課長はヒミツの御曹司

あかし瑞穂

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1巻

1-3

 そんな桜の態度を見て、少しずつだが周囲の姿勢はやわらいで……とまではいかなかった。
 四人の同期とは、未だ一線を引いた関係のままだ。真面目な仕事ぶりは認めてくれたらしいものの、やはりどこか遠慮がちだった。先輩秘書達も、他の同期と桜とでは、明らかに態度を変える。
 なるべく目立たないようにしているつもりだが、それでも他の社員と同じように、とはいかないのかもしれない。

(すぐには無理でも、そのうちに仲良くなれたら……)

 桜が物思いにふけっている間に、コピー機は止まっていた。彼女はコピーし終わった資料をダブルクリップで留め、会議室に運ぶ。
 白いブラウスに紺地こんじのⅤネックカーディガン、そして同色のタイトスカート姿の桜は、髪を後ろで一つに束ね、なるべく地味なよそおいを心掛けていた。それでも、廊下を歩いていると、視線を感じる。

(まだ一ヶ月半だもの。頑張らないと)

 資料を届けた会議室には、立ち話をしている安藤課長と鷹司保部長の姿があった。桜が社内で従兄いとこに会ったのは、これが初めてだ。
 保は真也と同じくらい背が高い。柔らかそうな栗色くりいろの髪にたれがちの目をした彼は、セクシー度では社内一だと女性社員に評判だ。もっとも、従兄いとこの一筋縄ではいかない性格を知り尽くしている桜には、その評判はよく分からなかった。

「失礼します」

 お辞儀をし、ロの字型に設置された机の上に資料を置いていく。

「ああ、桜さん」

 保がにっこりと笑って、資料を配り終えた彼女に話し掛けてきた。桜は保の前に立ち、彼を見上げる。

「はい、何でしょうか、保部長」

 保は優しい笑みを浮かべた。

「今日の会議のお茶出し、お願いできるかな。桜さんのれるお茶は美味おいしいから」
(他部署の方の前に初めて出られるんだわ!)
「は、はい!」

 桜が勢い良く返事をすると、保は隣に立つ安藤課長ににこやかに言った。

「彼女、お茶をたしなんでいるし、コーヒーや紅茶をれるのも上手いんだ。その技量を活かさない手はないと思うな」

 気のせいか、安藤課長の顔色が若干悪くなる。

「そ、そうですね。分かりました。……鷹司さん、お願いします」
「はい、承知いたしました。では、緑茶をお持ちしますね」

 お辞儀をして会議室を後にした桜は、足取り軽く秘書課に向かった。


「富永さん」

 秘書課に戻った桜は、沙穂の席に近付いた。パソコンのキーボードをたたいていた沙穂が顔を上げる。

「資料は全て配り終えました。会議室にお茶を運ぶよう、保部長に頼まれましたので、れてきますね」
「……保部長が? あなたに?」

 じろりとにらまれた桜は、「はい」と短く答える。すると、沙穂がすっと席を立つ。黒のパンツスーツ姿の彼女が、桜を見下ろして言う。

「じゃあ、お茶はあなたがれてもらえるかしら。会議室には私が運びます」
「富永さんが?」

 桜は目を見張った。秘書課ではお茶出しの仕事もするが、少なくとも今まで沙穂がしている姿は見たことがない。

「ええ。まだあなたを外に出すわけにはいきませんから」

 沙穂がふっとわらう。桜は弾んでいた気持ちが、すっと引いていくのを感じた。

「……分かりました。では、用意しますので、お願いいたします」

 頭を下げると、秘書課の隣に設置されている給湯室へ向かう。

(まだまだなのに……期待してしまってはだめよね)

 急須と湯呑を用意しながら、内心で溜息をついた。
 今日の会議は経営会議だ。会長、社長以下、部長クラスが出席する。お茶出しとはいえ、秘書課外で初めての仕事だった。

(お祖父じい様やお父様……それに真也さんに、ちゃんとやっているところを見せられるかも、なんて……)

