ワシと巾着の始め方

ゆっけ

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ワシと巾着の始め方

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「いつからワシって言おうか迷ってるんですよね」
  ある日、ゲートボール仲間の宇野さんがそう言った。ベンチに座り、腰をさすりながらううんと唸っている。
「僕ももう今年で七〇でしょ?そろそろなのかと思って」
「一人称を変えるってことですか?」
「はい。老人ってほら、『ワシ』って言うじゃん」
  語尾が『じゃん』のうちは少なくともまだ一人称をワシにする時期ではないと思う。宇野さんはすっきりとした頭頂部を陽の光に当てながらゆるやかな動作で髭をさすった。
「でもなんか、ある日急にワシにシフトするのおかしいかなって思って。孫とかにすごい笑われそうで怖くて」
「まあ、その可能性はありますね」
「うん。でもワシって言うの憧れだったからなあ」
  『ワシ』に憧れがある人は初めて見たな。そう考えつつ、宇野さんの思いには実は少し共感していた。私自身も、ずっと抱いていた願望のようなものがあるのだ。
「あの、宇野さん。実は私も最近同じようなことを考えてて」
「えっ、村田さんも?」
「はい。私、自作の巾着を持ち歩きたいんです。おばあさんがよく持っているイメージなので」
「ああ⋯⋯言われてみれば。いろんな布を縫い合わせた巾着とか持ってるかも。あれ自作なのかな?」
「少なくともうちの祖母は自作してました。鬼滅の刃みたいな柄の巾着を持ってましたよ」
「流行を先取りしていらっしゃったんだなあ」
「でも急に巾着を持つのに緊張してしまって。今まで持ったこともないので⋯⋯」
  そうですねえ、と宇野さんが神妙に頷く。懊悩を露わにしていたその顔は、しかし突然きりりとした決意の表情へと変わった。
「村田さん。とりあえず持ってみましょう、巾着。憧れを憧れのままにしておくのはもったいない。僕も明日からワシ使いになります」
「鷲のブリーダーみたいな言い方ですね⋯⋯」
  突然の覚悟の決まり方に少し面食らったけれど、宇野さんの瞳は数分前とは見違えるほど輝いていた。先を目指す人の眼差しだ。この眼差しを受けてしまうと、羨望がむくむくと頭をもたげてくる。私も、その目をしてみたいと思った。
「わかりました。私、巾着を持ちます」
「うん。お互い頑張りましょう。じゃあ、二週間後のゲートボール大会で、また」
  私達は力強い握手をして別れた。二週間後、ワシ使いの宇野さんに会うのが心から楽しみだった。
  そして、約束の日。宇野さんが私の前に現れ、こう言った。
「ワシの話なんですけど、孫にめちゃくちゃウケてて逆にアガりました」
「一人称ワシの人もアガるとか言うんですね」
ちなみに私は自作の巾着写真を孫がSNSにアップし、めちゃくちゃバズっていた。
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