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1巻
1-1
プロローグ 裏切りとお嬢様の決意
「んっ……」
ぴちゃぴちゃと卑猥な音が、細く開いたドアの隙間から聞こえる。漏れ聞こえてくる衣擦れの音も、甘い喘ぎ声も、熱い吐息も、全てにまるで現実味がなかった。
僅かに見えるのは、ソファの上で抱き合い、何度も熱いキスを交わしている男女。上着を脱いだ男性の白いシャツの背中に、女性の手が回っている。こちらに背を向けている男性の顔は見えないが、彼を見上げている女性の頬は赤く染まっていた。
「――いいの? 婚約者を放っておいて」
誘惑の響きが含まれた声に、聞き慣れた低い声が答える。
「彼女は何もできない、綺麗で可愛いお人形だ。会長が目に入れても痛くないほど可愛がっている孫娘で、大人しくて俺の言いなり。妻としては理想的だろ? だが――」
「あんっ」
「俺は、お前のような強い女が好きだ」
――好き。
ドア越しに聞いたその言葉が鋭い刃となって、鷹司桜の胸を切り裂いた。
「……悪い人ね。結婚しても私とこんなこと、するつもりなんでしょう? 彼女が知ったら、どうなるかしらね?」
「どうもしない。あのお嬢様は泣くくらいしかできないだろう。まあ、泣かせるのは本意ではないから、バレないようにちょっと気を付ければいいだけだ」
「ふふっ……」
「もういいだろ? 今はお前の甘い肌を堪能したい」
その後聞こえてくるのは、もはや声ではなかった。経験のない桜が聞いても、男女の秘め事の音だとすぐに分かる。いつの間にか桜は、ドアと反対側の廊下の壁に背中を押し付けていた。足ががくがくと震えている。口もとに当てた右手の指も、冷たく強張った。
立派なドアの向こうは、専務室だ。中にいる女性は、専務の専属秘書の富永沙穂。そして男性は、三好真也。若くして営業部から出世したやり手の専務で――
――桜の婚約者、だ。
「――はあっはあっ……」
重い金属製の扉を引いて、桜は屋上に出た。
真冬の空気が、荒い息を白く染めている。ゆるくウェーブした栗色の髪や白いコート、薄い花柄のワンピースの裾を揺らして、冷たい風が通り過ぎていった。
思った通り、そこには誰もいない。今はまだ昼休みが終わったばかりで業務時間中だ。黒い金網のフェンスに囲まれたコンクリートの箱庭に、わざわざ来る物好きはいないだろう。
小さい頃、祖父に連れられてこの会社に来た時は、ここを秘密基地にしていた。その時から変わらない、誰もいない光景が広がっている。
「うっ……」
嗚咽が口から漏れた。人目に付かない場所を探すまでは、と我慢していた涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。
「ひっ……う、うっ……っ」
両足から力が抜けた桜は、その場にぺたんと座り込んだ。氷みたいに冷えたコンクリートの温度も、今は感じない。
流れる涙を拭きもせず、心臓を串刺しされたかのような痛みに、背中を丸める。灰色のコンクリートの上に落ちた涙が、ぽつんぽつんと小さな染みになった。
胸が痛い……重い……
――何もできないお人形。
(それがあの人……真也さんの本心……? だったら、今まで優しくしてくれた……のは)
鮮やかな彼の笑顔が目に浮かぶ。引き締まった口元が綻び、やや吊り目気味のまなじりが下がる、その顔が好きでたまらなかった。でも、あの笑顔は……
(私が……お祖父様の孫で、お父様の一人娘、だからなの……?)