 まだ外に出せない、と沙穂が言うならそうなのだろう。彼女への桜の感情がどうであれ、秘書として沙穂が優秀であることは、十分承知している。
 こぽこぽこぽ……
 ワゴンの上に置いたトレイに湯呑を並べ、桜は沸騰ふっとうしたお湯を入れた。急須に茶葉を入れ、少し冷めたお湯を湯呑から急須に移す。葉が開くのを待って急須を何回か回し、湯呑に均等に注いでいった。たちまち心地良い香りが立ち昇る。
 人数分のお茶をれ終わる頃に、沙穂が給湯室に顔を出した。

「用意できたかしら?」
「はい、ちょうどれ終わりました」

 沙穂はちらと湯呑に目をやり、「ご苦労さま。後片付けもよろしくね」と言ってワゴンを押していく。桜は「はい」と返事をした後、洗い物を始めた。


   ***


「……桜」
「保部長。お疲れさまです」

 会議終了後、給湯室で湯呑を洗っていた桜は、入り口付近に保が立っているのを見付けた。いつも穏やかな笑みを浮かべている従兄いとこが眉をひそめている。

(何か不手際でもあったのかしら?)

 桜は水道を止め、彼に向き合った。

「どうして桜がお茶を運んでこなかったんだい?」
「え?」

 目を丸くする桜を、保がじっと見つめる。

「さっき会議で出たお茶、好評だったよ。いつもよりも美味おいしいってね」
「あ、ありがとうございます!」

 桜は口元をほころばせた。喜んでもらえたと思うと嬉しくなる。その様子を見た保は、くっと唇を引き締めた。

「やっぱり桜がれたんだね。俺はすぐ分かった。祖父じいさんや伯父さんも欠席でなければ分かったと思う。三好は――気付かなかったようだが……」
「保部長?」
「富永さんが桜の指導担当だったね。安藤課長に聞いた」

 苦々しい顔をした彼が、桜に告げる。

「他の役員が『いつもとは違う! 美味うまい!』と言った時、彼女は『ありがとうございます。温度に気を付けてれてますの』と言っていたよ」
「……っ」

 桜は息を呑んだ。沙穂の言葉は嘘ではない。現に桜はお茶の温度に気を付けたのだから。だが、そのセリフを聞いた役員達がどう思うのかは明白だった。

(ま、さか)

 いつもはお茶出しなどしない沙穂がみずからやると言ったのは……このため?

(どうして?)

 こんなことをしなくても、沙穂が優秀な秘書だということは皆が知っているのに。

「……桜」

 保の瞳に鋭い光が宿る。普段の温厚な従兄いとこは、そこにはいなかった。

「人事部長の権限を個人的な感情で使うわけにはいかない。だが、もし――」
「保にい様」

 桜は保の言葉をさえぎる。

「……私は大丈夫です。私の我儘わがままを認めてこの会社に入れてくれたお祖父じい様やお父様のためにも、頑張るって決めたんです。こうやって心配してくれる保にい様のためにも」

 ――そして、『大丈夫』と言ってくれた、あの人のためにも。

「もう十分良くしてもらってます。だって秘書課に私が入ったの、お祖父じい様が保にい様に頼み込んだせいなのでしょう? ……それだけで特別扱いですもの」
「桜」

 困ったような表情を浮かべる保に、桜は小さく微笑ほほえんだ。

「自分でどうにもできないことがあれば相談します。だから今は、見守っていてもらえると、嬉しいです……保部長」
「……分かった。ったく、頑固なところはじいさん似だな」

 保が頭をくしゃりとく。少し乱れた前髪が、小さい頃のようだ。
 桜はふふっと笑い、保が立ち去った後で、洗い物を再開したのだった。


   ***


 終業時刻を知らせるチャイムが鳴った後。

(会議の件はともかく、何とか一日無事に終わったわ……)

 薄手の白のカーディガンを羽織はおり、黒いショルダーバッグを左肩に掛けた桜は、秘書課を出た。エレベーターホールに向かおうとした時、後ろから声を掛けられる。

「桜」

 鋭さの混ざったその声に、どきんと心臓が動き、桜はゆっくりと後ろを振り返った。
 黒いトレンチコートを着た真也が、二メートルほど向こうにいる。立ち止まった桜のもとに、かつんかつんと音を立てて近付いてきた。
 桜の目の前まで来た彼は、薄い唇を引き締めている。オールバックに上げた前髪が幾本かぱらりと落ちていて、その様子が男の色気をかもしていた。

