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1巻
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しおりを挟む「飲み過ぎじゃないのか、水無」
氷川の左隣に座る八重倉が、眉を顰めて言う。銀縁眼鏡の奥の瞳も、琴葉を咎めているように見えた。
氷川と同じ色合いのブルーのワイシャツを着ているにもかかわらず、八重倉は不思議とくだけた感じにならない。いつも通り、真面目でお堅いイメージのままだった。
「まだ大丈夫です、八重倉課長。それに、たまにはいいかなって思って」
実際、緊張しすぎて酒の味も分からない琴葉は、少しだけ笑って見せた。八重倉の口元が不機嫌そうにぐっと締まる。それを見た琴葉の胸が何故かつきんと痛んだ。
「まあまあ、八重倉。今日は一課二課の合同飲み会なんだし、あまり堅い事言わなくてもいいじゃないか。水無さんだって飲みたい時もあるだろ?」
氷川が肩をぽんと叩いてそう言っても、八重倉の渋い表情は変わらなかった。
同期だというこの二人は、普段からとても仲がいい。常ににこやかで、周囲にぱっと華やかな印象を与える氷川に、いつも冷静で仏頂面ながら、美形の八重倉。
二人揃うと目の保養になるわねー、と課の女子社員も噂していた。
「あまり羽目を外すな。分かったな」
再び八重倉に見つめられ、琴葉は蛇に睨まれたカエルの気分で頷いた。
「……はい」
お前はこんな席でも厳しいよなあ、という氷川の声を聞きながら、琴葉は水を一口飲んだ。アルコールで火照った身体に、冷たい水はとても美味しい。氷川をむすっと見返す八重倉を盗み見て、琴葉は溜息を漏らした。
――厳しいけれど、本当は優しい人、なのよね……
琴葉が所属する営業一課の敏腕課長。
銀縁眼鏡にさらりとした黒髪の八重倉は、隣の第二課の氷川課長と並び、数年前に弱冠二十九歳で課長に就任したやり手営業マンだ。いつも無表情な彼だが、的確な助言やきめ細かいサポートで顧客からは圧倒的な信頼を得ている。
仕事には厳しいが、一人一人の適性を見て業務を振り、分からない所はきちんとサポートしてくれる課長として、部下からも慕われていた。
(私がミスした時も、丁寧に指導してもらったわよね)
入社から半年が経った頃、経理部に誤った伝票処理を依頼してしまった琴葉は、びくびくしながら八重倉の指導を受けていた。だが彼は、一切声を荒らげる事なく、琴葉が間違えた箇所を重点的に教え、『今後気を付けろ。同じミスはするな』と一言注意しただけだった。
危うく顧客に金額の異なる請求書を送付してしまう直前だったため、てっきり酷く怒られると思っていた琴葉は、彼の机の前で立ちすくんでしまった。そんな琴葉をじろりと見た八重倉は、『さっさと席に戻れ』と言い、すぐに書類に視線を移す。
慌てて席に戻った琴葉は、隣に座る先輩から『あれが課長のスタイルだから』との説明を受けた。どうやら琴葉が萎縮しているのを見て取って、それ以上追い打ちをかけずにいてくれたらしい。『課長が皆の前で誰かを叱責するなんて滅多にない。水無さんが反省してる事も、十分分かっているはずだから』と聞かされ、ようやくほっと息をつく事が出来たのだった。
それから琴葉は、八重倉を観察するようになった。
いつも厳しい顔をしている彼だが、部下が売り上げを報告する時は、よくやったと言って小さく笑う。伸び悩む部下には、的確なアドバイスを欠かさない。琴葉の件もそうだが、『部下のミスは全て自分のミスだ』と上に報告していると聞く。
そんな八重倉を琴葉が尊敬するようになるまでに時間はかからなかった。端整な横顔や広い背中を、目で追う毎日。
――少しでも課長の役に立てるようになりたい。課長みたいに信頼してもらえる人になりたい。
そう思って仕事に打ち込み――入社して三年経った今では、少しは自分で仕事も回せるようになった。