この会社、鷹司コーポレーションの会長は桜の祖父で、社長は父だ。つまり、桜の結婚相手は次期社長になる可能性が高く、祖父は桜の結婚相手を重要視していた。
桜自身は引っ込み思案で大人しく、どちらかといえば若い男性は苦手だ。それもあって祖父が『儂がいい相手を探してやらねば!』と張り切り、専務の中でも若くやり手の真也を桜に紹介してくれた。
『桜さんはとても綺麗ですね。まるでお姫様のようだ』
真っ直ぐな黒髪を短く切り揃え、前髪はオールバック、きりっとした太めの眉に意志の強そうな瞳が印象的な真也は、華やかで大人の魅力を纏う男性だ。祖父に紹介された時、微笑む彼を前に頬を染めてしまったのは、桜のほうだった。
その後のお見合いの場で、緊張してロクに口もきけない桜を他愛ない話で笑わせてくれたことを覚えている。
『――桜。大学を卒業したら、すぐにでも結婚してほしい。貴女みたいな素敵な女性は、繋ぎ止めておかないと奪われてしまう』
彼からプロポーズされた時、どんなに嬉しかったか。
十歳以上も年上の彼が自分を選んでくれるなんて、桜は信じられなかったが、『桜の素直で可愛いところに惹かれた』と言われて頷いたのだ。
優しく笑う真也は、いつだって紳士的で、桜を大切に扱った。
仕事が忙しい彼とは滅多に会えないものの、お洒落でセンスのいいアクセサリーをプレゼントしたり、時には花束を持って訪ねてきたりと、小まめに連絡をくれる。
そんな真也をますます好きになった桜は、大学に通う傍ら花嫁修業に精を出していたのだ。
卒業まであと三ヶ月となった今日。ウェディングドレスが出来上がったとの連絡を受け、桜は試着をしようと挙式予定のホテルに出向いていた。
白いサテン地とレースを重ねた生地に真珠を散らしたパフスリーブのドレスはぴったりと身体に合い、皆に『お綺麗ですわ!』と褒められる。
そこで自分のスマホで写真を撮ってもらい、一刻も早く真也に見せようと、お昼休みが終わったばかりの会社を訪ねたのだ。
彼が専務室にいると聞いた桜は、彼を驚かそうと思い付き、連絡を断ってエレベーターで役員のフロアに行った。ところが、足取り軽く専務室に着き、ノックをしようとした時に、いつもは閉まっているドアが少し開いていることに気が付く。
そして、そのドアの隙間から聞こえてきたのだ――淫らな音が。
「――真也、さん……」
彼の秘書である沙穂の顔がちらつく。ストレートの黒髪を一つに束ね、アーモンド形の目が人目を惹く美人。
いつもほんのり赤みが入ったルージュをひいている彼女は、見るからに『仕事ができる秘書』で、真也も彼女を信頼している様子だった。専務室を訪ねた時に応対してもらったことが何度かある桜は、無駄なくテキパキとした沙穂に、とても感心したのを覚えている。
『専務、会議が始まりますわ。ご準備を。申し訳ございません、桜様。何分専務はお忙しくて』
そう言って微笑む沙穂に、実のところ桜は気後れしていた。沙穂は営業部からキャリアを積んで秘書になった大人の女性で、桜を見る瞳に侮るような色を時折浮かべるせいだ。
もちろん、あからさまな態度を彼女が取ったことは一度もなく、真也も祖父も父も何も気付いていない。幼い頃から『鷹司のお嬢様』という目で見られてきたお陰で、周囲の視線に敏感になっている桜だから感じることができただけだ。
――もしかして、仕事の忙しい真也さんが私の我儘に付き合わされてるって思っているのかしら?
(そう考えていたけれど)
ふっ、と桜は自嘲気味に唇を歪める。
沙穂が自分を快く思っていなかった原因は、そんなことじゃなかった。自分の恋人が桜と結婚しようとしているからだ。
沙穂と自分では全くタイプが違う。小柄で幼く見られがちな桜は、沙穂のような大人の美人ではない。
「真也さんは……」
――彼女は何もできない、綺麗で可愛いお人形だ。
――結婚しても私とこんなこと、するつもりなんでしょう?
心臓を締め付けられる痛みに、桜は右拳を胸に当てた。真也は結婚後も、沙穂と関係を続ける気……らしい。
(私が……)
何もできないから?
お人形だから?
社長令嬢だから?
彼女が強い女だから?
彼女を好きだから?
――だから、好きでもない私と結婚して……彼女とも……?
