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第1話 終業式が終わり本格的な夏が始まる
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体育館は、ほとんど蒸し風呂だった。
天井の高い空間に、熱気が溜まっている。壁際の大型扇風機は回っているが、届く風はぬるく、気休めにもならない。床に塗られたワックスの匂いと、何百人分もの汗の匂いが混ざって、重たい空気を作っている。
校長の声はマイク越しに少し割れて響いていた。
「――一学期を無事に終えられたことを嬉しく思います」
その言葉に、誰も特別な反応はしない。整列した生徒たちは、半分以上が魂を抜かれたみたいな顔で立っている。俺もその一人だ。
窓の外では蝉が鳴いている。やけに元気だ。
あいつらには終業式なんて関係ない。
「――有意義な夏休みを過ごしてください」
その一文だけが、かすかに空気を動かした。
前の方の列で、誰かが小さく笑う。後ろでは「海行こうぜ」「バイト入れまくったわ」と早くも予定の話が始まっている。俺は拍手の列に合わせながら、ぼんやりと天井の鉄骨を見上げた。
有意義、ね。
特に予定はない。部活にも入っていないし、帰省もしない。一人暮らしのアパートに戻れば、静かな部屋が待っているだけだ。
終業式が終わり、教室に戻る。
担任が、いつもより少し柔らかい顔でプリントを配っている。
「宿題なー、ちゃんとやれよ。二学期、元気な顔見せろよ」
英語、数学、現代文。薄い紙の束を受け取りながら、俺は軽く息を吐く。窓の外はもう真夏の光だ。白くて、まぶしい。
退屈な学校は、ひとまず一区切り。
マンションの階段を上がると、コンクリートが昼の熱を抱え込んでいるのがわかる。鍵を回してドアを開けると、むわっとした空気が顔に当たった。
六畳一間のワンルーム。
カーテンを閉めたまま出たせいで、部屋は薄暗い。
両親の元から離れて始めた一人暮らしももう慣れてきた。
エアコンのスイッチを入れると、古い機械音がして、数秒後にぬるい風が出始める。制服のシャツを脱いで、床に置きっぱなしのラグの上に座る。
テレビをつける。
昼のワイドショー。特に面白くない。
チャンネルを回しても、大差はない。
ゲーム機はある。
でも最近やり込めるほどのソフトはない。
携帯を開く。メールは迷惑メールが一件だけ。着信履歴も静かなままだ。
今年の夏は、思ったより静かだ。
机に宿題を広げる。シャーペンを握り、英語の問題を解き始める。集中しているわけじゃない。ただ、夜までの時間を埋めているだけだ。
時計を見る。19時を少し過ぎたところ。
部屋の隅に置いてある黒い機械に視線が向く。
仙境学園ログイン端末。
SANY製の、無駄に未来っぽいデザイン。丸みを帯びたヘッドセットと、青白い待機ランプ。最初に届いたときは、本当に未来が来たみたいで少し興奮した。
あそこに入れば、退屈はない。
年齢も立場も関係ない。
学生も社会人も、同じ制服を着て、同じ校庭を歩く。
リアルの学校は一区切り。
でも、もう一つの学校はこれからが本番だ。
時計は21時を回ろうとしている。
俺は宿題を閉じ、立ち上がった。
夏は、夜から始まる。
仙境学園は、ただのVR空間じゃない。
そこは“もう一つの学校”だった。
生徒数は数万人。
入学試験もなければ卒業もない。
制服も校則もない代わりに、発言力と行動力だけがものを言う。
誰かが部活を立ち上げれば、その日からそれは正式な部になる。
新聞を作るやつがいれば、それが学内メディアになる。
ラジオを始めるやつがいれば、深夜には何百人もが耳を傾ける。
教師はいない。
いるのは“運営”と呼ばれる存在だけ。
普段は静かに見守り、ときどき全校を巻き込む仕掛けを投下する。
校舎は広すぎるほど広く、
図書館には読めないほどの本が並び、
掲示板はいつも少しだけ騒がしい。
ここでは年齢も職業も関係ない。
本名を名乗る必要もない。
ハンドルネームだけが、その人のすべてだった。
現実の学校では、俺はただの一生徒だ。
目立つわけでもない。特別な才能もない。
でも、仙境学園では違う。
ログインすれば、誰とでも同級生になれる。
何者にもなれる。
だから俺は、今日もヘッドセットを手に取る。
静かな部屋。
エアコンの音。