彼にも信頼してもらえるようになったと思っているけれど……
(今からしようとしてる事……知られたら、きっと軽蔑される……)
氷川と違い、八重倉には浮いた話は一つもない。もちろんモテない訳ではなく、彼のファンは社内にもたくさんいるのだが、彼自身が女性に対してガードが固すぎるのが原因だ。
現に、琴葉が配属される前にいたという営業補佐の女性は、八重倉に付き纏ったせいで、いつの間にやら配置転換されていたらしい。
告白した彼女を『そんな気はない』とばっさり切り捨てたという噂が広まったためか、今社内で八重倉に迫ろうとする女子社員はいない。
そんなお堅い彼に、氷川を誘惑しようとしている事を知られたら……
琴葉はぶるりと頭を振って、冷たいグラスに手を伸ばした。爽やかな柚子の香りを味わう間もなく、ごくごくと飲み干す。それから、こちらを見ている八重倉の視線を避けて氷川の方に顔を向けた。
「氷川課長も、アルコールお強そうですよね」
「そうだなあ、まあそこそこは」
こいつ程じゃないけど、と八重倉を親指で指した氷川は、次々とお酌に現れる女子社員を断る事なく、全員に対しにこやかに応対していた。
八重倉もそこそこ相手をしているが、氷川と違ってその顔には笑み一つない。本当に対照的な二人だ。
(様子を見て……二人きりになるようにして……)
琴葉はぐっと空のグラスを握り締めた。この機会を逃したら、もうチャンスはないかもしれない。
(そう、頑張らないと……!)
手を上げて再びチューハイを注文し、何とか緊張を紛らわそうとしたが、いくら飲んでも、今日は酔えない。だが、愛想笑いを浮かべる頬をやや引き攣らせつつも、琴葉は飲むペースを落とさなかった。
「お前……」
八重倉がますます不機嫌そうな表情になったが、氷川に集中していた琴葉は彼の態度を訝しく思う余裕すらなかった。
――どくん、どくん。
心臓の音が痛いくらいに大きく聞こえる。琴葉はごくんと生唾を呑み込んだ。
(今しか……今しかチャンスはない……っ)
一歩踏み出すと、足元がふわっと浮く感覚がした。ぐらりと揺れた身体を長い廊下の壁に押し付け、息を整える。
さっきまでちっとも酔えなかったのに、今はアルコールが回り、頬は熱いし息も荒くなっていた。今日の服装はなるべく薄着にしたはずだが、暑くて仕方がない。
(ごめんなさい、ごめんなさい、氷川課長……!)
談笑する声や食器がぶつかる音も、どこか遠くに聞こえる。琴葉は廊下の奥までよたよたと歩き、突き当たりにある男子トイレと女子トイレの入り口の間の壁にもたれた。
氷川が席を外すのを見て、こっそり自分も席を立ったのだ。八重倉もその少し前に離席していたので、ちょうど良いタイミングだった。
間を空けて後をつけ、氷川が男子トイレに入るところまでは確認した。もうすぐ出てくるはず――
(お酒の力を借りてだなんて、悪い事だと分かってるけど、でも)
こうでもしないと、勇気が出なかった。個人的に話をした事もない氷川に――処女をもらって下さい、と頼むなんて。
(でも、私……!)
自分を見る、智倫の執拗な視線と厭らしく歪む口元。脳裏に浮かんだそれを振り払うように、琴葉はぶるぶると首を振る。
(絶対、絶対、あの男にだけは、ハジメテを捧げたくない……!)
と、右側から、かたんとドアの開く音がした。はっと目を上げると、琴葉の横を広い背中が通り過ぎていく。
ブルーのワイシャツにグレーのズボン。見上げるほど背の高い身体からふわりと香るコロン。
氷川だ。
「あのっ……!」
よろめきながら声を上げた琴葉の身体は、振り向いた彼に正面からぶつかった。
顔を見る勇気が出ず、琴葉は広い胸板に顔を埋め、ぎゅっと彼に抱き付く。温かい。その温かさに勇気をもらった琴葉は、そのまま思い切って言った。
「お願いです! わ、わ……私を抱いて下さいっ!」
背中に回した手に力を籠めると、ぴくっと彼の身体が震えた。
「お願い、ひか……」
(あ……れ?)
