【完結】狼は吠えない ー元アルファの少佐、副官のつがいにされるー

隙間ちほ

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23.参謀総長の一手

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 一度だけ、母と外出したことがある。
 母の持病が何なのか、ヴィルはよく知らなかった。病弱である、とは知っていた。けれど家の中にいる母は、いつも明るくてやさしくて、何より、とても元気そうに見えたのだ。
 あの日、使用人たちから聞いた街の祝祭の様子が見てみたい、とヴィルは口にしてしまった。母はすぐに支度を整え、二人で――もちろん侍女と御者はいたが――外に出た。とても寒い日だった。
 年末の飾り付けられた街並みを見てはしゃいだのは覚えている。長居はしなかったと思う。侍女に泣きつかれて困り顔の母に向かって、幼いヴィルは帰ろうと促した。
 家に帰ると、玄関ホールで父は待っていた。母よりも余程青ざめた顔で。父は黙って立ち上がると真っ先に母の手を握り、それからすぐに医者を呼ぶように指示した。
 ヴィルのほっぺは冷たいねと笑って、火照った両手で頬を包まれた記憶は今でも鮮明だ。一緒に出かけられたことよりも、そうして触れられるのが何より嬉しかった。だけど、幼いヴィルは、その火照りが熱のせいだなんて思いもしなかった。
 ほんの数時間の外出で3日も寝込んだ母に申し訳なくて、ヴィルはもう外の話はしなくなった。――母が亡くなったのは、それから半年ほど後だ。
 今ならわかる。顔色を無くしていた父がどんな思いでホールに座っていたか、痛いほどに気持ちがわかる。火にかざしたように熱い両手を握った父がサッと表情を変えた姿を、いつまでも忘れられずにいる。
 今、きっと同じ顔をしてる。混乱した頭の隅で、ヴィルは思った。ドアを開けた格好のまま、息をするのも忘れて入り口で立ち尽くし、ヴィルは何度も瞬きした。
「え、なんで……」
 声を出した途端、さあっと背中が冷たくなった。
 ロルフの部屋は、元々物も少なくてきちんと片付いていたので、一見するといつもと変わりない。それでも、ここ最近は毎日のように訪れていたヴィルには大きく違って見えた。支給の軍服が全てベッドに置かれている。数えるほどしかない私物が無くなっている。ヴィルが勝手に持ち込んだものは、一箇所にまとめて積まれている。
 間違いなく部屋の主は既に居ない。ヴィルは思わず一歩、後ずさった。何が起きているか頭では理解しているのに、どこか浮いたようで、夢でも見てるみたいな気分だ。
 呆然と、疑問符を浮かべたまま踵を返す。来た道を引き返し、ヴィルは迷わず貴賓棟へ向かった。
 部屋の様相で事態は把握した。ならば、行先を知っているのはロルフのさらに上官のミュラー大佐くらいだろう。凍りついたような頭の中、反射的に答えだけを弾き出してヴィルの体は勝手に動く。
 どうして?
 ――いや、それどころじゃない。
 とにかく一刻も早くロルフを追いかけなくては。
 階段を一段ずつ降りるのも気が逸り、踊り場からほとんど落ちるように飛び降りる。着地でよろけて足がもつれそうになった。だめだ、こんな事じゃ。壁に手をついて体を起こす。
 廊下を駆けなかったのはかろうじて自制が効いた成果だ。夏場でなくて良かった。もし窓が開いていたらそこから外へ出るのを躊躇わなかっただろうから。
 ――安静って言われてたのに。身重の体で、こんな寒い日に、どこへ?