暗くなり始めた窓の外。
電源を入れる。
視界が白く弾ける。
――仙境学園へ、ログイン。
天井の高い空間に、熱気が溜まっている。壁際の大型扇風機は回っているが、届く風はぬるく、気休めにもならない。床に塗られたワックスの匂いと、何百人分もの汗の匂いが混ざって、重たい空気を作っている。
校長の声はマイク越しに少し割れて響いていた。
「――一学期を無事に終えられたことを嬉しく思います」
その言葉に、誰も特別な反応はしない。整列した生徒たちは、半分以上が魂を抜かれたみたいな顔で立っている。俺もその一人だ。
窓の外では蝉が鳴いている。やけに元気だ。
あいつらには終業式なんて関係ない。
「――有意義な夏休みを過ごしてください」
その一文だけが、かすかに空気を動かした。
前の方の列で、誰かが小さく笑う。後ろでは「海行こうぜ」「バイト入れまくったわ」と早くも予定の話が始まっている。俺は拍手の列に合わせながら、ぼんやりと天井の鉄骨を見上げた。
有意義、ね。
特に予定はない。部活にも入っていないし、帰省もしない。一人暮らしのアパートに戻れば、静かな部屋が待っているだけだ。
終業式が終わり、教室に戻る。
担任が、いつもより少し柔らかい顔でプリントを配っている。
「宿題なー、ちゃんとやれよ。二学期、元気な顔見せろよ」
英語、数学、現代文。薄い紙の束を受け取りながら、俺は軽く息を吐く。窓の外はもう真夏の光だ。白くて、まぶしい。
退屈な学校は、ひとまず一区切り。
マンションの階段を上がると、コンクリートが昼の熱を抱え込んでいるのがわかる。鍵を回してドアを開けると、むわっとした空気が顔に当たった。
六畳一間のワンルーム。
カーテンを閉めたまま出たせいで、部屋は薄暗い。
両親の元から離れて始めた一人暮らしももう慣れてきた。
エアコンのスイッチを入れると、古い機械音がして、数秒後にぬるい風が出始める。制服のシャツを脱いで、床に置きっぱなしのラグの上に座る。
テレビをつける。
昼のワイドショー。特に面白くない。
チャンネルを回しても、大差はない。
ゲーム機はある。
でも最近やり込めるほどのソフトはない。
携帯を開く。メールは迷惑メールが一件だけ。着信履歴も静かなままだ。
今年の夏は、思ったより静かだ。
机に宿題を広げる。シャーペンを握り、英語の問題を解き始める。集中しているわけじゃない。ただ、夜までの時間を埋めているだけだ。
時計を見る。19時を少し過ぎたところ。
部屋の隅に置いてある黒い機械に視線が向く。
仙境学園ログイン端末。
SANY製の、無駄に未来っぽいデザイン。丸みを帯びたヘッドセットと、青白い待機ランプ。最初に届いたときは、本当に未来が来たみたいで少し興奮した。
あそこに入れば、退屈はない。
年齢も立場も関係ない。
学生も社会人も、同じ制服を着て、同じ校庭を歩く。
リアルの学校は一区切り。
でも、もう一つの学校はこれからが本番だ。
時計は21時を回ろうとしている。
俺は宿題を閉じ、立ち上がった。
夏は、夜から始まる。
仙境学園は、ただのVR空間じゃない。
そこは“もう一つの学校”だった。
生徒数は数万人。
入学試験もなければ卒業もない。
制服も校則もない代わりに、発言力と行動力だけがものを言う。
誰かが部活を立ち上げれば、その日からそれは正式な部になる。
新聞を作るやつがいれば、それが学内メディアになる。
ラジオを始めるやつがいれば、深夜には何百人もが耳を傾ける。
教師はいない。
いるのは“運営”と呼ばれる存在だけ。
普段は静かに見守り、ときどき全校を巻き込む仕掛けを投下する。
校舎は広すぎるほど広く、
図書館には読めないほどの本が並び、
掲示板はいつも少しだけ騒がしい。
ここでは年齢も職業も関係ない。
本名を名乗る必要もない。
ハンドルネームだけが、その人のすべてだった。
現実の学校では、俺はただの一生徒だ。
目立つわけでもない。特別な才能もない。
でも、仙境学園では違う。
ログインすれば、誰とでも同級生になれる。
何者にもなれる。
だから俺は、今日もヘッドセットを手に取る。
静かな部屋。
エアコンの音。
暗くなり始めた窓の外。
電源を入れる。
視界が白く弾ける。
――仙境学園へ、ログイン。
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