叶え哉

まぜこ

文字の大きさ
5 / 44
第一章

第一話 春の檻-2

しおりを挟む

 自分のために死んでくれる人かどうかが、真の愛情の判断基準だと愛美は考えていた。昭は当然、愛美のために死んでくれるような人ではない。母親も死んではくれないだろう。
 父親だけは喜んで死んでくれる。愛美はそう確信していた。
 真の愛情は重く、時に息が詰まる。辟易することも度々あった。
 それでも愛美は手放せない。一時の感情で手放せば、必ずのちに後悔することを分かっていた。

 二十二時を過ぎてから、愛美のスマホはひっきりなしに鳴り響く。愛美は慌てて車に乗り込みアクセルを踏んだ。
 家に到着すると、ベランダからこちらを睨んでいる父親と目が合った。

「どこ行ってたんだ!」
「ごはん食べてた」
「誰とだ!」
「同僚」
「名前は!」
「……」

 父親のこういうところは流石に嫌気がさす。二十五歳の社会人にもなって、門限が二十二時。仕事終わりや休日に遊びに行くときは、誰と時間を共にするのかを伝えなければならない。
 同性の友人であれば何も言われないが、異性であれば、たとえ友人であっても――ましてや彼氏ならなおさら――父親は激しく反対する。そのため、愛美は毎回嘘を吐かなければならない。

「典子さんって人。一回お父さんも出会ったことがあるでしょ。あの人とごはん食べてただけ」

 また愛美が父親に叱られているところを近所の人に聞かれてしまった。笑いの種にされているのではないかと考えると、より父親に対する苛立ちが滲み出る。
 ノックの音もなく、父親が部屋に入ってきた。

「愛美、門限は守りなさい。お父さん、何度も言っているだろう?」
「……」
「返事は?」
「……はい」

 それ以外の言葉は許されない。無言を貫くことすらさせてくれない。

「その顔はなんだ? 何か文句でもあるのか?」

 感情を顔に出すことも許されない。愛美は深く息を吸い、表情に滲む反抗心を拭き取った。
 愛美はほとんど稀に……たまに……時々、父親に対して不意に沸き起こる感情がある。

(死ね)

 そう思ったときは、決まって頬の内側を噛んでいる。
 強く噛むにつれ鈍い痛みは生温かい快感に変わっていく。愛美はより強い快感を求め、鉄の味が舌先を撫でても構わず肉に歯を食いこませる。内頬に歯形がつき、皮がめくれ、やがて白く変色して口内炎となることを知っていたが、快感に抗えずにいつも自分の肉を食べてしまう。

 それだけでは物足りず、愛美は安全ピンを手に卓上ミラーの前に座った。
 口内炎だらけの口を開き、針を歯茎にそっと刺す。小さく深い痛みに愛美は甘い声を漏らした。
 ゆっくりと針を差し込んでいくと、やがて歯茎の裏から針先が覗いた。
 愛美はそのまま針を前後に動かした。膣内を陰茎で抉られるよりも強い快感が走る。

「んっ、ふ……。あ、あぁ」

 こうして快感に溺れていると、父親への憎しみを忘れることができた。
 快感を堪能した愛美はベッドに大の字になって寝そべった。雨漏りで剥がれた天井の壁紙が、十年間、寝小便のような跡を残したままになっている。父親はそれを修理しようとは思わないらしい。壁紙を張り替える費用を支払うくらいなら、愛美に金を使いたいのだろう。愛美もまた、醜く汚い天井に愛着が湧いていたので、そのままで良いと思っていた。
 ノックの音が聞こえ、母親が顔を覗かせた。

「愛美、入っていい?」
「うん。どうしたの?」

 母親は愛美の部屋に入るたび、剥がれた壁紙を見て微かに顔をしかめる。彼女はそこに目を向けたまま口を開いた。

「本当はどこに行ってたの?」
「彼氏のとこ。……お父さんには言わないでね?」
「言わないわよ。そんなこと言ったらどうなるか」

 過保護すぎる父親に、母親も呆れている様子だ。

「もう二十五歳なのにねえ。彼氏の一人や二人くらい、いいじゃないのね」
「一人はいいけど二人はダメでしょ」
「言葉の綾よ」

 愛美と母親は目を見合わせ笑った。

「お母さんも愛美の気持ち分かるわあ。だってお母さんが若いとき、お父さんの束縛すごかったもの」
「そうだろうねえ。よく今までずっと一緒にいれたね? 嫌じゃなかったの?」

 愛美が尋ねると、母親は臭いものを嗅いだ時のような顔をした。

「嫌だったわよ。同窓会に行った時なんて、学校も年齢も違うのに『俺もついて行く!』って言って聞かなかったの。それに、もう電話がすごくてすごくて。お母さん、すっごく恥ずかしかったわあ」
「うわあ……。こっわ……。そんな夫いやだわ……」
「今は愛情がほとんど愛美に移ってるから、お母さん助かってるわあ」
「ちょっと、やめてよ。お父さんの愛情返品します」
「結構結構。お母さんは今でちょうどいいんだから」

 母親と窮屈さを共有して笑い話にできるから、愛美は父親の重い愛情をなんとか受け止められている。こういう時、愛美は母親の存在にありがたさを実感する。
 母親は同情を込めた目を向け、ぎこちない笑みを浮かべた。

「でも……愛美をこんなに大切に想ってくれるのはお父さんだけよ? 他人さんは、愛美をこんなに大切にしてくれないし、大学費用を支払うことも、我儘を聞くこともしてくれないわ。だから、しんどい時もあるだろうけど、お父さんへの感謝の気持ちは忘れないようにね」

 愛美は、一瞬でも父親の死を願ったことを恥じた。

「うん。分かってるよ、お母さん」

 じゃあ、おやすみ、と言って、母親は愛美の部屋をあとにした。
 愛美は布団を被り、唇を噛む。

(恩知らず。私が死ね)

 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

意味が分かると怖い話【短編集】

本田 壱好
ホラー
意味が分かると怖い話。 つまり、意味がわからなければ怖くない。 解釈は読者に委ねられる。 あなたはこの短編集をどのように読みますか?

それなりに怖い話。

只野誠
ホラー
これは創作です。 実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。 本当に、実際に起きた話ではございません。 なので、安心して読むことができます。 オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。 不定期に章を追加していきます。 2025/12/7:『どろのあしあと』の章を追加。2025/12/14の朝8時頃より公開開始予定。 2025/12/6:『とんねるあんこう』の章を追加。2025/12/13の朝8時頃より公開開始予定。 2025/12/5:『ひとのえ』の章を追加。2025/12/12の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/4:『こうしゅうといれ』の章を追加。2025/12/11の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/3:『かがみのむこう』の章を追加。2025/12/10の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/2:『へびくび』の章を追加。2025/12/9の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/1:『はえ』の章を追加。2025/12/8の朝4時頃より公開開始予定。 ※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。

10秒で読めるちょっと怖い話。

絢郷水沙
ホラー
 ほんのりと不条理な『ギャグ』が香るホラーテイスト・ショートショートです。意味怖的要素も含んでおりますので、意味怖好きならぜひ読んでみてください。(毎日昼頃1話更新中!)

処理中です...