叶え哉

まぜこ

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第四章

第七話 愛のため、家族のため-1

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 愛美は多忙を極めていた。もともと六人いた同僚が、寿退社や一身上の理由などで仕事を辞めたことにより、営業社員が愛美を含めて二人になったのだ。それなのに人員の補充はされず、愛美と残されたたった一人の同僚は、通常より約三倍もの仕事量を背負い日々を過ごしていた。
 午後九時まで会社で事務仕事。会社を追い出されると、自宅に帰って夜中を過ぎてもパソコンを叩く。土日もアポイントで埋め尽くされていて、愛美はここ数か月、丸一日休日だった日がなかった。
 同じ仕事をしている父親に弱音を零したこともあった。しかし父親は鼻で笑うだけだ。

「そんなに会社から案件をもらえるなんて嬉しいことじゃないか。俺が若い頃は、自分で顧客を開拓しなきゃいけなかったんだ。贅沢な悩みだな。羨ましいよ」

 贅沢な悩み。愛美が他人によく言われる言葉だ。
 裕福な家庭。実家住まいで、母親に家事を任せっきり。家に金を入れることもせず、親のコネで入社した箱入り娘。しかも会社から溺れるほどの案件をもらっている。
 どこに愛美が文句を言える余地があるのだろうか。
 それなのに、ゆとり教育を受けた愛美は、今の生活を辛いと言う。
 こんな生活を半年続けたあたりで、愛美に異変が起こり始めた。

(……あれ?)

 表情が動かない。思考と感情の動きが鈍い。手足が自分のものではないように感じた。

(なにもしたくない)

 無気力。
 朝、いつもの時間に父親が起こしに来たので、愛美は体調不良を訴えた。

「お父さん。なんか体調おかしい。仕事休みたい」
「熱は?」
「ない」
「じゃあ行きなさい」
「でも……」

 父親は首を横に振り、愛美の言葉を遮った。

「仕事に行きたくないだけだろう。我儘を言うんじゃない。会社は学校と違ってそんな簡単に休めるものじゃないんだ。いい加減社会人としての自覚を持ちなさい」
「……」
「返事は」
「……はい」

 スーツを身につけると、愛美の顔に笑顔が張り付く。体調不良を理由に職場で浮かない顔をするわけにはいかない。流産した時も、子猫を亡くした時も、愛美はいつも通り働いた。それが社会人というものだ。
 客や社員とどうでもいいことを話し、興味のない話を聞き、面白くない話で笑っていると、だんだん体と精神が乖離していく感覚がした。

 自分が何を感じ、どんな気持ちなのかが分からない。
 なぜ自分が笑っているのか、笑えているのか分からない。
 自分が誰なのかが分からない。
 なんのために生きているのか、分からない。

 久しぶりに土曜日の午前が空いたので、愛美はこっそり心療内科に行った。医者の前に腰かけた途端、言葉より先に涙が溢れた。
 もう辛いと零すと、医者は話を聞いてくれた。そして彼女に「適応障害」と病名を付けた。
 病名を付けられたことに、愛美はどこか安堵した。

(病気だった。病気だったら、辛くても仕方ない)

 自宅に帰った愛美は、早速父親に報告した。
 しかし父親は険しい顔を浮かべ、吐き捨てる。

「そんなの気持ちの持ちようだろう。お前より辛い思いをしてる人は山ほどいる。甘えるな」

 相談を受けた母親は、そっと両手を合わせる。

「宗教をしてないからよ。だからあなたは弱い人間なの」

 翌日、愛美は泣きながら支社長に相談した。

「えっ、でも、会社に来れてるってことは軽いんだよね? まだ大丈夫だ」

 言葉に詰まる愛美に、彼は作り笑顔を浮かべて遠回しにこう言った。

「どうでもいいから、早く契約取って来なさい」

 病名がついたことは、愛美を安心させただけで、特段意味のないものだった。
 大丈夫かどうかは、何をするべきかどうかは、愛美が決めることではない。
 周りが決めることなのだ。

 愛美はその日から、家の中や周りをうろつくようになった。二十五年間毎日見ていた景色が、今では全く違うもののように映る。新鮮で、宝探しをしているような、心が躍る瞬間があった。

 たとえば、クローゼット。

(掃除しとかないとなあ)

 ドアノブ。

(ネジ、締めといた方がいいよね)

 車庫。

(そういえば、お母さんがよくここで干し柿作ってたなあ)

 木。

(おー。立派。これ、なんの木だっけ)

 首を吊れそうな場所を見つけると、少し胸が軽くなった。
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