 ロルフに何かあったらどうしよう。考えただけで身体が震えて、心臓が引き裂かれそうだった。
 ミュラー大佐の部屋の前にたどり着いた時には、酷く息が上がっていた。それでも一秒たりとも止まれなかった。ノックの返事を待てたのは我ながら奇跡だと思う。
「ケラー少佐がどこにいったかご存知ですか?」
 ドアを開け、かろうじて入室の挨拶ができたところでヴィルは忍耐を使い果たした。不躾に要件だけを問いただしてしまったが、大佐はそれを咎めるでもなく、ただ静かに首を振った。まるで来るのがわかっていたかのように。
「すまないが、君に言える事は……」
 大佐は中途半端に言葉を切った。
「ロルフは何処に?」
 焦れて一歩近寄ると、びくりと肩が揺れた。大佐は一言も口を聞かないで彫像の様に固まっている。顔色が悪い。どうしてだろう。
「……あっ!」
 唐突に思い至って、ヴィルは慌てて威圧を抑え込んだ。ベータ相手に威圧してはいけなかった。いつだったか叱責されて以来気を付けていたつもりだったのに、すっかり頭から飛んでいた。重くなった空気が霧散していくまでのわずかな間、気まずさと申し訳なさで縮こまりながらヴィルはどうにか謝罪を口にした。
「あっ、あの、大変、申し訳ありません……」
「……いや、……いいとも、こうなる事は覚悟していた……」
 げっそりした顔で大佐は呻き、行儀悪く頬杖を付いた。
「まぁこれで何をされても口を割らないでいられる自信がついたよ」
 はは、と疲れたように笑って、それから沈痛な表情を浮かべた。
 ミュラー大佐は決定的な情報をヴィルに開示した。
「ケラー少佐は退役した」
 ヴィルは短く息を呑んだ。
「そんな……」
 どうして?
 空っぽの部屋が脳裏に蘇る。二の句が告げなくなったヴィルをチラリと見上げ、大佐は続けた。
「今朝方、手続きを済ませてここを出た。行き先については……聞いてはいるが、答えられない」
「……何故?」
「ふふふ、悪いが秘密だ」
 喉から搾り出すような声のヴィルに対して、ミュラー大佐はいつもの調子を取り戻したように見えた。ニヤリと笑ってみせ、けれどもすぐにため息をついた。頬杖をついたまま、何処か寂しそうに遠くを見ていた。
「……まぁ、そうだな。ケラー少佐とは君よりも付き合いが長いんだ。だから私は彼の味方をする事にした」
 そう言って少しだけ目を細める。まるで、もうここにはいない背中を見送る様な表情だった。それを見たら、ヴィルは何も言えなくなってしまった。
 しばらく黙り込んだあと、ようやく絞り出したのは不躾な訪問への謝罪だった。けれども片手で軽く制され、構わない、とだけ返ってきた。
 ここで得られるものはもう何もなかった。途方に暮れたヴィルは、肩を落として退室した。
 すっかり手が無くなってしまったヴィルが頼れるのは、一人しかいなかった。

 ◇

 ヴィルが帝都の家に帰ったのは、陽が落ちてまだいくらもしない頃だった。挨拶もそこそこに祖父の書斎に飛び込んだヴィルを、いつものように祖父は一瞥しただけだった。
「あのっ、お爺様!」
「ロルフ・ケラーの件なら既に手を打ってある。動く必要はない」
「ええっ?!」
 ロルフがどこかに行ってしまったんです、とヴィルが説明する前に祖父から答えが返ってきてしまった。相変わらず、こちらの考えることは全部見透かされている。便利だが、どうにも肩透かしになるのは否めない。
 次に言うべきセリフを見失った役者のようにヴィルが口をぱくぱくしていると、祖父は一度考え込むようにして口髭を撫でた。それから、重々しく付け足す。
「――いや、違うな。ヴィルヘルム、お前は何もするな」
「無理です!」
 即答されたのも予想のうちだったのか、祖父は眉ひとつ動かさなかった。書棚から取り出した地図を机に広げると、蓋をしたままのペンである一点を示した。
「どうしてもというなら、この駅の近くで三、四日ほど待機しておけ」
 指し示されたのは、東部方面基地に向かう路線の、中継駅のようだった。突飛な提案にヴィルは目を丸くした。
「そうだな……この宿なら駅前がよく見えるだろう。安宿だが、この近辺では一番マシだ」
 ヴィルの様子など気に求めず祖父は続ける。たまらず、口を挟んだ。
