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第三章
第六話 攣るか吊るか-2
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鶴井と冴木は、無言で男の写真に落書きをした。眉毛を太くして、唇と瞳を塗りつぶし、真っ黒の涙を流させる。こちらの方が、背後でひしと身を寄せ合う生霊の表情と合っていてしっくり来た。
「それで、受けるのか受けないのか」
冴木の確認に、鶴井は頷いた。
「受けます」
「そうか。助かる」
「僕の事務所に来させてください」
冴木が客を連れて鶴井の事務所に訪れたのは三日後の金曜だった。
商談ができると思い込んでいる支社長は、いかにも高級そうな消し炭色のスーツを身につけ、名刺入れから名刺を取り出していた。
「おや。来られていたんですね。すみません、準備に手こずっていまして」
別室から顔を出した鶴井に気付き顔を上げた支社長は、血管が浮かぶ黄ばんだ白目をあらわにした。
「君は……鶴井君?」
冴木は微かに眉をひそめたが、鶴井はにこやかに頷いた。
「お久しぶりです、支店長……いえ、今は栄転されて支社長ですね」
「だっはっは。そういう君は、コンサル事務所の副所長か」
「なに、小さな事務所ですよ」
鶴井がそう応えると、冴木は不満げに目を細めた。
「小さな事務所が大企業の支社長を呼べるはずがないだろう。どちらにも得のない謙遜はよせ、鶴井」
「こりゃ失敬」
「それにしても、なんだ。二人とも知り合いだったのか」
「ええ。かつての僕の上司です」
名刺交換をしていると、給湯室からケトルの湯が沸く音が聞こえた。
「さあ、おかけください。茶くらい出しますよ」
支社長にとって、慌ただしく給湯室とテーブルを行き来する鶴井が不自然に思えたようだった。
「副所長がお茶出しかい? 事務員はいないのか」
「生憎ここは僕一人の事務所でして。それに、茶は自分で淹れられます」
「いやしかし……」
冴木は、横目で窺い見てくる支社長に笑顔を返したあと、鶴井に「さっさと殺すぞ」と手振りした。
鶴井はそしらん顔で二人に茶を出す。
「お元気でしたか、支社長」
「ああ、なんとかやってるよ。君が退社した時は困ったけどね」
「僕の代わりなんていくらでもいますよ」
「いやいや。本当に大変だったんだから。冴木さん、彼は優秀でしょう」
しばらく鶴井を睨みつけ、悔しそうに頷く冴木。
「ええ。よくやってくれています。非常に我儘で、非常に世話のかかる、類まれな厄介者でもありますが」
「だっはっは。確かに鶴井君にはそういうところがあったなあ。私も、食ってかかられたのは彼だけです」
鶴井は顔を赤らめ、居心地悪そうに体を揺らす。
「ちょっと。お二人して僕をからかうのは止めてくれませんか」
事務所に愉快な笑い声が響き渡る。支社長は商談も忘れ、鶴井との思い出話を冴木に語った。嫌がる鶴井を面白がって、冴木は全く興味のない話を支店長から聞き出し、蛙のような笑い声をあげた。
ティーカップが空になった頃、鶴井と冴木が立ち上がる。
「そうだ、支店長。あなた、マラソンが趣味ですよね?」
「ああ。今年も市のマラソン大会に出たよ。無事完走できた」
鶴井は大袈裟に拍手をしてから、見て欲しいものがあると、支社長を別室に招いた。
別室には、クローゼットや仮眠用のベッドの他に、真新しいランニングマシーンが設置されている。
「運動不足を解消しようと、つい先日購入したんですよ」
「良いマシンだな。高かったんじゃないか?」
「さすがは支社長です。冴木さんに見せても分かってくれなくて。あなたなら分かってもらえると思い、思わず自慢してしまいました」
鶴井は支店長の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「これ、百五十万ほどするんです。ここだけの話、経費で落とそうと思っていて」
「君はやはり厄介者だ。だっはっは」
「支店長、よかったら少し走ってみませんか。僕も試しに走ってみましたが、かなり良かったですよ」
「いいね。お言葉に甘えて、少し使わせてもらおうかな」
ジャケットを脱いだ支社長が軽い足取りでマシンに乗った。鶴井がリモコンで操作すると、ローラーが徐々に速度を速める。軽々とその速さに合わせて走る支社長に、鶴井はわざとらしい賞賛を浴びせた。
「おお、さすが支社長。フォームも美しいですねえ」
「そうかい? このくらいなら余裕だよ」
「ふふ。見ている僕も気持ち良くなってきます。君たちはどうだい?」
奇妙な問いかけに支社長が眉をひそめる。ランニングマシーンの前に立つ鶴井とは、微妙に視線が合わさらない。背後に冴木でもいるのかと支社長は振り返るが、そこには誰もいなかった。
