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第五章
第十話 セリヌンティウス-2
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◇◇◇
中年女が待つマンションの一室に到着した冴木は、会員の一人に声をかけた。
「君。今日、大胆な服を着ている子と一緒に鶴井の事務所に来る予定の子かな」
「あ、はい。そうですけど」
「悪いが、君だけ先に行ってやってくれないか」
訝し気な顔をしている女に冴木が顔を寄せる。
「実は、鶴井は君のことが気になっているようでな。もう一人の子に内緒で、二人でランチをしたいらしい」
この女と鶴井は面識がないはずなのだが、鶴井が美しいことが組織の中で噂になっていたようだ。女は目を見開き、太腿で膣を締め付ける。
「えっ、私、ですか……?」
「ああ。やつは君の連絡先が分からないから、私に言付けを預けたんだ。忙しいとは思うが……どうだ、付き合ってやってくれるか」
「は、はい。じゃあ、今すぐ行ってきます」
女は急用ができたと仲間に伝え、事務所をあとにした。
冴木は呆れ顔で失笑する。
(毒を持つ花の蜜とも知らず群がる女ども、か。見る目なさすぎだろう。痛々しいことこの上ない)
控室で待っていると、中年女が現れた。別室に案内された冴木は、出された珈琲を啜りながら、しばらく他愛のない会話をする。組織のことについて尋ねると、中年女がラジオのようにとめどなく言葉を発し続けるので楽ができた。
一時間ほど時間を潰したあと、冴木は「そうだ」と鞄から一冊のファイルを取り出した。
ファイルを開き、一人の少年の顔写真を見せると、中年女の顔が引き攣った。
冴木は顔写真を指で突き、首を傾げる。
「この子に見覚えが?」
「え、ええ……」
「そうか。忘れてはいなかったんだな。安心したよ」
中年女は、震える声で尋ねた。
「ど、どうして、今更。あなたは一体誰……。彼と……ど、どういう……」
「煙草を吸っても?」
無論、この事務所は禁煙である。壁に禁煙の紙も貼っている。しかし中年女は断ることができなかった。
テーブルに灰を叩き落とす冴木は、抑揚のない声で言った。
「あんたは昔、中学校の教師をしていたな。しかし、マルチと違い、教師とは労働時間と精神的苦痛に見合わん安月給。辞めてマルチ一本にしたのは正解だよ。賢いね、あんた――」
中年女は勢いよくファイルを閉じ、冴木の言葉を遮った。
「な、なに、あなた。どうして私の素性を調べているの。一体何が目的で……」
煙を吐き、再び冴木が口を開く。
「私が言うのもなんだが、あんたたちは生きている人間のことをナメすぎだ。魂を削るほどの恨みを、憎しみを、……愛情を、抱えたやつらは何をすると思う。……そう、生霊を飛ばすんだよ」
そして冴木は、女を指さした。
「生霊が視える私には、お前が過去に何をしてきたのかが透けて見える。例えばお前が――」
中年女と目が合った冴木は、ゆっくりと口角を上げる。
「この少年を、体育倉庫で犯したことも」
か細い悲鳴を上げ、中年女が立ち上がる。冴木は胸ポケットに忍ばせていた拳銃を取り出し女に向けた。
「動くな」
「あっ、あなたっ。銃刀法違反と名誉棄損で訴えますよ。そ、そそそ、そんなデタラメ」
「生憎私は拳銃の所持を認められている。そして事実を口に出すことは名誉棄損ではない」
「う、嘘を言わないで。そんな、ただのコンサル会社が。銃の所持を許可されるわけないでしょう」
冴木はしまったと舌を出し、正しい名刺をテーブルに滑らせた。
「悪いね。本物の名刺はこっちだ。〝叶え哉〟という、生霊の願いを叶えるために人殺しをしている事務所を営んでいる」
「ひとっ、ひとごっ」
腰が抜け床にへたり込んだ中年女は、動揺のあまり少量の尿で下着を汚した。
冴木はファイルを開き直し、ページをめくる。
「私は鶴井と違って、私用で人殺しはしないタチでね。お偉いさんからあんたの依頼が来て飛び跳ねたよ。喜びのあまり鶴井に酒を奢り、ランニングマシーンまで経費で落としてしまった。全く。ふふ。まあ、それでもおつりが出るくらい嬉しかったね」
ファイルには複数の少年の顔写真の他に、大人の人間の写真も綴じられていた。――全て、女に憑いている生霊の本体だ。
「あんたは特段業が深い人間だな。教師時代では生徒に密かに性的虐待をして? マルチでは人を騙くらかして金を貪って? んん。本能に忠実な人間は嫌いじゃないが、さすがにやりすぎだなあ」
そして冴木は再び、ファイルの一枚目にある少年の写真を中年女に見せた。
「もう一度聞く。お前はこの子に見覚えがあるか。正直に答えなければ今すぐ殺す」
がたがたと震えながら女が頷いたので、冴木は「そうか」と言って煙草の火を消した。
「お前はこの子に何をした」
