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ワシが悪役令嬢に!?
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「かぁーっ! また負けた! ボロ負けや!」
競艇場で声を荒げる男が一人。互い違いに抜けた歯、幾多もの年月を越えてきた服のシミ、ゴムの伸びきったズボン。男は身なりを整えることをとうに諦めたしがない中年男性だった。
「予想屋のおっさんどうなっとんねん! 5着予想が1着やったやないかい!」
なんと形容していいかわからない澱んだ色のハンチングを地面に叩きつけ男は叫ぶ。男の周りでもまた、少なくはない量の悲鳴がそこかしこで上がっていた。
「源ちゃんアホやなあ。駒井1着なんかあるわけあらへんやろ」
ふと横からそんな声がした。男が苛立ちを微塵も隠さずに振り向くと、そこにはギャンブル仲間の老人がにやにやと口元を緩めながら立っていた。
「やっさん、なんやねんその顔。まさか的中したんか?」
「悪いけどボロ儲けよ。やっぱり赤石はやってくれるわ。ワシは信じとった」
「この前ボロクソに言うとったやないか」
「それは愛情の裏返しや」
このやっさんという老人は口が減らず性格も意地悪な食えない人間だった。そしてギャンブルが強かった。男はいつもこの老人に勝ち自慢をされたり、嘘の情報を教えられ勝ちを妨害されたりしていた。正直、仲間と形容することが合っているのかは男にもわかっていない。だが、この2人が奇妙な友情によって結ばれているのは確かだった。
「源ちゃん、この後どうするんよ。パチンコ行けへんか?」
「行けん行けん、もう財布の中すっからかんやがな。帰って屁ぇこいて寝るわ」
「ガハハ。いつもよりくっさいの出そうやな」
下世話な応酬を終え、男は競艇場を後にする。あらゆるギャンブルに目が無い男は、本当はやっさんと共にパチンコに行きたくて仕方がなかった。だが今日の負けは何ヵ月かぶりの笑えないほどの大敗で、やっさんへの言葉通り財布には1円も金が入っていないので諦める他はなかった。小石を乱暴に蹴りながら男はがに股で帰路を歩く。新世界の路肩に落ちているゴミが自分とダブって見える。何かゴミが不憫に思え、男はそれを拾い上げるとゴミ箱を探した。
きょろきょろとあたりを見回しながら歩く。が、なかなか見つからない。代わりに行き当たったのは顔見知りの人間が以前行きつけだと言っていた居酒屋だった。もうこんなゴミは道端に捨てなおして、居酒屋で呑んで帰ろうか。代金はその顔見知りにツケればいいわけだし。そう男がぼんやり思考していた、その時だった。
「あっ、危ない!」
大きな声が背中にかかる。振り向くと、超高速でこちらに突っ込んでくる自転車が見えた。えっ、と男が小さく驚きの声を上げている間にも、その自転車はとんでもないスピードでこちらに迫ってくる。男は体をひねってそれを回避しようとした。──が、歳のせいですっかり言うことを聞かなくなった体は、避けるどころか弾みでその場に転倒してしまった。立ち上がろうと男は急ぐ。その瞬間、鼓膜にけたたましい急ブレーキの音が響いた──。
***
妻は何度言ってもギャンブルを控えない男に愛想を尽かし家を出ていった。今年で15歳になる娘もいるが、しばらく会っていない。会うことを禁止されているというような話ではなく、単純に娘が反抗期なのだ。最後に会ったとき、男は娘から『オトンと洗濯もん一緒に洗われる世界線がどこかにあったんかと思うと、この世界線を選んでくれたオカンに感謝しか湧かない』と少し遠回りな嫌味を言われた。
男は娘との接し方をいつまでも掴みきれないものの、娘のことはきちんと愛していた。なので、娘の趣味について時たま勉強することがあった。娘はオタクで、漫画やアニメなどが好きだった。男はギャンブルで大勝ちした際は1日漫画喫茶に入り浸り、流行りの漫画を黙々と読んだ。アニメはパチンコ台になっているものが多いのでそこそこ詳しかった。
(このまま死んで、異世界転生ちゅうやつしたらどないしょーかな)
(競馬か競艇かパチンコのどれかがある世界やないとキツイで)
ぼんやりとした意識の中で男はそんなどうしようもないことを考えた。異世界転生は娘が最近特にハマっているらしいジャンルだ。いつか天国で娘と再会したとき、土産話程度にはなるかもしれない。そう思い直し小さく笑った。それが男の最後の現世での記憶だった。
***
「──……様。朝でございますよ」
聞きなれない声が鼓膜を柔らかく叩く。それは淑やかな女性の声だった。男は深い眠りを徐々に覚ましていくと、開きたくないと抵抗する瞼をなんとか持ち上げる。
「おはようございます」
いまだ不鮮明な視界に映ったのは、声色どおりの淑やかさの女性だった。彼女は男に向かってにこりと微笑みかける。男は頭に疑問符を浮かべた。──誰?
