、逃げ場を失う距離感。 けれど後宮は甘さだけじゃ生き残れない。 陰謀、嫉妬、命を狙う妃たち―― それでも彼は、私の手を離さない。 これは、後宮で“唯一の執着”に愛された少女の物語。

課長と私のほのぼの婚

藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。 舘林陽一35歳。 仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。 ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。 ※他サイトにも投稿。 ※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。

極上の彼女と最愛の彼 Vol.3

葉月 まい
恋愛
『極上の彼女と最愛の彼』第3弾 メンバーが結婚ラッシュの中、未だ独り身の吾郎 果たして彼にも幸せの女神は微笑むのか? そして瞳子や大河、メンバー達のその後は?