「……体育倉庫に呼び出して……セックスを……」
「教え子をレイプするなんざ、クソのような教師だな」
「レイプじゃないわ……。同意の上でよ……」
冴木は鼻で笑い、女の頭に蹴りをくらわせた。
「どうやって同意させた」
「……」
「言えないか。では私が言ってやろう」
少年はクラスメイトから虐められていた。始めは無視から始まった虐めが段々とエスカレートしていき、物を隠され、捨てられ、暴力を振るわれ、性的な虐めにまで発展した。
当時クラスの担任だった中年女は見て見ぬふりをしていた。しかし、少年が女子生徒から性的な虐めを受けている現場を目撃してしまい、そして、興奮した。
女は少年にこう言った。
《イジメを止めさせてあげるから、その代わりに先生のお願い聞いて》
少年が女を抱いた日から、虐めは一時的に、表面上では収まった。
先生に守られるため、少年は二週間に一度、弛んだ体の女を抱かなければならなかった。
それでも、裏で虐めは以前と変わらず続いていた。
全てに疲れた少年は、魂の全てを恨みに変え、そして自ら命を絶った。
冴木は深く息を吸い、天井を仰ぐ。
生前は一言も教えてくれなかった。虐めにあっていることすら知らなかった。
「あんたが抱いていたのは、私の弟だ」
「ごめんなさい。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。一時の気の迷いだったの。許して」
床に頭を擦りつけ、中年女は命乞いする。
「あの子が自殺して、すごく後悔したの。だから教師を辞めて。新しい人生を歩み始めたの。ここ数年でやっと軌道に乗ったの。せっかくやり直せたのに。やっと幸せになれたのに。殺さないで。お願い。お願い。謝るから。お金も。お金もいくらでも払うから」
冴木は銃を下ろし、女の顎を持ち上げた。彼女の微笑みは女神のように美しく、中年女も思わず涙を流しながら頬を緩めた。
諭すように柔らかい、冴木の声は耳に心地よい。
「私の生霊は全て弟が持っていった。今の私に魂なんぞ入っていない。そんな私に、人間性を求めるな」
マンションに響き渡る、銃声。
息をしなくなった肉の塊を見下ろし、冴木は独白する。
「それに、自分がどん底にいるときに、他人の幸せを願い、祝えるのは、余程人間離れしたやつだけだ」
冴木弟の生霊が帰る場所。かつて家族で暮らしていた田舎町の、冴木以外が眠る墓の中。
ここからは少しばかり遠い場所だが、ここよりもずっと、空気が澄んだ心地のいい場所だ。
中年女が待つマンションの一室に到着した冴木は、会員の一人に声をかけた。
「君。今日、大胆な服を着ている子と一緒に鶴井の事務所に来る予定の子かな」
「あ、はい。そうですけど」
「悪いが、君だけ先に行ってやってくれないか」
訝し気な顔をしている女に冴木が顔を寄せる。
「実は、鶴井は君のことが気になっているようでな。もう一人の子に内緒で、二人でランチをしたいらしい」
この女と鶴井は面識がないはずなのだが、鶴井が美しいことが組織の中で噂になっていたようだ。女は目を見開き、太腿で膣を締め付ける。
「えっ、私、ですか……?」
「ああ。やつは君の連絡先が分からないから、私に言付けを預けたんだ。忙しいとは思うが……どうだ、付き合ってやってくれるか」
「は、はい。じゃあ、今すぐ行ってきます」
女は急用ができたと仲間に伝え、事務所をあとにした。
冴木は呆れ顔で失笑する。
(毒を持つ花の蜜とも知らず群がる女ども、か。見る目なさすぎだろう。痛々しいことこの上ない)
控室で待っていると、中年女が現れた。別室に案内された冴木は、出された珈琲を啜りながら、しばらく他愛のない会話をする。組織のことについて尋ねると、中年女がラジオのようにとめどなく言葉を発し続けるので楽ができた。
一時間ほど時間を潰したあと、冴木は「そうだ」と鞄から一冊のファイルを取り出した。
ファイルを開き、一人の少年の顔写真を見せると、中年女の顔が引き攣った。
冴木は顔写真を指で突き、首を傾げる。
「この子に見覚えが?」
「え、ええ……」
「そうか。忘れてはいなかったんだな。安心したよ」
中年女は、震える声で尋ねた。
「ど、どうして、今更。あなたは一体誰……。彼と……ど、どういう……」
「煙草を吸っても?」
無論、この事務所は禁煙である。壁に禁煙の紙も貼っている。しかし中年女は断ることができなかった。
テーブルに灰を叩き落とす冴木は、抑揚のない声で言った。
「あんたは昔、中学校の教師をしていたな。しかし、マルチと違い、教師とは労働時間と精神的苦痛に見合わん安月給。辞めてマルチ一本にしたのは正解だよ。賢いね、あんた――」
中年女は勢いよくファイルを閉じ、冴木の言葉を遮った。
「な、なに、あなた。どうして私の素性を調べているの。一体何が目的で……」
煙を吐き、再び冴木が口を開く。
