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第一章
第一話 春の檻-2
しおりを挟む自分のために死んでくれる人かどうかが、真の愛情の判断基準だと愛美は考えていた。昭は当然、愛美のために死んでくれるような人ではない。母親も死んではくれないだろう。
父親だけは喜んで死んでくれる。愛美はそう確信していた。
真の愛情は重く、時に息が詰まる。辟易することも度々あった。
それでも愛美は手放せない。一時の感情で手放せば、必ずのちに後悔することを分かっていた。
二十二時を過ぎてから、愛美のスマホはひっきりなしに鳴り響く。愛美は慌てて車に乗り込みアクセルを踏んだ。
家に到着すると、ベランダからこちらを睨んでいる父親と目が合った。
「どこ行ってたんだ!」
「ごはん食べてた」
「誰とだ!」
「同僚」
「名前は!」
「……」
父親のこういうところは流石に嫌気がさす。二十五歳の社会人にもなって、門限が二十二時。仕事終わりや休日に遊びに行くときは、誰と時間を共にするのかを伝えなければならない。
同性の友人であれば何も言われないが、異性であれば、たとえ友人であっても――ましてや彼氏ならなおさら――父親は激しく反対する。そのため、愛美は毎回嘘を吐かなければならない。
「典子さんって人。一回お父さんも出会ったことがあるでしょ。あの人とごはん食べてただけ」
また愛美が父親に叱られているところを近所の人に聞かれてしまった。笑いの種にされているのではないかと考えると、より父親に対する苛立ちが滲み出る。
ノックの音もなく、父親が部屋に入ってきた。
「愛美、門限は守りなさい。お父さん、何度も言っているだろう?」
「……」
「返事は?」
「……はい」
それ以外の言葉は許されない。無言を貫くことすらさせてくれない。
「その顔はなんだ? 何か文句でもあるのか?」
感情を顔に出すことも許されない。愛美は深く息を吸い、表情に滲む反抗心を拭き取った。
愛美はほとんど稀に……たまに……時々、父親に対して不意に沸き起こる感情がある。
(死ね)
そう思ったときは、決まって頬の内側を噛んでいる。
強く噛むにつれ鈍い痛みは生温かい快感に変わっていく。愛美はより強い快感を求め、鉄の味が舌先を撫でても構わず肉に歯を食いこませる。内頬に歯形がつき、皮がめくれ、やがて白く変色して口内炎となることを知っていたが、快感に抗えずにいつも自分の肉を食べてしまう。
それだけでは物足りず、愛美は安全ピンを手に卓上ミラーの前に座った。
口内炎だらけの口を開き、針を歯茎にそっと刺す。小さく深い痛みに愛美は甘い声を漏らした。
ゆっくりと針を差し込んでいくと、やがて歯茎の裏から針先が覗いた。
愛美はそのまま針を前後に動かした。膣内を陰茎で抉られるよりも強い快感が走る。
「んっ、ふ……。あ、あぁ」
こうして快感に溺れていると、父親への憎しみを忘れることができた。
快感を堪能した愛美はベッドに大の字になって寝そべった。雨漏りで剥がれた天井の壁紙が、十年間、寝小便のような跡を残したままになっている。父親はそれを修理しようとは思わないらしい。壁紙を張り替える費用を支払うくらいなら、愛美に金を使いたいのだろう。愛美もまた、醜く汚い天井に愛着が湧いていたので、そのままで良いと思っていた。
ノックの音が聞こえ、母親が顔を覗かせた。
「愛美、入っていい?」
「うん。どうしたの?」
母親は愛美の部屋に入るたび、剥がれた壁紙を見て微かに顔をしかめる。彼女はそこに目を向けたまま口を開いた。
「本当はどこに行ってたの?」
「彼氏のとこ。……お父さんには言わないでね?」
「言わないわよ。そんなこと言ったらどうなるか」
過保護すぎる父親に、母親も呆れている様子だ。
「もう二十五歳なのにねえ。彼氏の一人や二人くらい、いいじゃないのね」
「一人はいいけど二人はダメでしょ」
「言葉の綾よ」
愛美と母親は目を見合わせ笑った。
「お母さんも愛美の気持ち分かるわあ。だってお母さんが若いとき、お父さんの束縛すごかったもの」
「そうだろうねえ。よく今までずっと一緒にいれたね? 嫌じゃなかったの?」
愛美が尋ねると、母親は臭いものを嗅いだ時のような顔をした。
「嫌だったわよ。同窓会に行った時なんて、学校も年齢も違うのに『俺もついて行く!』って言って聞かなかったの。それに、もう電話がすごくてすごくて。お母さん、すっごく恥ずかしかったわあ」
「うわあ……。こっわ……。そんな夫いやだわ……」
「今は愛情がほとんど愛美に移ってるから、お母さん助かってるわあ」
「ちょっと、やめてよ。お父さんの愛情返品します」
「結構結構。お母さんは今でちょうどいいんだから」
母親と窮屈さを共有して笑い話にできるから、愛美は父親の重い愛情をなんとか受け止められている。こういう時、愛美は母親の存在にありがたさを実感する。
母親は同情を込めた目を向け、ぎこちない笑みを浮かべた。
「でも……愛美をこんなに大切に想ってくれるのはお父さんだけよ? 他人さんは、愛美をこんなに大切にしてくれないし、大学費用を支払うことも、我儘を聞くこともしてくれないわ。だから、しんどい時もあるだろうけど、お父さんへの感謝の気持ちは忘れないようにね」
愛美は、一瞬でも父親の死を願ったことを恥じた。
「うん。分かってるよ、お母さん」
じゃあ、おやすみ、と言って、母親は愛美の部屋をあとにした。
愛美は布団を被り、唇を噛む。
(恩知らず。私が死ね)
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