急に動いたせいか、酔いが一気に回ったらしい。ぐらりと視界が揺れる。
大きな手が、自分の背中を支えたと感じたのを最後に、琴葉の意識はぷつりと途絶えてしまったのだった。
***
男子トイレの前で氷川を待ち伏せし、彼が出てきたところで抱き付いて、それで――?
(覚えてない……)
そこから今朝、ホテルのベッドで目を覚ますまでの間の記憶は、何も残っていない。自身のあまりの醜態に、会社へ向かう足を止めた琴葉は頭を抱えた。
考えられる事態は、ただ一つ。恥ずかしくて相手の顔をきちんと確認しなかった琴葉が、氷川と八重倉を間違えて抱き付いたという事だ。
あの時は、ブルーのワイシャツとコロンの香りで氷川だと決めつけてしまったけれど、どうやら違ったらしい。
「……どうしよう……」
女性慣れしていると有名な氷川課長なら、琴葉がいきなり告白しても軽く受け取ってくれると思っていたのに。
それを真面目で浮いた話一つない八重倉課長にしてしまったなんて。
酔っぱらった部下に抱き付かれ、『抱いてくれ』と言われて、彼はどう思ったのだろう。絶対、だらしない女だと思われたに違いない。その上で身体を重ねてくれたんだとしたら――?
(課長には……軽蔑されたくなかったのに……)
もう、すぐにでも辞表を出して、一目散に逃げだしたい。だけど、今日中に八重倉の承認を得なければならない書類があった事に気が付いてしまった。出社しないと、彼だけでなく、色んな人に迷惑を掛けてしまう。そんな訳で、琴葉は会社に近付くにつれ一層重くなる足を引きずりながら歩いているのだった。
「おはよう、水無さん」
ぽん、と後ろから肩を叩かれた琴葉は、びくっと背を震わせて振り向いた。
そこには、柔らかな笑みを浮かべた氷川が立っている。グレーのストライプのスーツを着こなした彼は、雑誌に出てくる俳優のようにスマートだった。
「お、おはようございます、氷川課長」
おずおずと挨拶を返すと、氷川はふふふと含み笑いをし、琴葉の隣を歩き始めた。
「体調は大丈夫? 昨日の最後は、かなり酔ってたみたいだから」
「う、あ、は、はい……大丈夫です……」
頭は痛むが、その他は何ともない。あんな事をした割には、身体の具合は悪くないようだ。
言葉に詰まりながら答えると、氷川はそのまま話を続けた。
「まあ八重倉が付いてたから、あまり心配はしてなかったけど」
「えっ!?」
ひくりと口元を強張らせた琴葉に、氷川が悪戯っ子のような顔で言う。
「トイレから出たら、あいつが足元ふらついてる水無さんを支えてて。そのまま送って行くって言うから、俺が部屋から上着や鞄を持って行ったんだ」
(あの場に、氷川課長もいたんだ)
全然気付かなかった。
「ご……ご迷惑を、お掛けしました……」
次第に小さくなっていく琴葉の声に、氷川は「気にしないで」と右手をひらひらと振った。
「心配しなくても皆出来上がってたから、二人が抜けた事も気付かれていないよ。八重倉も目立たないように行動していたし」
「そ、そう、ですか」
「それにしても……」
そこで何かを思い出したのか、氷川がくっくっと笑い声を漏らした。
「水無さんを腕に抱いてたあいつの顔が見物でね。俺が『酒の匂い消しに俺のコロンを振りかけたおかげじゃないのか』って、冗談言ったら睨まれた」
「……」
それが原因であなたと彼を間違えました、なんて言えるはずがない。困った琴葉が氷川を見上げると、彼はふむと考え込む様子を見せた。
「水無さんなら安心かな。真面目だし、浮ついた所もないから」
「は、あ?」
ぽかんと口を開ける琴葉に、氷川は優しく微笑む。
