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第一章
第一話 春の檻-3
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◇◇◇
月末、父親が封筒を差し出した。
「愛美。今月の給料」
「ありがとう」
礼を言ったものの、薄い封筒に愛美は毎月深いため息を吐く。
本来は三十五万円もらえるはずの給料日。しかし、振込先を父親の口座にしているので、愛美の手元には十万円しか届かない。
愛美は何度目か分からない交渉を試みる。
「ねえ、お父さん。もうちょっと欲しいよ。せめてあと三万円……」
「ダメだ。愛美は金遣いが荒いんだから、渡したら全部使うだろう」
言い返せず黙り込んだ愛美に、父親は言葉を続ける。
「お父さんが毎月貯金してやってるから、その年齢にしては恥ずかしくない程度の貯金があるんだ。お前は知らないだろうが、嫁入りの時にはお金がかかるし、子どもができたらなおさら――」
(結婚なんてさせる気ないくせに、よく言う)
内心は毒づいても、自分より父親の方が正しいことを言っていることは自覚していたので、愛美はそれ以上食い下がろうとはしなかった。
愛美は納得したことにも、昭は首をひねり、唸る。
「そんなのおかしいだろ。お前が稼いだ給料なのに」
「お父さんは、別に私のお金を自分の財布に入れてるわけじゃないよ」
「いや……確かにお前は金遣いが荒いけど……。でもさ、それはちょっと違くね? 今からでも自分の通帳に変更できるんだから、手続きすれば?」
「無理だよ。だってお父さんが許してくれないもん」
昭はため息を吐き、呆れた声を漏らす。
「お前もう二十五歳だぞ? 立派な大人なんだから、そこまで親に干渉されるのはおかしいだろ」
愛美は何も言わずに俯いた。二十五歳にもなって自立できていないことは分かっている。
「そろそろ親に子離れさせてやれよ」
父親が子離れできないのは、異常なほどの愛情の持ち主である彼が原因でもあり、二十五歳にしては自活力がなく頼りない愛美が原因でもあった。
愛美は自分で何かを決めたことがほとんどない。高校は父親の母校に入り、大学は父親が決めた有名私立女子大学に入った。愛美が行きたかった大学とは違ったが、父親がそこに行けと言って聞かなかったので従った。
結果、愛美はその大学に行って正解だったと思っている。学友にも教授にも恵まれた彼女は大学生活を謳歌し、やはり父親は正しいのだと実感した。
自らの意志がいかに浅はかで無意味であることか知った愛美は、それからは就職先も、給与振込先も、父親に言われるがまま従っている。
いつからか、愛美は自分で考えることを止めた。父親に操縦させるトロッコにただ乗っているのは、窮屈だが気が楽で、心地よく、間違いがなかったのだ。
愛美は伏し目がちに昭に尋ねる。
「私って、普通じゃないかなぁ?」
「まあ、普通ではないよな。二十五歳にもなって、父親の顔色伺ってばっかの女、少なくとも俺は初めてだけど」
「そうだよね……。私って変だよね……」
それに、と昭はキャベツを千切りにしていた手を止め、包丁を愛美に見せた。
「料理も一切しねえし。ちょっとくらい手伝えよ」
「ごめん……。お父さんに、危ないからキッチンには立つなって言われてて……」
小学生の時、愛美は一度包丁で指を切ったことがあった。それから父親は、愛美に包丁を握ることを禁じた。コンロも火事になったらいけないからと、使わせてくれない。
昭は目を細め、苛立ちを抑えるために貧乏ゆすりをする。
「男と会うのもダメ。料理もしたらダメ。二十二時には家に帰らないといけないし、給料も自分の通帳に振り込まれない。……生き辛くねえの? お前」
「生き辛い……?」
窮屈さはずっと感じていたが、愛美にとってはこの環境が当たり前だったため、生き辛いと思ったことがなかった。
「いろんなこと禁止されて、自分のしたいようにさせてもらったことがなくて、ずっと両親に監視されて生きてるなんて、しんどいだろ」
そして昭は、言いづらそうに本音を吐いた。
「お前の両親、おかしいよ」
昭と言葉を交わしていると、正しい道を走っていると信じて疑わなかったトロッコがぐらつく感覚に襲われる。