「えっと、あの、どうしてその駅なんですか?」
「お前は待つことを覚えなくてはならない」
 答えになっていない答えが返ってくる。自分と同じ色合いの、けれども何十倍も鋭く冷たい瞳に見上げられた。
 まるで話が見えず、ヴィルは混乱したまま縋るような目を祖父に向けた。
「ええと、その、お爺様はロルフがどこにいるか、もうご存知ってことですよね? ロルフは無事なんですか? それであの、どこにいるか教えてもらえると助かるんですけど……」
「………」
 祖父は眉間に皺を寄せた。額を抑え、深々とため息をつき、じろりとヴィルを睨みあげた。
「ロルフ・ケラーの居場所はわかっている。心配するような場所では無い。安全な場所で手厚く歓迎されているはずだ」
 安全、という言葉が頭に染み込むと同時に、ずっと内側を周り巡って絡まり続けていた不安の糸がようやく解れていく。
「よかった……」
 一番聞きたかった答えをもらえて、ヴィルは心底胸を撫で下ろした。無事ならいい、とにかくロルフが大丈夫なら。安堵のあまり膝から力が抜けて、その場でよろけそうにすらなった。
「懸念は晴れたか? ではこれを見なさい」
 祖父は重厚な机の引き出しから一冊のファイルを取り出し、ヴィルに手渡した。
「……これは?」
「ロルフ・ケラー少佐についての調査報告だ」
「!」
 固いファイルの中身は、大小様々な形式の書類が雑多に綴じられていた。人事票、考課、出身地や来歴、家系に関する内容に現在の交友関係、過去の功績、直筆の論文、果ては士官学校時代の成績表まで。次から次へと現れる知らないロルフの断片に、ヴィルは思わず状況を忘れて見入ってしまった。
「……そもそもの話だが、私はというものをあまり良く思っていない。昔からな。アレは人を一時の狂乱で酔わせる悪しき慣習だ。それでもこうして協力しているのは、ヴィルヘルム、お前に父親と同じ轍を踏ませるわけにはいかないからだ。わかるな?」
 祖父は目の奥に暗い色を浮かべたまま続けた。
「お前の父は、どれだけ反対されようとも身体の弱い、病がちな娘をつがいに選び、案の定早くに失ってしまった。そうしてどうなったか、お前も知っているだろう? あれは深い失意の底に堕ち、未だ隠遁生活から戻ってこれないでいる……。お前にまでそうなられては我が家の跡を継ぐものが居なくなる。それだけは避けねばならん」
 パラ、と紙を捲る音だけが静かな書斎に響く。祖父は一度目を伏せ、それから低い声を出した。
「――ヴィルヘルム、聞いているか?」
「……あっ! すみません、あんまり聞いてませんでした!」
「…………はぁ……お前の父は、もう少し思慮深く……いや、あれはあれで思い悩み過ぎるたちではあったが……」
 額を抑えながらぶつぶつとつぶやいた祖父は、ふと、目の前でニコニコしているヴィルに気づいて苦い顔をする。
「なんだ」
「いえ、お爺様が父様の話するのって珍しいので」
「……いいから、聞きなさい」
 祖父は不本意そうに眉を顰めた。
「期を待て。それがお前にできる唯一の行動だ。そうすることで最も抵抗を最小限にできる。相手がこちらの読み通りに動くならば、数日のちには必ずこの場所に現れる。そうなるよう既に手は打った。だから、必ず向こうから現れるまで待て。いいな」
「…………」
 ヴィルは、こてんと首を傾げた。みるみる祖父が半眼になっていくが、気にせず疑問を口にした。
「あの、どうしても待たないとダメなんですか? 居場所がわかってるなら、迎えに行っちゃいけないんでしょう」
「……その資料にもある通り、ロルフ・ケラー少佐は長年後方でいくつもの優秀な実績を上げている職業軍人だ」
「は、はい……へへ……」
 突然祖父がロルフを褒め出したので、ヴィルはなんだか自分のことのように照れてしまった。にやにやしていると、祖父に冷たい目で見られた。
「士官学校の成績をみるに一部の実習はやや不得手のようだが、戦術論や戦略については優秀な成績を収めている」
 祖父の言葉を受けて、ヴィルは再びファイルをめくった。
「本当だ。いくつか再履修ってありますね。野外模擬戦に、剣術、射撃実習もだ。座学は良いのに……あ、でも外語学が再履修だ。ふふふ、苦手なんだ」