「そうか。あんまり好きじゃないか。でも、協力してくれるだろう? ああ、ありがとう」
「鶴井君? 誰と話しているんだ?」
「ああ、失礼しました。少しばかり、生霊と」
「それで、受けるのか受けないのか」
冴木の確認に、鶴井は頷いた。
「受けます」
「そうか。助かる」
「僕の事務所に来させてください」
冴木が客を連れて鶴井の事務所に訪れたのは三日後の金曜だった。
商談ができると思い込んでいる支社長は、いかにも高級そうな消し炭色のスーツを身につけ、名刺入れから名刺を取り出していた。
「おや。来られていたんですね。すみません、準備に手こずっていまして」
別室から顔を出した鶴井に気付き顔を上げた支社長は、血管が浮かぶ黄ばんだ白目をあらわにした。
「君は……鶴井君?」
冴木は微かに眉をひそめたが、鶴井はにこやかに頷いた。
「お久しぶりです、支店長……いえ、今は栄転されて支社長ですね」
「だっはっは。そういう君は、コンサル事務所の副所長か」
「なに、小さな事務所ですよ」
鶴井がそう応えると、冴木は不満げに目を細めた。
「小さな事務所が大企業の支社長を呼べるはずがないだろう。どちらにも得のない謙遜はよせ、鶴井」
「こりゃ失敬」
「それにしても、なんだ。二人とも知り合いだったのか」
「ええ。かつての僕の上司です」
名刺交換をしていると、給湯室からケトルの湯が沸く音が聞こえた。
「さあ、おかけください。茶くらい出しますよ」
支社長にとって、慌ただしく給湯室とテーブルを行き来する鶴井が不自然に思えたようだった。
「副所長がお茶出しかい? 事務員はいないのか」
「生憎ここは僕一人の事務所でして。それに、茶は自分で淹れられます」
「いやしかし……」
冴木は、横目で窺い見てくる支社長に笑顔を返したあと、鶴井に「さっさと殺すぞ」と手振りした。
鶴井はそしらん顔で二人に茶を出す。
「お元気でしたか、支社長」
「ああ、なんとかやってるよ。君が退社した時は困ったけどね」
「僕の代わりなんていくらでもいますよ」
「いやいや。本当に大変だったんだから。冴木さん、彼は優秀でしょう」
しばらく鶴井を睨みつけ、悔しそうに頷く冴木。
「ええ。よくやってくれています。非常に我儘で、非常に世話のかかる、類まれな厄介者でもありますが」
「だっはっは。確かに鶴井君にはそういうところがあったなあ。私も、食ってかかられたのは彼だけです」
鶴井は顔を赤らめ、居心地悪そうに体を揺らす。
「ちょっと。お二人して僕をからかうのは止めてくれませんか」
事務所に愉快な笑い声が響き渡る。支社長は商談も忘れ、鶴井との思い出話を冴木に語った。嫌がる鶴井を面白がって、冴木は全く興味のない話を支店長から聞き出し、蛙のような笑い声をあげた。
ティーカップが空になった頃、鶴井と冴木が立ち上がる。
「そうだ、支店長。あなた、マラソンが趣味ですよね?」
「ああ。今年も市のマラソン大会に出たよ。無事完走できた」
鶴井は大袈裟に拍手をしてから、見て欲しいものがあると、支社長を別室に招いた。
別室には、クローゼットや仮眠用のベッドの他に、真新しいランニングマシーンが設置されている。
「運動不足を解消しようと、つい先日購入したんですよ」
「良いマシンだな。高かったんじゃないか?」
「さすがは支社長です。冴木さんに見せても分かってくれなくて。あなたなら分かってもらえると思い、思わず自慢してしまいました」
鶴井は支店長の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「これ、百五十万ほどするんです。ここだけの話、経費で落とそうと思っていて」
「君はやはり厄介者だ。だっはっは」
「支店長、よかったら少し走ってみませんか。僕も試しに走ってみましたが、かなり良かったですよ」
「いいね。お言葉に甘えて、少し使わせてもらおうかな」
ジャケットを脱いだ支社長が軽い足取りでマシンに乗った。鶴井がリモコンで操作すると、ローラーが徐々に速度を速める。軽々とその速さに合わせて走る支社長に、鶴井はわざとらしい賞賛を浴びせた。
「おお、さすが支社長。フォームも美しいですねえ」
「そうかい? このくらいなら余裕だよ」
「ふふ。見ている僕も気持ち良くなってきます。君たちはどうだい?」
奇妙な問いかけに支社長が眉をひそめる。ランニングマシーンの前に立つ鶴井とは、微妙に視線が合わさらない。背後に冴木でもいるのかと支社長は振り返るが、そこには誰もいなかった。
「そうか。あんまり好きじゃないか。でも、協力してくれるだろう? ああ、ありがとう」
「鶴井君? 誰と話しているんだ?」
「ああ、失礼しました。少しばかり、生霊と」
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