バランスを崩しトロッコに掴まった愛美の手に、粘り気のある半透明の液体が絡まる。
それはまるで、父親の精液。
こみ上げてくる吐き気に、愛美は口元を押さえた。
「……そんなにおかしいのかな」
「うん。お前、そのままだと一生親離れできないぞ」
「……」
「だから今日は、一緒に料理してみようぜ。大丈夫だって。親にはバレない」
愛美はおそるおそる頷き、昭の隣に立った。包丁の握り方を教えてもらい、初めてキャベツを切る。昭が切ったものと比べると五倍ほど太い千切りだったが、それでも昭は笑って食べてくれた。
「ほら、手なんか切らなかっただろ」
「ほんとだね。意外と切らないもんなんだ」
「当り前だろ。お前が包丁で手を切ったのは、もう二十年くらい前なんだから。今だと普通に料理できるんだよ」
「そうだったんだ……。知らなかった」
昭の千切りよりも不格好な愛美の千切り。だが、味はどちらも変わらない。
「私、料理できたんだ……」
「キャベツ切っただけだけどな。今度はカレー作ってみるか?」
「うん、作ってみたい」
カレーの作り方など知らなかったが、昭が教えてくれるなら、愛美にも作れる気がした。
家に帰った愛美は、得意げな顔で母親に報告した。
「お母さん、聞いて。今日ね、彼氏の家でキャベツ切ったの」
「あら! ちゃんと切れた?」
「下手だったけど、なんとか。手も切らなかったよ」
「そうよね。二十五歳になっても包丁を使っちゃダメなんて、おかしいわよね。ほんと、お父さんは過保護すぎるのよ」
愛美はまじまじと母親を見た。
「やっぱり、お父さんの過保護度合いっておかしい?」
「おかしいわよ。そのせいで愛美はこんな風に育っちゃわけだし」
母親の返しに、愛美は微かに眉を寄せる。
「こんな風にって?」
「家事は何もできないし、ワガママだし、心が弱いし。宗教もしないし。それは全部、お父さんが愛美のことを過保護に育てたせいでしょ?」
「……宗教は関係なくない?」
「あるわ。お父さんがお母さんの宗教の悪口を言うから、愛美はそうなっちゃったんだから」
愛美は目を瞑り、深く息を吸った。
宗教の話になった時だけ母親の姿が豚に見える。話が通じず、意味の分からない鳴き声を発する目の前の豚に、どのように言えば理解してもらえるのかを考える時間が必要だった。
「……お母さん。私は、自分でお母さんと同じ宗教をしない道を選んだの。お父さんは関係なく」
「だから、そういう考えになったのがそもそもお父さんのせいなの。だって他の人たちの子どもたちはちゃんと熱心に宗教をしてるもの。私とお父さんがちゃんと愛美を育てていれば、こんな子にならなかったはずよ」
「ちゃんとって何? 他の人たちは自分で考えずに親の意向に従っただけでしょ。私は違う。自分で考えて、自分で選べた。もしそれがお父さんのおかげなら、感謝しなきゃね」
母親の顔がみるみるうちに歪んでいく。彼女はテーブルに拳を叩きつけ、娘に背を向けた。
「ああ、そう。ほんと。育て方を間違えたわ。それもこれも、お父さんのせい」
育て方を間違えた。
その一言で、愛美の脳内にある、母親との楽しかった記憶がほとんど全て消え去った。
愛美は唇を噛み、足音を踏み鳴らして部屋に戻った。
育て方を間違えた。それはつまり、母親にとって愛美は理想の子どもではないということだ。他の子どもを引き合いに出すということは、愛美よりその子どもたちの方が良かったということだ。
愛美は、家事は何もできない、ワガママで心が弱い、母親と同じ宗教をしない、出来損ないの娘。
ベッドにうつ伏せになっていると、父親が部屋に入ってきた。
「愛美……。なんか、お母さんが怒ってたけど。ケンカしたのか?」
父親の姿を見ると、愛美の目から涙が溢れた。
「おとっ……お父さぁん……。私、育ち方間違ったの……?」
「は……?」
「お母さんがっ、育て方間違えたって……。私が宗教しないからぁぁ……」
父親は目を見開き、愛美を抱きしめる。
「愛美は、お父さんの自慢の娘だよ」
やっぱりそうだ、と愛美は父親の胸に顔をうずめる。
出来損ないの愛美を心から愛してくれるのは父親しかいない。
「お父さんは、愛美がこうして元気でいてくれるだけで幸せだ」
「うん……っ」
「こうしてお父さんの傍でいてくれるだけで、幸せなんだ」
父親はそっと愛美をベッドに横たえ、檻の鍵をかけるよう、布団を彼女の体に被せた。