「……続けるぞ。つまりケラー少佐は支援課でも中間管理職として職務を全うするのに足るだけの視野を持っているとみて間違いないだろう」
 初めてみる「再履修」の文字を、ヴィルは興味深げに眺めながら適当に相槌を打った。
「つまり、ロルフ・ケラーは軍人としての矜持もあり、判断力もある。上からの命令には従順に従う姿勢を見せるが、そうでない場合は押し付けられると反発する。これはそういう種類の人間だ。選択の重みを知り、選んだ責任を自らに課し、後戻りを許せない。それが自ら選んだ結果なら、是非を横に置いてでも受け入れる」
 そこで祖父は言葉を切った。何かを期待する目で見られていると気づき、ヴィルはゴクリと唾を飲む。
「……つまり……ロルフは優秀で……すごい……」
「……」
 祖父はしばし沈黙した後、再び説明を開始した。
「……だからだな、今回のような場合は無理に追いかけるのではなく、自分から戻る選択肢しかない状況にするのが最も相手の抵抗を削ぐ手段になる」
「はぁ……」
「ヴィルヘルム、お前まさか、作戦の意味を私に全部説明させる気なのか?」
 陛下相手に奏上仕る時だってここまで手厚くした事はないぞ、とぼやく祖父にヴィルはとりあえず目一杯の笑顔で「ありがとうございます」と言っておいた。祖父は渋い顔をしただけだった。
「ロルフ・ケラーの行き先は非常に限定的で、既に手配は済ませてある。彼がこちらの想定する程度に場が読めるならば、すぐに自分がどういう状況か理解するだろう。彼が自分で気づくのが最も良い。戻る選択しか無いと思い知るように、それが自然な選択肢になるようにな」
 一呼吸おいて、祖父は再びヴィルを見た。真剣な目だった。
「――それから、お前に『待つことの大切さを学ばせる』意味もある」
「えっ、俺ですか?」
「そうだ。お前はとにかく無鉄砲で飛び込んでばかりだ。良い結果をじっと待つ、という事をここで一度経験した方が良い」
「えぇ……」
 ヴィルはしばし考え込んだ。完璧に理解したぞと言わんばかりのキリッとした顔で重々しく宣言する。
「つまり、俺はここで大人しく待つことで、ロルフの意思を尊重する……ってことですね?!」
「そうではない、むしろ逆……いや……まぁ良い。どうせやる事は同じだ」
 祖父は首を振り、それからひらひらと片手を振った。
「とにかく、おとなしく待て。無理に連れ帰るような真似をして、これ以上嫌われたくはないだろう?」
「……これ、以上……???」
 なにかとんでもない言葉が聞こえて、ヴィルは目を瞬かせた。それからスッと顔色が悪くなった。
「どっ、ど、どういうことですか!? えっ?!」
 素っ頓狂な声を上げたヴィルの目にみるみる涙が浮いてきた。
「これ以上……って、も、も、もしかして……俺、嫌われてるかもってことですか!?!?」
「…………これだから、つがいとかいうやつは……」
 頭痛を堪えるような仕草をした祖父は、首を振った。
「もう、いいから待て。話は終わりだ」
「は、ハイ……」
 深いため息と、ぐす、と鼻を啜る音が書斎に響く。一度天を仰いだ祖父は、部屋を辞そうとするヴィルに向かってじろりと視線を向けた。
「――ヴィルヘルム、その資料は置いて行きなさい」
 びく、とヴィルは肩を揺らす。さりげなく小脇に抱えたままのファイルをぎゅっと強く胸に抱いた。
「機密文書だ。この部屋から持ち出すことは罷りならん」
「ええ……」
 渋ったヴィルは、けれども祖父の無言の視線にとうとう折れた。しょんぼりと項垂れ、嫌々差し出したファイルは、祖父の手により再び重厚な引き出しに仕舞われてた。
「あぁ……」
 名残惜しそうに行先を見守ったヴィルが、悲しい声を出す。祖父は素知らぬ顔で引き出しに鍵をかけた。
「今日はもう遅い。出かけるなら明日にしなさい」
「はぁい……」
 肩を落とし退室するヴィルの背中に、祖父が静かに語りかけた。
「伏して待て。獲物が自ら手元に飛び込むまで、辛抱強く。お前がしなければならないのは、ただそれだけだ」
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