涙が止まらない。熱くなった喉の奥から、また嗚咽が漏れた。
「――こんなところで座り込んで、風邪引くよ?」
聞き慣れない男性の声にびくっと肩を揺らした桜は、表情を取り繕えない状態で顔を上げた。
まず目に入ったのは、グレーのスラックスと、緑色のちり取りを持った左手だ。視線を上げると、灰青色の作業着に笑みを浮かべた唇、そしてもさっとした濃い茶色の髪で半分隠れた顔が見える。
すっと桜の前に座った男性は、上着のポケットから青いハンカチを取り出し、彼女に手渡す。
「あ……」
桜はぎゅっとそのハンカチを握り締めた。右手で受け取ったハンカチの輪郭が滲む。
「怪我、してるわけじゃなさそうだね。立てる?」
大きな右手が差し出された。その指先は黒く染まっている。桜がぼんやりと彼の手を眺めていると、彼はちり取りを床に置いた。
「え……きゃっ⁉」
ふわっと桜の身体が浮く。がっしりとした腕が彼女の身体を抱き上げていた。
びっくりした桜が左上を見ると、長い前髪の間から綺麗な瞳が見える。
「いきなりごめん。でも、かなり身体冷えてるよね、顔色も悪いし。ここにいるのはまずい」
「え、あの……」
桜を抱きかかえた男性は、すたすたと歩き始めた。驚きのあまり、桜はされるがままになる。
「医務室に行くほどでもないと思うから、とりあえず俺の部署に連れていくね」
「は、はい……?」
頭の中がぐるぐると回り、何が何だかよく分からない。混乱し口籠もっている間に、男性は桜を抱いて器用にドアを押し開け、階段を下り始めた。
彼の足取りは確かで、かんかんかんと軽やかな音が階段に響く。いつの間にか涙が止まっていることに気付かず、桜は大人しく運ばれたのだった。
***
湯気の立つマグカップに口を付けると、ココアの甘さが身体中に染み渡る気がした。
お姫様抱っこされて呆然としていた桜が我に返った時には、男性はもうこの部屋の前にいた。エレベーターを使わずに、屋上から非常階段を下りたのだ。
「よいしょっと」
専務室と比べると簡素なドアの前で、男性は桜を下ろす。そしてドアを開けると、中に入るようにと伝えた。
「麻奈さーん、この子にホットココア淹れてくれるー? あ、しばらくここで休んでね」
恐る恐る中に入った桜は、男性と同じ作業用の上着を着た、小柄な女性に迎えられる。白髪交じりの髪をふわりと肩に下ろした彼女は、桜を見ると目を丸くした。
「あらあら、あなた真っ青な顔してるじゃない! 女に冷えは大敵よ! さ、こちらに来て座ってちょうだい」
あれよあれよという間に部屋の中央にあるストーブの前に案内される。桜は出してもらった椅子に座り、冷たく強張った手をストーブにかざした。すると、「はい、ミルクココアよ。あったまるから」と真っ赤なマグカップが差し出され、現在に至ったのだ。
「あ、りがとうございます……」
湯気もカップも温かい。
ほう、と溜息をついた桜の横で、女性がふふふと笑った。
「課長、いつも何かしら拾ってくるんだけど、こんな可愛いお嬢さんを連れてくるなんて! ちょっと見直したわ」
「課長、って?」
ふと見ると、さっきの男性がいない。桜は膝の上に置いたハンカチをちらっと見た。
「八神彬良課長。この備品在庫課のトップよ。私は中谷麻奈。よろしくね、鷹司さん」
「はい、よろしくお願いしま……す?」
そう言って、桜は小首を傾げた。目の前で微笑む女性に見覚えがあるような気がする。
(どこでだったかしら……?)