父親の精液が沁み込んだ天井の下で、愛美は安らかな寝息を立てる。
月末、父親が封筒を差し出した。
「愛美。今月の給料」
「ありがとう」
礼を言ったものの、薄い封筒に愛美は毎月深いため息を吐く。
本来は三十五万円もらえるはずの給料日。しかし、振込先を父親の口座にしているので、愛美の手元には十万円しか届かない。
愛美は何度目か分からない交渉を試みる。
「ねえ、お父さん。もうちょっと欲しいよ。せめてあと三万円……」
「ダメだ。愛美は金遣いが荒いんだから、渡したら全部使うだろう」
言い返せず黙り込んだ愛美に、父親は言葉を続ける。
「お父さんが毎月貯金してやってるから、その年齢にしては恥ずかしくない程度の貯金があるんだ。お前は知らないだろうが、嫁入りの時にはお金がかかるし、子どもができたらなおさら――」
(結婚なんてさせる気ないくせに、よく言う)
内心は毒づいても、自分より父親の方が正しいことを言っていることは自覚していたので、愛美はそれ以上食い下がろうとはしなかった。
愛美は納得したことにも、昭は首をひねり、唸る。
「そんなのおかしいだろ。お前が稼いだ給料なのに」
「お父さんは、別に私のお金を自分の財布に入れてるわけじゃないよ」
「いや……確かにお前は金遣いが荒いけど……。でもさ、それはちょっと違くね? 今からでも自分の通帳に変更できるんだから、手続きすれば?」
「無理だよ。だってお父さんが許してくれないもん」
昭はため息を吐き、呆れた声を漏らす。
「お前もう二十五歳だぞ? 立派な大人なんだから、そこまで親に干渉されるのはおかしいだろ」
愛美は何も言わずに俯いた。二十五歳にもなって自立できていないことは分かっている。
「そろそろ親に子離れさせてやれよ」
父親が子離れできないのは、異常なほどの愛情の持ち主である彼が原因でもあり、二十五歳にしては自活力がなく頼りない愛美が原因でもあった。
愛美は自分で何かを決めたことがほとんどない。高校は父親の母校に入り、大学は父親が決めた有名私立女子大学に入った。愛美が行きたかった大学とは違ったが、父親がそこに行けと言って聞かなかったので従った。
結果、愛美はその大学に行って正解だったと思っている。学友にも教授にも恵まれた彼女は大学生活を謳歌し、やはり父親は正しいのだと実感した。
自らの意志がいかに浅はかで無意味であることか知った愛美は、それからは就職先も、給与振込先も、父親に言われるがまま従っている。
いつからか、愛美は自分で考えることを止めた。父親に操縦させるトロッコにただ乗っているのは、窮屈だが気が楽で、心地よく、間違いがなかったのだ。
愛美は伏し目がちに昭に尋ねる。
「私って、普通じゃないかなぁ?」
「まあ、普通ではないよな。二十五歳にもなって、父親の顔色伺ってばっかの女、少なくとも俺は初めてだけど」
「そうだよね……。私って変だよね……」
それに、と昭はキャベツを千切りにしていた手を止め、包丁を愛美に見せた。
「料理も一切しねえし。ちょっとくらい手伝えよ」
「ごめん……。お父さんに、危ないからキッチンには立つなって言われてて……」
小学生の時、愛美は一度包丁で指を切ったことがあった。それから父親は、愛美に包丁を握ることを禁じた。コンロも火事になったらいけないからと、使わせてくれない。
昭は目を細め、苛立ちを抑えるために貧乏ゆすりをする。
「男と会うのもダメ。料理もしたらダメ。二十二時には家に帰らないといけないし、給料も自分の通帳に振り込まれない。……生き辛くねえの? お前」
「生き辛い……?」
窮屈さはずっと感じていたが、愛美にとってはこの環境が当たり前だったため、生き辛いと思ったことがなかった。
「いろんなこと禁止されて、自分のしたいようにさせてもらったことがなくて、ずっと両親に監視されて生きてるなんて、しんどいだろ」
そして昭は、言いづらそうに本音を吐いた。
「お前の両親、おかしいよ」
昭と言葉を交わしていると、正しい道を走っていると信じて疑わなかったトロッコがぐらつく感覚に襲われる。
バランスを崩しトロッコに掴まった愛美の手に、粘り気のある半透明の液体が絡まる。
それはまるで、父親の精液。
こみ上げてくる吐き気に、愛美は口元を押さえた。
「……そんなにおかしいのかな」
「うん。お前、そのままだと一生親離れできないぞ」