「……三好専務」

 入社以来、会社で会うのは初めてだ。そして二人きりで話すのも久しぶり。忙しいと言い訳して、桜が会わないようにしていたのだ。
 真也は桜をむすっとした顔で見下ろす。

「いつまでこんなことをしているつもりだ?」
「えっ?」

 桜が目を見張ると、彼は苛立いらだたし気に話を続ける。

「さ……富永に聞いた。秘書課に入った新人のうち、一番出来が悪いんだろう?」

 沙穂。真也はそう言いかけたのだ。桜の身体から、ゆっくりと体温が奪われていく。

「未だに役員の出張に同行もできない。任せられるのは雑務だけだと。教えるほうが大変だと言われた」

 彼の言葉は、嘘というわけではない。桜がしている仕事は、秘書課内の雑用ばかりだ。

「働く必要などないだろう。卒業後すぐに結婚する予定だった桜が、エリート揃いの秘書課でやっていけるとは思えない。大方、会長あたりが保部長に手を回したんだろうが」

 眉をひそめたまま、真也が言う。就職すると言い出すまで、こんな不機嫌そうな彼の顔を見たことがなかった。いつでも微笑ほほえんでいて――愛されていると勘違いするぐらい優しかった。あの頃の、真也と沙穂を見る前の桜だったら、こんな彼におびえて、何も言えなくなったに違いない。

(だけど、今の私は違う)

 桜はぐっとお腹に力を入れる。

「……働きたいんです。確かに私は今まで何の準備もしていませんでしたから、一番出来が悪いかもしれません。でも、真剣に取り組んでいます。少しずつですが、任される仕事も増えているんです」

 そう言い返すと、真也がすっと目を細めた。

「えらく生意気な口をたたくようになったんだな。素直で可愛かったのに」
『綺麗で可愛いお人形だ』

 あの時の真也の言葉が、頭の中でリピートする。

(お人形みたいな私は、好きじゃないくせに)

 彼が好きなのは大人の女性――沙穂だ。
 桜がぎゅっと唇を噛んでうつむくと、背中のほうからのんびりとした声が聞こえてきた。

「――今でも鷹司さんは可愛いよ、三好専務」

 真也が息を呑む音が聞こえる。
 桜の左肩がぽんとたたかれた。顔を向けると、もさっとした前髪の男性が視界に入った。今の彼は作業着ではなく、ライトグレーのスーツの上からベージュのトレンチコートを羽織はおっている。

「八神、課長」

 桜が小さくそう呼ぶと、真也のまとう空気が真冬みたいに冷たくなった。八神が彼女の隣に立ち、真也と向かい合う。
 切れるような鋭い雰囲気の真也に、ふわりとした感じの八神。二人はほぼ同じ体格だが、受ける印象がまるで違う。

「八神? お前、桜と知り合いなのか?」
「仕事上、俺の顔が広いのはお前だって知ってるだろう、三好」

 八神の声は穏やかで、いつもと変わらない。一方、真也はふんとばかにした態度でわらう。

「備品在庫課か。負け犬のお前にはぴったりだよな」
「俺は今の仕事を気に入ってる。前よりもやりがいがあるからな。……それはそうと、三好」

 静かな口調で八神が話し始めた。

「婚約者が自立したいと頑張っているんだろ。そこは応援すべきじゃないのか」

 すると、真也が苦虫を噛み潰したような顔になる。

「聞いていたのか。趣味悪いな」

 そう言われても、八神の飄々ひょうひょうとした態度はそのままだ。

。それより、鷹司さんは真面目で、目立たない仕事にも手を抜かないし、丁寧にやりげている。慣れてくれば大化けすると思うがな」
「八神課長……」

 八神は自分の仕事ぶりを評価してくれている。そう感じた桜の胸の底がほわんと温かくなった。
 けれど、真也の瞳はぎらりと光る。彼は八神を見た後、桜に視線を移し、ふっと唇を緩めた。

「桜、今から食事に行こう。仕事のこともちゃんと話したい」
「私、は」

 何故だろう。真也の食事の誘いが以前はあんなに嬉しかったのに、今は戸惑いのほうが大きい。
 自分に差し出された右手を見て、桜は一歩後ずさった。真也の口元がぴくりと動く。