「さあ、ココアを飲んで温まってちょうだい。課長ならすぐに戻ってくるから」
言われるがまま、桜はマグカップからココアを一口飲んだ。優しい味が口の中に広がる。冷え切った身体には、甘い温かさがご馳走だった。
そして桜は周りを見回す。
ここは物置だろうかと思うほど、物が多く広い部屋だ。入り口から見て奥側が窓、両方の壁に備え付けの棚があり、その上にはプラスチック製の引き出しがずらりと並んでいる。『消しゴム』『シャープペンシル』『三色ペン』など、備品と思われる名称が、引き出しにシールで貼ってあった。
(備品在庫課って、備品の管理をする部署なのかしら? たくさん在庫が……)
桜が座っている椅子が元々置いてあった机は、二台ずつ縦二列に並べられていたうちの一つ。その机の奥側、お誕生日席の机に『課長 八神彬良』と書かれた卓上ネームプレートが置いてある。
「どう? 少しは温まったかしら?」
麻奈がにこにこと話しかけてきた。
「は、はい。大丈夫です……」
桜が答えるのと同時に、ぱたんと入り口のほうから音がする。振り返ると、さっきの男性――八神がちり取りを持って部屋に入ってくるところだった。彼は桜の傍まで来て、にっこりと笑う。
「ああ、随分顔色が戻ったね。良かった」
麻奈がすっと八神の隣に立ち、机のほうを指さして言った。
「課長、営業部から例の話が来てましたよ? さっさと済ませてください」
「はいはい。――ここなら人の出入りは少ないし、ゆっくりしていけばいいよ、鷹司さん」
八神はぽんと桜の頭を軽く叩くと、自席へ歩いていく。その後ろ姿をぼーっと見ていた桜は、はっと気が付いた。
「あの! 私、名前を」
椅子に座った八神が、桜に顔を向ける。
「鷹司桜さん――会長の孫娘で社長の娘さん、でしょう? 写真と同じだからすぐに分かったよ」
「写真、ですか?」
「あれ、知らないの?」
八神の口の端がにいと上がった。
「会長、君を溺愛してるよね。成人式の振り袖姿の写真、スマホの待ち受けにしていて――『桜はこんなに綺麗なだけでなく、心根も優しい娘なんだ』って自慢してるんだよ。俺も自慢されたことあるから」
(おおお、お祖父様ーっ!)
かっと桜の頬に熱が上った。確かに祖父は、一人しかいない女孫である桜を可愛がってくれているが……社員にまで自慢していたなんて。
「まあ、いいんじゃないかしら。会長の親ばか……いえ、爺ばかは今に始まったことじゃないし」
麻奈が笑いながら、ほかほかのタオルを桜に差し出した。桜はお礼を言ってマグカップを机に置き、タオルを受け取る。顔を拭くと、じわりと温もりが肌に伝わってきた。
「あの……本当にありがとうございます。助かりました」
桜が頭を下げると、「いいよ、気にしないで」と八神が笑う。タオルを桜から受け取った麻奈もにこやかに言った。
「本当に素直な、いいお嬢さんねえ。可愛がっている会長のお気持ちが分かるわ~」
――素直な、いいお嬢さん。
その言葉がずきんと胸の奥を刺す。桜は咄嗟に目を伏せ下唇を噛んだ。
(真也さんは……お人形さんだって……)
思い返せば、彼に『好きだ』と言われたことは一度もない。『綺麗だ』『可愛い』……そう言われるのが嬉しくて……だから、今まで気付かなかったのだ。
(本当は、沙穂さんみたいな人が好きなのに、無理して私に付き合ってくれてたのね)
くすりと小さく笑う沙穂の顔が目に浮かぶ。
今の自分――何もできないお人形では、彼に好かれないのだろう。だけど、どうしたらいいのか、分からない。
「どうしたの?」
「えっ」
目の前に、机に座っていたはずの八神がいる。彼は桜の横に屈み込み、じっと彼女を見つめていた。
「言いたくないなら言わなくてもいいけど……何か悩みがあるんじゃないかな?」
「っ」
びくっと身体を震わせた桜に、八神は穏やかに言葉を続ける。
「ここには麻奈さんと俺以外に誰もいない。君からしたらおじさんだろうけど、相談に乗るくらいはできるよ?」
麻奈が両手を腰に当てて、八神に文句を言う。
「課長、それ私への嫌味かしら? まだ三十五歳の若造のくせにおじさんだなんて」
(三十五……)
真也と同じ年だ。もしかして、同期なのかもしれない。
鋭い印象の真也とは違い、ふわっとした雰囲気の八神。泣いていた桜をここまで連れてきて、面倒をみてくれた。長い前髪で顔はよく分からないものの、口元は優しく微笑んでいる。
(それに――)
自分が『鷹司桜』だと知っていても、普通の態度だった。麻奈もそうだ。桜に媚びることなく、『一人の女性』として扱ってくれている。