「本日の朝食はサンドイッチでございます。城下町から仕入れたお紅茶もお出しする予定で……」
女性はつらつらと朝食のメニューについてを説明しはじめる。しかし、男の耳には微塵もその情報は入ってこなかった。それどころかまず、現在の状況が飲み込めない。ここはどこだ? 彼女は誰だ? 天蓋のようなものがついた寝心地の良いベッド、丈の長いメイド服のようなものを着た女性、やたら詳しい朝食の説明。
あ、病院か。そう男は得心した。おそらくここは自分が運び込まれた病院で、ということは自分は辛くも一命を取り留めたのだろう。妙に豪華な病室なことと看護師の変わった制服に若干疑問はあるが、もしかすると近頃の病院はこんなものなのかもしれない、と男は自分を納得させる。彼は病院嫌いで数十年病院にかかっていなかった。
完全に死んだ気でいた男は安堵を抱くとともになんだか拍子抜けしてしまっていた。ともかくとして、命拾いできたというのならばそれは素直に有難い。今のところ体のどこも痛くないしすぐに退院できるだろう。そう考えすっかり安心した男は、ひとまず起床のルーティーンをこなした。それは、大きな放屁だ。
──ブウウウ。プププ…プリ。
大おなら+ミニおならをかます男。男の朝はいつもこうして屁をこくことでスタートを切る。年若く見える看護師がいる横でこれを行うことに少々恥はあったものの、未だ寝起きで覚醒しきれていない脳みそはその行為を止めることができなかった。
「……お、お嬢様…?」
直後、ベッド脇に控えていた看護師が驚愕の表情を浮かべながら男を見、そう呟いた。その言葉に男は強烈な違和感を抱く。聞き間違いであるのだろう、きっと。しかし彼女はこう言ったように思えた。
『お嬢様』、と。
「姉ちゃん今……」
看護師に声をかけようと、男は今日初めて言葉を発する。その時、まるで鈴の音のような音が聴こえてきた。いや、聴こえたというよりは、自分の喉から生み出されたのだ。
驚いた男は自分の喉に手をやる。そこにはあるはずの喉仏がない。己の手に目をやると、雪のように白い肌と花の茎のように細い手首が目に入った。明らかに、ガサガサに荒れて節くれだったいつもの自分の手ではない。
「ちょお待って待って、お姉ちゃん! 鏡ないんかいな」
「えっ。か、鏡でしょうか? こ、こちらに」
喋りだした男にさらに驚いている様子の看護師は、しかし動揺をいったん律して男の言葉に応える。慌てて部屋の隅にあった豪奢な鏡台の前に行くと、そこから手鏡を取ってきた。
「ど、どうぞ」
「おおきにな」
軽く礼を言って男はさっそく手鏡に自分の顔を写し出す。そこに写っていたのは──とても美しい少女だった。切れ長の目にはめ込まれたターコイズブルーの瞳、すっと通った鼻、淡くピンクに色づいた小さな唇。女優さんみたいや。とっさに男はそう思った。髪は薄い青色をしていて、肌には若さ特有のハリがあることから、鏡の中の女性が日本人ではない10代後半くらいの女性であることが窺い知れた。
「誰なんや、これは」
唖然と呟く男─今や男ではないが─の横で、看護師が心配そうに男を見ている。彼女は男の顔を覗き込むとこう言った。
「大丈夫ですか? ベアトリスお嬢様」
***
なんなんや、これは。
女性に髪を櫛で梳いてもらいながら、男──ベアトリスはじっと思案していた。異常事態が起こっていることははっきりとわかる。だがそれ以外のことが何もわからない。
ひとまず訊いてみたところ、ここは病院ではなくこの体の主『ベアトリス』の部屋なのだそうだ。そして看護師だと思っていた女性は彼女専属の使用人だという話だった。本来の自分についてを知らないか軽く尋ねたが、そんな男は知らないと不思議そうに答えられるのみだ。
朝起きると、別人になっている。そのシチュエーションは聞いたことがある──いや、読んだことがあるような気がしていた。近年老化によって鈍くなってきている記憶中枢を必死に働かせる。結果、死の間際の自分の思考について思い至った。
異世界転生。
瞬間、ベアトリスはハッとした。確かにこの状況、異世界転生ものに近い。とすると、ここは異世界なのか?