「私が言うのもなんだが、あんたたちは生きている人間のことをナメすぎだ。魂を削るほどの恨みを、憎しみを、……愛情を、抱えたやつらは何をすると思う。……そう、生霊を飛ばすんだよ」
そして冴木は、女を指さした。
「生霊が視える私には、お前が過去に何をしてきたのかが透けて見える。例えばお前が――」
中年女と目が合った冴木は、ゆっくりと口角を上げる。
「この少年を、体育倉庫で犯したことも」
か細い悲鳴を上げ、中年女が立ち上がる。冴木は胸ポケットに忍ばせていた拳銃を取り出し女に向けた。
「動くな」
「あっ、あなたっ。銃刀法違反と名誉棄損で訴えますよ。そ、そそそ、そんなデタラメ」
「生憎私は拳銃の所持を認められている。そして事実を口に出すことは名誉棄損ではない」
「う、嘘を言わないで。そんな、ただのコンサル会社が。銃の所持を許可されるわけないでしょう」
冴木はしまったと舌を出し、正しい名刺をテーブルに滑らせた。
「悪いね。本物の名刺はこっちだ。〝叶え哉〟という、生霊の願いを叶えるために人殺しをしている事務所を営んでいる」
「ひとっ、ひとごっ」
腰が抜け床にへたり込んだ中年女は、動揺のあまり少量の尿で下着を汚した。
冴木はファイルを開き直し、ページをめくる。
「私は鶴井と違って、私用で人殺しはしないタチでね。お偉いさんからあんたの依頼が来て飛び跳ねたよ。喜びのあまり鶴井に酒を奢り、ランニングマシーンまで経費で落としてしまった。全く。ふふ。まあ、それでもおつりが出るくらい嬉しかったね」
ファイルには複数の少年の顔写真の他に、大人の人間の写真も綴じられていた。――全て、女に憑いている生霊の本体だ。
「あんたは特段業が深い人間だな。教師時代では生徒に密かに性的虐待をして? マルチでは人を騙くらかして金を貪って? んん。本能に忠実な人間は嫌いじゃないが、さすがにやりすぎだなあ」
そして冴木は再び、ファイルの一枚目にある少年の写真を中年女に見せた。
「もう一度聞く。お前はこの子に見覚えがあるか。正直に答えなければ今すぐ殺す」
がたがたと震えながら女が頷いたので、冴木は「そうか」と言って煙草の火を消した。
「お前はこの子に何をした」
「……体育倉庫に呼び出して……セックスを……」
「教え子をレイプするなんざ、クソのような教師だな」
「レイプじゃないわ……。同意の上でよ……」
冴木は鼻で笑い、女の頭に蹴りをくらわせた。
「どうやって同意させた」
「……」
「言えないか。では私が言ってやろう」
少年はクラスメイトから虐められていた。始めは無視から始まった虐めが段々とエスカレートしていき、物を隠され、捨てられ、暴力を振るわれ、性的な虐めにまで発展した。
当時クラスの担任だった中年女は見て見ぬふりをしていた。しかし、少年が女子生徒から性的な虐めを受けている現場を目撃してしまい、そして、興奮した。
女は少年にこう言った。
《イジメを止めさせてあげるから、その代わりに先生のお願い聞いて》
少年が女を抱いた日から、虐めは一時的に、表面上では収まった。
先生に守られるため、少年は二週間に一度、弛んだ体の女を抱かなければならなかった。
それでも、裏で虐めは以前と変わらず続いていた。
全てに疲れた少年は、魂の全てを恨みに変え、そして自ら命を絶った。
冴木は深く息を吸い、天井を仰ぐ。
生前は一言も教えてくれなかった。虐めにあっていることすら知らなかった。
「あんたが抱いていたのは、私の弟だ」
「ごめんなさい。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。一時の気の迷いだったの。許して」
床に頭を擦りつけ、中年女は命乞いする。
「あの子が自殺して、すごく後悔したの。だから教師を辞めて。新しい人生を歩み始めたの。ここ数年でやっと軌道に乗ったの。せっかくやり直せたのに。やっと幸せになれたのに。殺さないで。お願い。お願い。謝るから。お金も。お金もいくらでも払うから」
冴木は銃を下ろし、女の顎を持ち上げた。彼女の微笑みは女神のように美しく、中年女も思わず涙を流しながら頬を緩めた。
諭すように柔らかい、冴木の声は耳に心地よい。
「私の生霊は全て弟が持っていった。今の私に魂なんぞ入っていない。そんな私に、人間性を求めるな」
マンションに響き渡る、銃声。
息をしなくなった肉の塊を見下ろし、冴木は独白する。
「それに、自分がどん底にいるときに、他人の幸せを願い、祝えるのは、余程人間離れしたやつだけだ」
冴木弟の生霊が帰る場所。かつて家族で暮らしていた田舎町の、冴木以外が眠る墓の中。
ここからは少しばかり遠い場所だが、ここよりもずっと、空気が澄んだ心地のいい場所だ。
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