「……」
「だから今日は、一緒に料理してみようぜ。大丈夫だって。親にはバレない」
愛美はおそるおそる頷き、昭の隣に立った。包丁の握り方を教えてもらい、初めてキャベツを切る。昭が切ったものと比べると五倍ほど太い千切りだったが、それでも昭は笑って食べてくれた。
「ほら、手なんか切らなかっただろ」
「ほんとだね。意外と切らないもんなんだ」
「当り前だろ。お前が包丁で手を切ったのは、もう二十年くらい前なんだから。今だと普通に料理できるんだよ」
「そうだったんだ……。知らなかった」
昭の千切りよりも不格好な愛美の千切り。だが、味はどちらも変わらない。
「私、料理できたんだ……」
「キャベツ切っただけだけどな。今度はカレー作ってみるか?」
「うん、作ってみたい」
カレーの作り方など知らなかったが、昭が教えてくれるなら、愛美にも作れる気がした。
家に帰った愛美は、得意げな顔で母親に報告した。
「お母さん、聞いて。今日ね、彼氏の家でキャベツ切ったの」
「あら! ちゃんと切れた?」
「下手だったけど、なんとか。手も切らなかったよ」
「そうよね。二十五歳になっても包丁を使っちゃダメなんて、おかしいわよね。ほんと、お父さんは過保護すぎるのよ」
愛美はまじまじと母親を見た。
「やっぱり、お父さんの過保護度合いっておかしい?」
「おかしいわよ。そのせいで愛美はこんな風に育っちゃわけだし」
母親の返しに、愛美は微かに眉を寄せる。
「こんな風にって?」
「家事は何もできないし、ワガママだし、心が弱いし。宗教もしないし。それは全部、お父さんが愛美のことを過保護に育てたせいでしょ?」
「……宗教は関係なくない?」
「あるわ。お父さんがお母さんの宗教の悪口を言うから、愛美はそうなっちゃったんだから」
愛美は目を瞑り、深く息を吸った。
宗教の話になった時だけ母親の姿が豚に見える。話が通じず、意味の分からない鳴き声を発する目の前の豚に、どのように言えば理解してもらえるのかを考える時間が必要だった。
「……お母さん。私は、自分でお母さんと同じ宗教をしない道を選んだの。お父さんは関係なく」
「だから、そういう考えになったのがそもそもお父さんのせいなの。だって他の人たちの子どもたちはちゃんと熱心に宗教をしてるもの。私とお父さんがちゃんと愛美を育てていれば、こんな子にならなかったはずよ」
「ちゃんとって何? 他の人たちは自分で考えずに親の意向に従っただけでしょ。私は違う。自分で考えて、自分で選べた。もしそれがお父さんのおかげなら、感謝しなきゃね」
母親の顔がみるみるうちに歪んでいく。彼女はテーブルに拳を叩きつけ、娘に背を向けた。
「ああ、そう。ほんと。育て方を間違えたわ。それもこれも、お父さんのせい」
育て方を間違えた。
その一言で、愛美の脳内にある、母親との楽しかった記憶がほとんど全て消え去った。
愛美は唇を噛み、足音を踏み鳴らして部屋に戻った。
育て方を間違えた。それはつまり、母親にとって愛美は理想の子どもではないということだ。他の子どもを引き合いに出すということは、愛美よりその子どもたちの方が良かったということだ。
愛美は、家事は何もできない、ワガママで心が弱い、母親と同じ宗教をしない、出来損ないの娘。
ベッドにうつ伏せになっていると、父親が部屋に入ってきた。
「愛美……。なんか、お母さんが怒ってたけど。ケンカしたのか?」
父親の姿を見ると、愛美の目から涙が溢れた。
「おとっ……お父さぁん……。私、育ち方間違ったの……?」
「は……?」
「お母さんがっ、育て方間違えたって……。私が宗教しないからぁぁ……」
父親は目を見開き、愛美を抱きしめる。
「愛美は、お父さんの自慢の娘だよ」
やっぱりそうだ、と愛美は父親の胸に顔をうずめる。
出来損ないの愛美を心から愛してくれるのは父親しかいない。
「お父さんは、愛美がこうして元気でいてくれるだけで幸せだ」
「うん……っ」
「こうしてお父さんの傍でいてくれるだけで、幸せなんだ」
父親はそっと愛美をベッドに横たえ、檻の鍵をかけるよう、布団を彼女の体に被せた。
父親の精液が沁み込んだ天井の下で、愛美は安らかな寝息を立てる。
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