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第一章
第一話 春の檻-1
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誰かが部屋の窓を開けた。網戸を通って愛美の元まで届いた濾過された風は、春が近い匂いがした。
眠たげにベッドの上で伸びをする愛美に、父親が声をかける。
「愛美、起きなさい。もう七時だぞ」
愛美は返事をせず、薄目でスマホの画面を見た。まだ六時四十五分だ。
「……あと十五分……」
目を瞑りベッドに潜り込む娘に小さくため息を吐き、父親は部屋を出た。
しかしその五分後、廊下から足音が聞こえ、再び父親が顔を覗かせる。
「愛美。遅刻するぞ。起きなさい」
「あと十分……」
「愛美。そろそろ起きないと」
「あと五分……」
「愛美」
四度目に父親が起こしに来た時、スマホのアラーム音が鳴った。愛美はやおら起き上がり、間抜けな顔で欠伸をした。
愛美はベッドの前でもどかしそうにしていた父親を見上げる。
「おはよう、お父さん」
「おはよう、愛美。早くしないと遅刻するぞ」
「しないよ。だってまだ七時だもん」
父親と共に台所に入ると、二人がいつも座っている場所にサンドイッチが用意されていた。それを作ってくれた母親は、誰かと電話をしながら家事をこなしている。
「そうなんだ。へえ。そう。うん、うん。そっかぁ」
熱心に相槌を打つ母親は、宗教仲間の悩みを聞くのに夢中で、彼らが来たことに気付かない。こうして同じ空間にいるのに、母親の目に家族が映らないことはよくあることだ。
いつものことなので、愛美と父親は目配せしたあと無言でサンドイッチを頬張った。
切電した母親は、気まずそうに愛美の隣に腰かけた。
「ごめんね。おはよう」
「おはよう、お母さん」
「どう? 卵多めのサンドイッチにしたんだけど。愛美好きでしょ?」
「うん、今日も美味しいよ。ありがとう」
母親は、料理が美味しいと言われたら、安堵したような、嬉し泣きしそうな顔をする。愛美はそんな彼女の表情を見る度、幼い頃にきちんと美味しいと伝えてこなかったことを後悔した。
「お母さんの料理、世界で一番美味しいよ」
「まあ。ふふ、ありがとう。そんなこと言ってくれるの、愛美だけよ」
母親は目尻を下げ、わざとらしく父親に視線を送った。すると父親は慌てて頷き、食べかけのサンドイッチを持ち上げる。
「美味い。今日のサンドイッチは美味いなあ」
父親の褒め言葉に、母親の眉がぴくりと上がる。
「今日〝は〟、ねえ」
「今日〝も〟美味い。いつも美味い。ああ、美味い」
「お父さんは褒めるのが上手だなあ」
愛美がからかうと、父親はぎこちない笑みを浮かべて頭を掻いた。憂さが晴れたのか、母親は含み笑いをしている。
とりとめのない家族とのくだらない会話で始まるいつもの朝。愛美はその、特別なことは何もない、平凡な一日の始まりに、朧げな幸せを感じるのだった。
化粧をしている愛美を、父親が時計をチラチラ見ながら急かした。
「愛美、もう八時だぞ。早く支度しなさい」
時計の針はまだ七時四十五分を指している。愛美は適当に父親をあしらいマスカラを塗った。
愛美が八時きっかりに家を出ようとすると、車の鍵を持った父親が呼び止める。
「こんなギリギリに家を出て……。焦って事故でもしたらいけない。お父さんが送って行ってやる」
「えっ……。いいよ、自分で行くよ。それにギリギリでもないし……」
「本当に大丈夫か……?」
頷き、玄関のドアノブに手をかけた愛美の背後で、父親は未だ娘のこと案じている。
「制限速度は必ず守ること。遅刻してもいいからゆっくり走りなさい」
「うん」
「お父さんから支店長に電話しておいてやろうか? それなら愛美も安心して走れるだろう」
愛美は苦笑いして、首を横に振る。
「大丈夫。心配してくれてありがとう。ちゃんと間に合うから、支社店長には連絡しなくていいよ」
「そうか……。愛美、会社に到着したら、お父さんに電話してくれ」
「うん、分かった。大丈夫だから、そんな心配しないで、ね?」
愛美が会社に到着したのは、始業三十分前だった。
「――それで、お父さんが『支店長に電話しておいてやろうか?』なんて言い出したんだよ? うちのお父さん過保護すぎない? ちょっと笑っちゃったもん」
愛美は笑い話として話したつもりだったのだが、同僚であり恋人でもある昭は顔を引き攣らせていた。
「……いや、ヤバいだろ、それ。過保護とかそんなレベルじゃねえ……。お前、それ嫌じゃねえの?」
「嫌に決まってるでしょ? 私、もう二十五歳だよ。それなのにまだ子供扱いされるのうんざりする」
それも愛美の本音だが、もう一つ、彼氏には言えない気持ちがあった。
(でも、私のことを一番愛してくれてるのはお父さんだから。昭よりもお父さんの方が、ずっと私のこと愛してくれてる。だから私のことをあんなに心配してくれるんでしょ)
昭に抱かれながら、愛美は父親のことを考えていた。
最愛の娘が、コンドームも付けない男に腹の上に精液を吐き落とされているなんて知ったら、父親はどんな顔をするのだろうか。
父は昭を殴るのだろうか。それとも刺すのだろうか。勢い余って殺してしまうかもしれない。
セックスの最中に、愛美は父親の嫉妬心を想像して噴き出しそうになった。