「桜――」

 その時、新たにすずやかな声がした。

「三好専務、ここにいらっしゃったのですか」

 どくん……
 一瞬、桜の視界がぶれる。
 真也が右手を下ろし後ろを振り向く。黒のパンツスーツを身にまとった沙穂が、こちらに近付いてくるところだった。

「……富永」

 どくん、どくん……
 桜は声が出せず、身体も動かない。

「明日の予定を言い忘れておりまして……あら、鷹司さんに八神課長」

 くすりと笑う沙穂の唇に塗られたルージュが、やたらとあかく見える。真也の隣に立つ彼女は、桜よりもずっと大人の女性で……そして美男美女の二人はお似合いだった。
 どくん、どくん、どくん……
 ショルダーバッグのひもを持つ桜の左手が強張こわばる。

「こんなところに突っ立って、何をしているの? 三好専務に用事でも?」

 声にあざけりの色が混ざっているのは、気のせいじゃない。
 桜は目を大きく見開いたまま、悪意に満ちた微笑ほほえみを浮かべている沙穂を見た。

(声が、出な……)

 次の瞬間、広い胸に肩をふわりと引き寄せられる。

「一緒にお茶でもどうかなって誘ってたんだよ。ねえ、桜さん?」
(え?)

 桜が顔を上げると、すぐ間近に八神の顔があった。長い前髪の隙間から見える綺麗な瞳に、さっきとは違う意味で心臓が跳ねる。

「八神っ⁉」

 真也が声を荒らげると、八神はそちらに顔を向けた。

「秘書がお呼びですよ、三好専務。では、はここで」
「八神、貴様っ……!」

 一歩前に出ようとした真也の右の二の腕に、沙穂の手が触れる。

「専務、こちらがスケジュールですわ」

 黒い上着に食い込む白い指に、桜は視線を奪われた。けれど真也の視線が沙穂に向いた瞬間、右手首を温かい手に掴まれる。

「行くよ、桜さん」

 八神が桜を引っ張るように歩き始める。

「は、い……」

 慌ててお辞儀をした桜は、八神に連れられてその場を去った。力が入らない足を無理やり動かす。
 心臓が痛い。胸が痛い。
 ――でも、その痛みが。
 真也と沙穂が二人でいるところを見たせいなのか。
 ――それとも。

(桜さん、って……)

 目の前を歩く大きな背中のこの人に、掴まれた手首が温かいせいなのか。
 ――どちらなのか、桜には分からなかった。


   ***


「――はい、桜さん」
「ありがとう、ございます……」

 ほかほかの湯気ゆげが立つ紙コップを八神に渡された桜は、おずおずと礼を言った。ふふっと口元をほころばせた彼は、桜の左隣に腰を下ろしホットコーヒーを美味おいしそうに飲む。
 今二人が座っているのは、会社から徒歩十分の場所にある公園のベンチだ。入り口にあるコンビニでホットコーヒーとカフェラテを買った八神が、桜を連れて公園に入り、街灯近くのベンチに座らせてくれた。日中は汗ばむ日もあるが、夜になると少し冷え込むこの季節、てのカフェラテのぬくもりが、指先に優しい。
 桜はカフェラテの甘みを味わいながら、ゆっくりと空を見上げた。都心だからそれほど多くないものの、帰宅途中に見る夜空よりも、小さな星がまたたいているように感じる。

「……桜さん?」

 しばらくぼうっとしていた桜は、掛けられた声にびくっと肩を震わせた。半分陰になった八神の顔を見上げると、心臓が痛いくらいに高鳴る。

(変だわ、私。こんなにどきどきしているなんて)
「あ、あの……桜さんって」
「ああ、ごめんね?」

 優しい声で八神が謝った。

「社内に『鷹司さん』は沢山いるからね。下の名前のほうがいいかと思って。嫌だった?」

 ぶんぶんと桜は首を横に振る。彼は「良かった」とまた笑った。

(そう、よね。特別なことじゃなかったんだ……)

 会長である祖父も、社長である父やすひろも、従兄いとこの保も、そして叔父で副社長のげんろうを含め、他の親戚も皆『鷹司』だ。そのため、保は、社内では『保部長』と下の名前で呼ばれている。

(……私)

 少し――ほんの少しだけ、がっかりしてる?

