叶え哉

まぜこ

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第三章

第六話 攣るか吊るか-3

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 支社長が聞き返すも、口角を上げるだけで応えない鶴井。
 気味が悪くなった支社長は、ランニングマシーンから降りようとした。しかし、体が思うように動かず、意思とは関係なく走り続ける。

「ん? あれ。え?」

 マシンを止めようと液晶画面に触れるものの、画面は反応せず、真っ暗なまま汗を滲ませる支社長の顔を朧げに映すだけ。

「鶴井君。止めてくれないか。なんだか変だ。様子がおかしい」
「そんな遠慮なさらず。存分に楽しんでくださいね。それでは、僕はこれで」

 そう言って、鶴井は別室の扉を閉めた。

「おい! 鶴井君! 助けてくれ! 体が言うことを聞かないんだ! おい! マシンを止めてくれぇ! 鶴井君! 冴木さん! おい! おいいいい!」

 別室の壁と扉に防音対策をしておいてよかったと考えながら紅茶を啜る鶴井に、冴木が駄目押しする。

「言っとくが、経費では落とさんからな」
「ええ!? 冗談ですよね!? 今日のためだけに買ったんですけど!」

 冴木は舌打ちして鶴井に鋭い目を向けた。

「人間一人殺すためだけに何を無駄遣いしている。事務所の金は無限じゃないんだぞ」
「そんなあ……。ひどいです冴木さん……。あああ、明日からひもじい生活を強いられてしまうんだ、僕は……」
「お前は少しひもじい生活をした方がいいぞ。腹に肉がついてきた」
「えっ」

 確かに、腹に手を添えると柔らかい肉が吸い付いた。ショックで言葉を失っている鶴井に、冴木は含み笑いをする。

「良かったじゃないか。ランニングマシーンの用途が増えた」

 一時間後、鶴井は支社長の様子を見に別室に顔を出した。叫びながら全速力で走っている支社長があまりにシュールで思わず噴き出す。
 生霊にコントロールを奪われた支社長の体は、膝が痛んでも、心臓が破裂しそうなほど鼓動を速めても、一定の速度で回り続けるローラーに合わせて走り続ける。

「ああああああっ。もういやだあぁああっ。走りたくない走りたくない」
「おやおや。もうヘトヘトじゃないですか。まだ二時間しか経っていませんよ」

 口から涎を垂らす支社長は、息も絶え絶えに鶴井に懇願する。

「鶴井君っ……! 助けてくれええええっ! 足が止まらないんだああぁっ」
「うんうん。その調子で走り続けてください」

 支社長は狂ったように頭を振り、鶴井に向けて手を伸ばす。

「死んでしまうううう! 足が千切れそうなんだ! 心臓が爆発する! 口の中が血の味がするんだあああっ! もういやだあああっ! 止まってくれえええっ! 走りたくないよぉぉおぉっ!」

 子どものような口調で泣き叫ぶ中年男には、さすがの鶴井も勃起しなかった。

「なにをおっしゃいます。息ができて、声も出ているんですから、あなたはまだ大丈夫です」
「せめてっ……水をっ……水をくれぇぇぇっ!!」
「うだうだ言っていないで、黙って走り続けてください」
「なんでっ。どうして助けてくれないんだぁあぁ鶴井ぃぃいぃい!!」

 鶴井は首が落ちそうなほど傾げ、支社長の背後を指さした。

「どうしてって。あなたが助けなかったからですよ」

 鶴井は気まぐれに水や食料を与えることもあった。

「支社長。ほら、お給料ですよ」

 そう言って放り投げられたものを受け取ると、支社長は思わずと言った様子で頬を緩めた。
 鶴井は彼に笑みを返し、マシンの速度を速める。

「ご褒美をあげたんですから、今よりもっと頑張って走ってくださいね」
「やめろぉぉ……っ。やめてくれぇぇぇ……っ。どうしてっ、こんな……っ、ことを……するんだ、鶴井君……っ! これに……何の意味がっ……! もうっ、止めてくれっ……頼むっ……!」

 鶴井に殺される人間は、だいたい同じ質問をする。そして彼はいつも同じ答えをする。

「理由はないです。強いて言うなら、あなたに生霊が憑いているからですかね」

 二時間経っても、三時間経っても、支店長は走り続けなければならなかった。その頃にはもう足の感覚はなく、酸欠になり、激しい頭痛に襲われていた。
 体力の限界をとうの前に向かえた支社長は、度々床に崩れ落ちる。しかしそんな彼を、彼に憑いた生霊たちが起き上がらせ、走らせた。
 勝手に動き続ける体。泣いても、叫んでも、自分の体さえ言うことを聞いてくれない。