「あいつ、女性にいい思い出がなくてね。自分から擦り寄ってくるようなタイプは苦手なんだよ。でも水無さんの事は、前々から慎み深いって褒めていたし」
胸の奥が鈍く痛んだ。昨日の琴葉は、まさに『擦り寄った』のだ。
「じゃあ、あいつの事頼んだよ」と氷川は、手を振って先に行く。遠ざかる背の高い後ろ姿を見て、琴葉は重い溜息をついた。
株式会社櫻野産業の朝は早い。特に営業部の人間は、早朝にミーティングをする事もあり、他の部署よりも早出する社員が多かった。それを見越して、琴葉もさらに早めに出社したはず――だったのだが。
(うっ……もういる……)
びくびくしながら一課に入ると、部屋の一番奥、窓際の席に、八重倉がすでに座っていた。
窓を背に、パソコンのモニタ画面と手元の書類を交互に見ている。いつもと変わらず、隙の無い姿。
今日は白のワイシャツに濃緑のネクタイをしている。濃いグレーのスーツが良く似合っていた。ふと今朝の乱れた前髪を思い出した琴葉は、忘れようと頭を横に振った。
「おはよう……ございます……」
小声で挨拶をした琴葉の声に、八重倉は視線を琴葉に向けた。眼鏡の奥の瞳に射抜かれた琴葉は、思わず目を伏せてしまう。
「おはよう」
(……え?)
琴葉が顔を上げた時には、八重倉はこちらに視線を向けていなかった。何食わぬ顔で、パソコンと書類を見比べている。
ジャケットを入り口近くのロッカーに掛けた琴葉は、そそくさと自席につき、ショルダーバッグを机の引き出しに入れると、パソコンの電源を入れた。モニタに隠れて彼の方をちらりと見たが、八重倉はもう仕事に没頭しているようだ。
どきどきと心臓がうるさい。でも、彼はいつもと同じ冷静な態度だ。
(もしかして……課長も覚えてない、とか……? 私は課長が起きる前に帰ってしまったし、彼だって代わる代わるお酌をされて、結構飲んでいた……はず。もしかして、このまま何事もなかった感じ、で終わる……?)
ほんの少しだけ、琴葉の心に希望が見えた。
「おはよう、水無さん」
そんな琴葉の思考は、明るい声に遮られた。琴葉は左隣に座った音山に会釈する。
「お、おはようございます、音山さん」
かちっとした黒のパンツスーツを着た音山は、一課でも成績優秀なベテランの営業だ。頼りがいのある姉御肌な性格と、女性ならではのきめ細かい心遣いが顧客にも好評で、社内でもあちらこちらにファンがいると聞いている。
琴葉の顔を見た途端、あら、と音山が瞳を光らせた。並み外れた嗅覚を持つ彼女は、社内のあれやこれやの噂話を仕入れるのが上手い。
何か勘付かれたのだろうか。キーボードに置いた琴葉の指先に力が入る。
「今日は眼鏡なのね。その丸眼鏡、懐かしいわー。ここに配属された頃に戻ったみたいね」
ほっと溜息をつきつつ、琴葉は音山に答えた。
「え、ええ。コンタクトだと目の調子が悪くて」
「そう言えば、ちょっと疲れてる感じね。今日は早く帰ったら?」
(ええ、精神的にごりごりと疲れています……)
「はい、そうします。そうそう、音山さんの伝票でお聞きしたい事が」
あまり昨日の事に突っ込まれたくなかった琴葉は、さり気なく話題を変えた。伝票と聞いた音山は、すぐに意識を仕事モードに切り替えたらしい。
「あら、なあに?」
「あの、これなんですが……」
次々と出社してくる社員に挨拶をしつつ、琴葉は音山に説明を続ける。
そんな彼女に鋭い視線が飛んでいた事に、琴葉は全く気付いていなかった。
***
「ふう……これで全部終わり」
業務終了時刻を知らせるチャイムは先程鳴ったばかり。切りのいいところまで書類作業を終わらせた琴葉は、片手でとんとんと肩を叩いた。眼鏡を外し、眉間を指で揉む。パソコン画面に集中していたせいか、だいぶ目が疲れていた。