「姉ちゃん。ここ日本か?」
「えっ? ええと……に、二ホンとはなんのことでございましょうか?」
ほな異世界転生やないか。ベアトリスは衝撃を受ける。まさかそんな、フィクションだけで起こるはずの事態がこんな関西のおっさんに降りかかってくるとは。
「ちなみにこの国はなんていうとこなん?」
「……? あの、お嬢様。やはり体調の方がよろしくないのでは…?」
「いや体は全然いけるんやけどぉ。あー、あれやホラ、寝起きやからな。自分の住んでる国忘れてもうて。かなわんわ」
「……あの、良ければお医者様を手配致しますが…」
「いけんねん! ほんまやて! 堪忍してやぁー」
この調子で何とか食い下がった結果、この国の名前は『聖デュランダ王国』であることが分かった。競走馬みたいな名前やな、とベアトリスはぼんやりと思う。
そこで、ベアトリスは再度ハッとした。競走馬みたいな国名。『ベアトリス』。それはどちらも最近漫画喫茶で読んだ漫画に出てきた名前ではないか? 自分の記憶の糸を再度手繰り寄せ、そのタイトルを思い出そうと試みる。やけに長いタイトルだったことは覚えている。確かあれは、そう……。
「『聖女と呼ばれる令嬢に転生して毎日爆アゲボンバーだけど姉が悪役令嬢で困ってます』や」
「はい?」
「『聖女と呼ばれる令嬢に転生して毎日爆アゲボンバーだけど姉が悪役令嬢で困ってます』やで!」
思わず大声になるベアトリス。彼の記憶力でこの長いタイトルを思い出せたのはほぼ奇跡に近かった。火事場の馬鹿力というやつなのだろう、とベアトリスは思う。
『聖女と呼ばれる令嬢に転生して毎日爆アゲボンバーだけど姉が悪役令嬢で困ってます』は最近流行りの聖女転生ものの漫画だった。娘がドハマりしているとのことで、ベアトリス(男)は全巻読んでいたのだった。あの漫画に出てきた国は確かに聖デュランダ王国。ベアトリスという女性もそこに登場していた。──が。
「待てや、ベアトリス……」
ベアトリスはその漫画の主人公──ではなかった。タイトルにその存在は登場しているものの、聖女の方ではない。
「悪役令嬢……!」
ベアトリスは、悪役令嬢の方だった。ベアトリスは悪役令嬢らしく意地の悪いわがまま娘で、妹を極限までいじめ倒す。そして最後は悪役令嬢らしく──。
「お陀仏や……」
物語のラスト、ベアトリスの悪事は周囲の人間にバレてしまい、彼女は処刑される。彼はそれをすべて思い出してしまった。
「笑えんで……。つまりこのままやとワシは──」
「ナンマイダや……!」
かくして、男──ベアトリスの生存戦略プロジェクトが始動したのであった。
競艇場で声を荒げる男が一人。互い違いに抜けた歯、幾多もの年月を越えてきた服のシミ、ゴムの伸びきったズボン。男は身なりを整えることをとうに諦めたしがない中年男性だった。
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大きな声が背中にかかる。振り向くと、超高速でこちらに突っ込んでくる自転車が見えた。えっ、と男が小さく驚きの声を上げている間にも、その自転車はとんでもないスピードでこちらに迫ってくる。男は体をひねってそれを回避しようとした。──が、歳のせいですっかり言うことを聞かなくなった体は、避けるどころか弾みでその場に転倒してしまった。立ち上がろうと男は急ぐ。その瞬間、鼓膜にけたたましい急ブレーキの音が響いた──。