「どうしてっ。もう走りたくないっ。もう動かないでくれっ。なあっ。なああああああ!」

 鶴井は一時間毎に二、三度、支社長の様子を見に来た。

「どうしたんです。いつものあなたなら、このくらいの時間走り続けるなんて余裕でしょう」

 強制的なスピードで走らされ、休憩することを許されない状況に置かれた支社長には、もう言葉を返す余裕すらない。

「オリンピック選手ならもっと速く走れますよぉ。鍛錬不足なんじゃないですか? 僕でももう少し速く走れそうです」

 だったらお前が走ってみろ。走りたくもない時に、意味も分からないまま無理矢理走らされている身になってみろ。同じ状況に置かれたことがないのに知った口を利くな――
 支社長の心の叫びは、はっきりと鶴井の耳に届いた。

「鶴井君っ……もっと水を……っ。脱水症状が……っ」
「脱水症状なんて甘えでしょう。僕はちゃんと水を与えていましたよ。ワガママ言わないでください」
「正気か……!? こっちは走り続けているんだぞ……っ。あんな量の水で足りるわけがない……っ」
「そうですか? 僕はそうは思いませんけどねえ。大丈夫、大丈夫」

 五時間が経った頃、鶴井は天井に縄を吊るした。
 縄の先には、輪が作られている。
 目の前に吊り下げられた縄が、支社長のぼやけた視界に映る。
 それを眺めながら走り続ける支社長に、鶴井は言った。

「走ることに疲れたら、縄に首を通してもいいですよ。そしたらクレーンが作動して、あなたを吊り上げてくれます。足を攣っても生霊が走らせ続けますが、首を吊ったら全てを終えられます。好きな方をお選びください」

 鶴井が事務所に戻ると、退屈そうに読書をしていた冴木が顔を上げる。

「支社長はどちらを選ぶかな?」
「さあ。僕としては最期まで走り続けて欲しいですね。なんたって、それが、彼が僕たちに求めたものなんですから」

 走り始めて一日も経たないうちに支社長は死んだ。
 冴木は死体を一瞥し、ため息を吐く。

「なんだ。もう死んだのか」
「思ったより早かったですね。もう少し根性のある人間だと思っていたのですが」
「根性。根性ねえ」

 支社長に憑いていた七体の生霊は、彼の体から出て伸びをした。長年同じ人間に憑いていた者同士で仲良くなったのだろう。それらはみなで一杯飲んでから元の体に戻ると言って、鶴井の事務所をあとにした。
 鶴井はそれらを見送ったあと、支店長の死体をまさぐる。

「……僕の探している生霊が出てこない」
「憂さが晴れなかったのか」

 鶴井はそうは思わなかった。おそらく、死体から這い出る力も残っていないのだろう。彼は胸ポケットでうたた寝していた三体の生霊を起こし、支店長に向けて放った。
 死体に潜り込んだ生霊たちは、閉じ込められていた生霊の手を引いて鶴井の元に戻って来た。
 憔悴している四体目の生霊を、鶴井は抱きしめ優しく撫でる。

「おお、やっと会えた。よしよし。よしよし」
《ヨワクテゴメンナサイ》
「君だけが弱いんじゃない。僕だって、支店長だって、みんな弱い。だって人間なんだから」

 隣で立っていた冴木は大口を開けて欠伸をした。そして七体の生霊が泳ぐ空に目をやり、呟く。

「鶴井。生霊は、本体が死んでも存在し続けるんだぞ」
「……分かっていますよ、そんなこと」
「あの生霊の中には、帰る場所が棺桶の中のやつらもいるだろう」

 冴木は、鶴井が大事そうに抱えている四体の生霊に視線を送る。

「お前のソレはどうなんだ? お前がソレを集める意味はまだあるのか?」

 鶴井は満面の笑顔を浮かべ、冴木の肩を抱く。

「あれ? もしかして冴木さん、僕のことを心配してくれているんですか?」
「お前の耳はどういう構造になっている? なぜそうなった?」
「それより冴木さん、仕事も終わったことですし、今から飲みに行きませんか? 僕の奢りで」
「よし、行くぞ」

 糞尿は垂らしていたものの、いつもに比べれば状態の良い死体の処理は楽だった。
 死体処理課の所員に死体を預け、事務所の清掃を任せている間、鶴井と冴木は夜の町に繰り出した。
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