(なんて事、なかった……)
午前中、びくびくしながら八重倉に書類を持って行った琴葉だったが、彼の態度はいつもと同じだったと思う。琴葉から受け取った書類を確認した後、「これで経理に回してくれ」と、これまた普通に指示を出してきた。
「は、い」
机の前に立つ琴葉から視線を外し、八重倉は再び自分の仕事に集中し始めた。ぺこりとお辞儀をした琴葉も、そのまま席に戻る。
それからも、彼に話し掛ける機会は数回あったが、やはりいつもの態度を崩さなかった。
(やっぱり、覚えてなかったんだ……)
ほっとするのと同時に、どこか寂しい気もするのは何故だろう。琴葉は眼鏡を掛け直し、パソコンの電源を切って机の上を片付け始めた。
「えっ……と、後は」
部屋をぐるりと見回すと、琴葉以外もう誰もいなかった。
ホワイトボードに書かれた予定表を見ると、一課のメンバーは琴葉と八重倉以外、全員外回り後に直帰となっている。
「課長は席を外されてるのかな」
八重倉の机の上は綺麗に片付けられていた。彼も、もう直に退社するのだろう。
今のうちに帰ろうと決めた琴葉は椅子から立ち上がり、ショルダーバッグを持ってロッカーに近付いた。扉を開け、ジャケットを取り出して羽織るのと同時に、ドアが開く音がする。
そちらを見れば、八重倉がちょうど入って来るところだった。
琴葉に気が付いた彼は、ドアを閉めて立ち止まる。バッグの紐を肩に掛け直した琴葉は、彼に向かって軽く頭を下げた。
「八重倉課長、お疲れ様です。お先に失礼します……っ!?」
バン! とロッカーの扉が閉まる音が響いた。驚く琴葉の上に影が落ちる。
右手でロッカーの扉を押さえた彼は今、琴葉の真正面に立っていた。背を屈めて、顔を近付けてくる八重倉を、琴葉は呆然と見上げる。
彼の薄い唇がつと動いた。
「今から付き合え、水無」
「え……?」
いつもより低い声に身体が震えた。眼鏡の奥の瞳が逆光で見えない。
顔はいつも通りの無表情だが、ここにいる八重倉は――いつもの八重倉ではなかった。
「急に消えた理由を話してもらおうか? ……ホテルのベッドから」
琴葉はひゅっと息を呑んだ。膝がかくんと曲がる。
立っていられなくなって、ロッカーにもたれかかった琴葉は、にやりと暗い笑みを浮かべた八重倉を前に、押し黙るしかなかった。
2 責任、取れよな
(覚えて、いたなんて……)
どうしよう。そればかりが、ぐるぐると頭の中を回っている。
呆然とする琴葉の左腕をむんずと掴み、八重倉はさっさと一課を後にした。
営業部の堅物敏腕課長が、部下を引きずるようにして退社するその様子に、エレベーターの中でも、一階ロビーフロアでも、あちらこちらから『何、あれ!?』と言わんばかりの視線が琴葉に突き刺さってきた。
(目立ってる、けど)
誰も話し掛けてはこない。それは、無表情のまま大股で歩く八重倉に何かを感じたからだろう。琴葉自身も彼の背中から漂う気配の重さに、言葉一つ発する事が出来なかった。
「あ、の」
それでも思い切って声を掛けてみたものの、ちらりと振り返った八重倉の瞳の冷たさに、琴葉は凍りついた。
「話は後だ」
「はい……」
街灯が灯り始めた歩道を急かされるように歩く。会社帰りの人波を縫って、すいすいと進んでいく八重倉は、宣言通りそれ以上口を開かなかった。
琴葉の心臓も歩調と同じように速くなっていく。大きな右手に掴まれた腕の感覚以外、何も感じなくなっていた。
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