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男は娘との接し方をいつまでも掴みきれないものの、娘のことはきちんと愛していた。なので、娘の趣味について時たま勉強することがあった。娘はオタクで、漫画やアニメなどが好きだった。男はギャンブルで大勝ちした際は1日漫画喫茶に入り浸り、流行りの漫画を黙々と読んだ。アニメはパチンコ台になっているものが多いのでそこそこ詳しかった。
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「おはようございます」
いまだ不鮮明な視界に映ったのは、声色どおりの淑やかさの女性だった。彼女は男に向かってにこりと微笑みかける。男は頭に疑問符を浮かべた。──誰?
「本日の朝食はサンドイッチでございます。城下町から仕入れたお紅茶もお出しする予定で……」
女性はつらつらと朝食のメニューについてを説明しはじめる。しかし、男の耳には微塵もその情報は入ってこなかった。それどころかまず、現在の状況が飲み込めない。ここはどこだ? 彼女は誰だ? 天蓋のようなものがついた寝心地の良いベッド、丈の長いメイド服のようなものを着た女性、やたら詳しい朝食の説明。
あ、病院か。そう男は得心した。おそらくここは自分が運び込まれた病院で、ということは自分は辛くも一命を取り留めたのだろう。妙に豪華な病室なことと看護師の変わった制服に若干疑問はあるが、もしかすると近頃の病院はこんなものなのかもしれない、と男は自分を納得させる。彼は病院嫌いで数十年病院にかかっていなかった。
完全に死んだ気でいた男は安堵を抱くとともになんだか拍子抜けしてしまっていた。ともかくとして、命拾いできたというのならばそれは素直に有難い。今のところ体のどこも痛くないしすぐに退院できるだろう。そう考えすっかり安心した男は、ひとまず起床のルーティーンをこなした。それは、大きな放屁だ。
──ブウウウ。プププ…プリ。
大おなら+ミニおならをかます男。男の朝はいつもこうして屁をこくことでスタートを切る。年若く見える看護師がいる横でこれを行うことに少々恥はあったものの、未だ寝起きで覚醒しきれていない脳みそはその行為を止めることができなかった。
「……お、お嬢様…?」
直後、ベッド脇に控えていた看護師が驚愕の表情を浮かべながら男を見、そう呟いた。その言葉に男は強烈な違和感を抱く。聞き間違いであるのだろう、きっと。しかし彼女はこう言ったように思えた。
『お嬢様』、と。
「姉ちゃん今……」
看護師に声をかけようと、男は今日初めて言葉を発する。その時、まるで鈴の音のような音が聴こえてきた。いや、聴こえたというよりは、自分の喉から生み出されたのだ。
驚いた男は自分の喉に手をやる。そこにはあるはずの喉仏がない。己の手に目をやると、雪のように白い肌と花の茎のように細い手首が目に入った。明らかに、ガサガサに荒れて節くれだったいつもの自分の手ではない。
「ちょお待って待って、お姉ちゃん! 鏡ないんかいな」
「えっ。か、鏡でしょうか? こ、こちらに」
喋りだした男にさらに驚いている様子の看護師は、しかし動揺をいったん律して男の言葉に応える。慌てて部屋の隅にあった豪奢な鏡台の前に行くと、そこから手鏡を取ってきた。
「ど、どうぞ」
「おおきにな」
軽く礼を言って男はさっそく手鏡に自分の顔を写し出す。そこに写っていたのは──とても美しい少女だった。切れ長の目にはめ込まれたターコイズブルーの瞳、すっと通った鼻、淡くピンクに色づいた小さな唇。女優さんみたいや。とっさに男はそう思った。髪は薄い青色をしていて、肌には若さ特有のハリがあることから、鏡の中の女性が日本人ではない10代後半くらいの女性であることが窺い知れた。
「誰なんや、これは」
唖然と呟く男─今や男ではないが─の横で、看護師が心配そうに男を見ている。彼女は男の顔を覗き込むとこう言った。