一人満足した昭は、疼く体を持て余す愛美の隣で煙草の煙を吐く。
父親より私を愛してくれる男なんているのだろうかと、愛美はぼんやり考えた。
眠たげにベッドの上で伸びをする愛美に、父親が声をかける。
「愛美、起きなさい。もう七時だぞ」
愛美は返事をせず、薄目でスマホの画面を見た。まだ六時四十五分だ。
「……あと十五分……」
目を瞑りベッドに潜り込む娘に小さくため息を吐き、父親は部屋を出た。
しかしその五分後、廊下から足音が聞こえ、再び父親が顔を覗かせる。
「愛美。遅刻するぞ。起きなさい」
「あと十分……」
「愛美。そろそろ起きないと」
「あと五分……」
「愛美」
四度目に父親が起こしに来た時、スマホのアラーム音が鳴った。愛美はやおら起き上がり、間抜けな顔で欠伸をした。
愛美はベッドの前でもどかしそうにしていた父親を見上げる。
「おはよう、お父さん」
「おはよう、愛美。早くしないと遅刻するぞ」
「しないよ。だってまだ七時だもん」
父親と共に台所に入ると、二人がいつも座っている場所にサンドイッチが用意されていた。それを作ってくれた母親は、誰かと電話をしながら家事をこなしている。
「そうなんだ。へえ。そう。うん、うん。そっかぁ」
熱心に相槌を打つ母親は、宗教仲間の悩みを聞くのに夢中で、彼らが来たことに気付かない。こうして同じ空間にいるのに、母親の目に家族が映らないことはよくあることだ。
いつものことなので、愛美と父親は目配せしたあと無言でサンドイッチを頬張った。
切電した母親は、気まずそうに愛美の隣に腰かけた。
「ごめんね。おはよう」
「おはよう、お母さん」
「どう? 卵多めのサンドイッチにしたんだけど。愛美好きでしょ?」
「うん、今日も美味しいよ。ありがとう」
母親は、料理が美味しいと言われたら、安堵したような、嬉し泣きしそうな顔をする。愛美はそんな彼女の表情を見る度、幼い頃にきちんと美味しいと伝えてこなかったことを後悔した。
「お母さんの料理、世界で一番美味しいよ」
「まあ。ふふ、ありがとう。そんなこと言ってくれるの、愛美だけよ」
母親は目尻を下げ、わざとらしく父親に視線を送った。すると父親は慌てて頷き、食べかけのサンドイッチを持ち上げる。
「美味い。今日のサンドイッチは美味いなあ」
父親の褒め言葉に、母親の眉がぴくりと上がる。
「今日〝は〟、ねえ」
「今日〝も〟美味い。いつも美味い。ああ、美味い」
「お父さんは褒めるのが上手だなあ」
愛美がからかうと、父親はぎこちない笑みを浮かべて頭を掻いた。憂さが晴れたのか、母親は含み笑いをしている。
とりとめのない家族とのくだらない会話で始まるいつもの朝。愛美はその、特別なことは何もない、平凡な一日の始まりに、朧げな幸せを感じるのだった。
化粧をしている愛美を、父親が時計をチラチラ見ながら急かした。
「愛美、もう八時だぞ。早く支度しなさい」
時計の針はまだ七時四十五分を指している。愛美は適当に父親をあしらいマスカラを塗った。
愛美が八時きっかりに家を出ようとすると、車の鍵を持った父親が呼び止める。
「こんなギリギリに家を出て……。焦って事故でもしたらいけない。お父さんが送って行ってやる」
「えっ……。いいよ、自分で行くよ。それにギリギリでもないし……」
「本当に大丈夫か……?」
頷き、玄関のドアノブに手をかけた愛美の背後で、父親は未だ娘のこと案じている。
「制限速度は必ず守ること。遅刻してもいいからゆっくり走りなさい」
「うん」
「お父さんから支店長に電話しておいてやろうか? それなら愛美も安心して走れるだろう」
愛美は苦笑いして、首を横に振る。
「大丈夫。心配してくれてありがとう。ちゃんと間に合うから、支社店長には連絡しなくていいよ」
「そうか……。愛美、会社に到着したら、お父さんに電話してくれ」
「うん、分かった。大丈夫だから、そんな心配しないで、ね?」
愛美が会社に到着したのは、始業三十分前だった。
「――それで、お父さんが『支店長に電話しておいてやろうか?』なんて言い出したんだよ? うちのお父さん過保護すぎない? ちょっと笑っちゃったもん」
愛美は笑い話として話したつもりだったのだが、同僚であり恋人でもある昭は顔を引き攣らせていた。
「……いや、ヤバいだろ、それ。過保護とかそんなレベルじゃねえ……。お前、それ嫌じゃねえの?」
「嫌に決まってるでしょ? 私、もう二十五歳だよ。それなのにまだ子供扱いされるのうんざりする」
それも愛美の本音だが、もう一つ、彼氏には言えない気持ちがあった。
(でも、私のことを一番愛してくれてるのはお父さんだから。昭よりもお父さんの方が、ずっと私のこと愛してくれてる。だから私のことをあんなに心配してくれるんでしょ)
昭に抱かれながら、愛美は父親のことを考えていた。
最愛の娘が、コンドームも付けない男に腹の上に精液を吐き落とされているなんて知ったら、父親はどんな顔をするのだろうか。
父は昭を殴るのだろうか。それとも刺すのだろうか。勢い余って殺してしまうかもしれない。
セックスの最中に、愛美は父親の嫉妬心を想像して噴き出しそうになった。
一人満足した昭は、疼く体を持て余す愛美の隣で煙草の煙を吐く。
父親より私を愛してくれる男なんているのだろうかと、愛美はぼんやり考えた。
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