(この人に、『桜さん』って呼ばれたことが、特別じゃないって分かったから?)

 何かが桜の胸の底でうごめく。けれど、は形になる前に、するりと消え失せてしまう。

「……今日の経営会議、総務部長代理で俺が出席してたんだけど――」

 八神はそう言って、桜の顔を見下ろした。物思いにふけっていた桜は目を見開き、彼の顔を間近で見る。
 よく見ると、彼の鼻筋は通っているし、笑みを浮かべている薄い唇も綺麗な形をしている。前髪で目の形はそれほど分からないが、もしかしたら八神はかなりの美形なのかもしれない。

「お茶、美味うまかったよ。ありがとう、桜さん」
「え……?」

 桜が呆然とつぶやくと、八神は「あれ、桜さんがれたんでしょう?」とこともなげに言う。

「今年の新人が入る前、秘書課から出るお茶はひどくて有名で、大事なお客様には外からデリバリーしてもらっている人もいたくらいだったんだ。麻奈さんなんかはぷりぷり怒ってたよ、もっと練習しろって」
「……っ」
「でも、今日いきなり美味うまくなってたから、おそらく新人の誰かがれたんだろうと見当が付いた。秘書課の古株達がお茶くみの練習をしたなんて話、聞いてないしね。そしてさっきの三好の言葉。雑務しか任せられない――裏を返せば、雑務は全て桜さんがやってるってことだ。どうも今の秘書達は、役員に同行するのがステータスらしくて、それ以外の仕事がおざなりなんだよね。お茶くみなんて、その最たるものだ。だけど今日のお茶は、丁寧にれたものだった。あれはお茶くみをばかにしてる彼女達にはできない」
「八神、課長」
「それにね?」

 彼は悪戯いたずらっぽくささやいた。

「保がお茶を飲んで自慢気な顔をしてたんだよ。きっと桜さんに頼んだんだろうなと思った。もっとも、富永さんの言葉を聞いた途端、しかめっ面になってたけど」
「保にい様……」

 桜には、その光景がまざまざと目に浮かんだ。少しうるんだ瞳を八神に向ける。彼はまたコーヒーを飲んでいた。

(あら?)

 その時、桜はふと気付いた。さっき、八神は真也を『三好』と呼び捨てにしていなかったか。それに『保』とも。そういえば、八神は真也と同じ年なので、保とも年齢が一緒ということになる。

「あの、八神課長って、真也さ……三好専務や保部長と親しいのですか?」
「ああ、俺達は同期だよ。三好は最初に配属された部署が同じだったし、保は新人研修の時に泊まった寮が同室だった」
「そう、だったんですね」

 その割には、真也の態度はに落ちない。八神をにらみ付けて『負け犬』と言うなんて。

(あんな真也さん、見たことなかった)

 桜の目から見ても、あまり感じのいいものではなかった。
 もし何事もなく予定通り結婚していたら、彼のあの一面を知らないまま新婚生活を送っていたのだろうか。出世頭の優しいエリートが旦那様の、何不自由ない生活――夫は自分を愛している、そう信じて。
 ぞくりと寒気が背筋を襲った。慌てて、少しぬるくなったカフェラテを二口飲む。

「三好との食事に割り込んだのは悪かったね。でも、桜さんが行きたくなさそうだったから、ついお節介を焼いてしまった」
「いいえ、ありがとうございました。私……ちょっと彼と距離を置きたくて」
「そう」

 八神はそれ以上問い詰めることもなく、コーヒーをゆっくり飲んだ。桜もその隣で、黙ってカフェラテを口にする。

(この人のそばって、安心する……)

 穏やかで、半分しか見えない顔でも、にこやかなことが分かる八神。真也との会話や、お茶くみの話から考えて、頭が切れる人なのだろう。
 いつも桜がつらい時にそっとそばに来てくれて、励ましてくれて……
 温かい。八神といると、心が優しい温かさで満たされる。

(真也さんのこと、こんなふうに思わなかった)

 どきどきして、憧れていて、会話すら上手くできない。そう、熱に浮かされていた。

「……八神課長。いつもありがとうございます。あなたのお陰で私……頑張れそうです」

 桜は小さく笑い、八神はいつものようにぽんぽんと彼女の頭を軽くたたいたのだった。


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