膝の上に置かれたハンカチ。桜はそれを右手でそっと握ってみた。ほんの少し、右の手のひらが温かくなった気がする。
――この人達なら、信じられる。
会ったばかりで何の根拠もないけれど、そう思える。
桜は大きく息を吸って、吐いた。ゆっくり八神の顔を見る。そして――何とか声を絞り出した。
「……私……何も、できないんです……」
「え?」
首を傾げた八神の前で、桜は俯く。
「祖父や……父に、頼ってばかり、で……お人形さん……だって……」
八神は黙ったまま、話を聞いている。
「仕事、ができる大人の、女性じゃ……ないし、引っ込み思案、で……」
自信に満ちた笑みを浮かべる沙穂の顔がちらつく。
そう。仕事ができて、美人で華やかな、あんな女性だったら――
(きっと、『好きだ』って言ってもらえたんだ……真也さんに)
喉の奥に熱いものがせり上がってくる。じわりと視界が滲んだ。
「だ、から……好き、になって……もらえな」
震える両手が、ふいに大きな手に包まれた。温かく、たこのある硬い感触が伝わってくる。
「鷹司さん」
八神の声が近くで聞こえた。桜は俯いたまま、顔を上げられずにいる。
「君は何もできないんじゃない」
「……っ⁉」
「やったことがないだけだよ。経験不足なんだ」
「え……?」
経験不足――その言葉に、桜は八神を見た。彼は穏やかに頷く。
「確か、まだ大学生だよね? 社会に出たことがないなら、仕事ができなくて当たり前だし、保護者にだって頼っていい」
八神がそっと右手を伸ばして、桜の膝の上のハンカチを取り、いつの間にか濡れていた彼女の頬を拭いた。長い指がゆっくりとその頬を撫でる。
「それに君はお人形なんかじゃないよ。ほら、こんなに悲しんでいるじゃないか。お人形なら何も感じないはずだ」
「……あ……」
左頬に当たる温かい手。その手の感触を、確かに桜は感じている。
ふと、前髪の間から八神の目が見えた。綺麗な漆黒の瞳がじっと自分を見つめている。穏やかで優しいその瞳に、吸い込まれそうだ。
「もし君が……何もできないと言われたのが嫌だったのなら、やってみればいい。自分からやってみて、初めてできるかできないかが分かるんだよ」
「えっ?」
桜は大きく目を見開いた。
(私、が? そう……だ、これまで私は、自分から何かをしたことがなかったわ……。真也さんとの婚約は、向こうから申し込まれて、それを受けただけ。好きと言われていないけれど、私だって真也さんに好きだって言ってない。自分の気持ちを伝えたことすら、ないじゃない……)
このまま結婚してしまってもいいの? お人形扱いされたまま、真也さんが……あの人と恋人同士のまま……
そう考えた瞬間、どくりと心臓が跳ねる。
――嫌、だ。
桜の心の奥底で、小さな声がする。そう……このままじゃ、嫌。
お人形扱いされるのも。今のまま結婚するのも。何もできないって思われたままなのも。
(じゃあ、どうしたらいいの?)
何もしなければ、春には結婚するのだ――あの人を好きな彼と。
(嫌……っ……!)
心臓が締め付けられるみたいに痛む。
桜はぎゅっと膝の上で拳を握り締めた。少なくとも、彼に好かれる女性にならないと、結婚なんてできない。
『何もできないと言われたのが嫌だったなら、やってみればいい』
八神の言葉が、桜の頭の中で響く。
自分からやってみる。
(沙穂さんみたいに大人で、仕事もできる女性だったら……真也さんは)
――自分を見てくれるように、なるのだろうか。
(私……)
ある考えが、心の底からゆっくりと浮かんでくる。
(私ができることは……)
『やったことがないだけだよ。経験不足なんだ』
胸に何とも言えない不安が広がっていく。
(私にできるの……? 今まで自分から動いたことがないのに? ずっと、お祖父様やお父様の言う通りにしてきたのに?)
でも……このままじゃ、嫌……!
唇を噛んだ桜を見た八神は、くすりと笑い、右手で彼女の頭をよしよしと撫でた。
「大丈夫。君ならできるよ。今だってちゃんと自分の気持ちを言えただろう?」
ふっと桜の身体から力が抜けた。
彼女が考えていたことの答えをさらりと言った後、八神はまた穏やかに微笑む。
桜の胸の中から、灰色の不安が溶けて流れ出ていく。彼の温かい手と優しい声が、心を温かくしてくれた。心を抱き締められた、そんな気がする。
『大丈夫』
彼のそのたった一言が、桜の心を押した。
「ありがとう……ございます」
八神の言葉を胸に仕舞って、小さく微笑む。そんな桜の頭を、彼はまた優しく撫でてくれたのだった。
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