「大丈夫ですか? ベアトリスお嬢様」
***
なんなんや、これは。
女性に髪を櫛で梳いてもらいながら、男──ベアトリスはじっと思案していた。異常事態が起こっていることははっきりとわかる。だがそれ以外のことが何もわからない。
ひとまず訊いてみたところ、ここは病院ではなくこの体の主『ベアトリス』の部屋なのだそうだ。そして看護師だと思っていた女性は彼女専属の使用人だという話だった。本来の自分についてを知らないか軽く尋ねたが、そんな男は知らないと不思議そうに答えられるのみだ。
朝起きると、別人になっている。そのシチュエーションは聞いたことがある──いや、読んだことがあるような気がしていた。近年老化によって鈍くなってきている記憶中枢を必死に働かせる。結果、死の間際の自分の思考について思い至った。
異世界転生。
瞬間、ベアトリスはハッとした。確かにこの状況、異世界転生ものに近い。とすると、ここは異世界なのか?
「姉ちゃん。ここ日本か?」
「えっ? ええと……に、二ホンとはなんのことでございましょうか?」
ほな異世界転生やないか。ベアトリスは衝撃を受ける。まさかそんな、フィクションだけで起こるはずの事態がこんな関西のおっさんに降りかかってくるとは。
「ちなみにこの国はなんていうとこなん?」
「……? あの、お嬢様。やはり体調の方がよろしくないのでは…?」
「いや体は全然いけるんやけどぉ。あー、あれやホラ、寝起きやからな。自分の住んでる国忘れてもうて。かなわんわ」
「……あの、良ければお医者様を手配致しますが…」
「いけんねん! ほんまやて! 堪忍してやぁー」
この調子で何とか食い下がった結果、この国の名前は『聖デュランダ王国』であることが分かった。競走馬みたいな名前やな、とベアトリスはぼんやりと思う。
そこで、ベアトリスは再度ハッとした。競走馬みたいな国名。『ベアトリス』。それはどちらも最近漫画喫茶で読んだ漫画に出てきた名前ではないか? 自分の記憶の糸を再度手繰り寄せ、そのタイトルを思い出そうと試みる。やけに長いタイトルだったことは覚えている。確かあれは、そう……。
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「はい?」
「『聖女と呼ばれる令嬢に転生して毎日爆アゲボンバーだけど姉が悪役令嬢で困ってます』やで!」
思わず大声になるベアトリス。彼の記憶力でこの長いタイトルを思い出せたのはほぼ奇跡に近かった。火事場の馬鹿力というやつなのだろう、とベアトリスは思う。
『聖女と呼ばれる令嬢に転生して毎日爆アゲボンバーだけど姉が悪役令嬢で困ってます』は最近流行りの聖女転生ものの漫画だった。娘がドハマりしているとのことで、ベアトリス(男)は全巻読んでいたのだった。あの漫画に出てきた国は確かに聖デュランダ王国。ベアトリスという女性もそこに登場していた。──が。
「待てや、ベアトリス……」
ベアトリスはその漫画の主人公──ではなかった。タイトルにその存在は登場しているものの、聖女の方ではない。
「悪役令嬢……!」
ベアトリスは、悪役令嬢の方だった。ベアトリスは悪役令嬢らしく意地の悪いわがまま娘で、妹を極限までいじめ倒す。そして最後は悪役令嬢らしく──。
「お陀仏や……」
物語のラスト、ベアトリスの悪事は周囲の人間にバレてしまい、彼女は処刑される。彼はそれをすべて思い出してしまった。
「笑えんで……。つまりこのままやとワシは──」
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