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212 真の芸術家
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『売れないこと、見られないこと、評価されないこと。これらは全て、喜ぶべきことなのかもしれない。
ある人にとって、何かを創る際、その魅力を伝えるためにいかに受け手のことを考えるかというのは、本当は何も創らないのと同じことなのだ。
作家なら筆を折ること、絵描きなら手を止めること。それと同じ行為なのである。
創造的な行為及び芸術は、もっと奔放でなくてはならない。
誰かに寄り添いたいというのならば、慈善活動でもしていた方がはるかに貢献できるだろう。
しかし、芸術はそうではない。そこで何よりも求められるのは、自分自身に正直であること、要するに自由なのだ……。』
私は少し前に書いた、自分の日記を読んでいた。
それは確か、ゴッホの解説書を読んでいた時に書き殴った日記だった。
私はまるでその画家に操られたかのように、その文章をひたすら書いていた。
『芸術は慈善活動ではない』。恐らくその時の私には、そんな考えが閃いたのだろう。
確かに、この2つは意外と混同されがちなものだった。
芸術は自己表現、自分自身の内面を追求するためにある。一方の慈善活動は、社会をより良くするため、人々を助けるためにある。
芸術が結果的に慈善活動となり、慈善活動が芸術を利用することがあるために、この2つはよくごちゃ混ぜにされてしまう。
ゴッホも純粋な芸術家のように見えるが、意外とそうでもない。
特に彼が宗教家として、貧しい村で暮らしていた時、彼は芸術を慈善活動のように扱っていたように思える。
『ジャガイモを食べる人々』は、その名の通り自分たちで作ったジャガイモをつつく貧民を描いているが、それを描いたのは貧民を救うためだった。
長らく絵画の世界では、神話や英雄譚をモチーフにした絵が評価されたが、彼はより現実的な世界に焦点を当てた。
そうすることで、貧民の存在を知らせ、彼らにも尊厳を与えようとしたのだ。
ゴッホが芸術にひたむきになり始めたのは、もっと晩年で、痛ましいほどに心を病んでからだった。
慈善活動から脱し、自分自身が貧困にあえぎながら真の芸術を目指した時期だった。その頃から、彼の絵は色彩豊かになり、タッチも独特なものへと変化した。
『星月夜』に『カラスのいる麦畑』。その質感は、慈善活動を前提とした芸術では絶対に表現できない。私にはそんな風に感じられる。
ただ自身の内面を深く追求することでしか、到達することのできない絵……。
ところで、創作物には色々な種類がある。
新聞紙や教科書のように整えられた小説。本物そっくりの一枚絵。
もちろん、そうでないものもある。日記のように乱雑な小説、落書きのように荒っぽい絵。
別に優劣はない。だが、人には好みというものがある。
写実的な描写が好きな人間、感情の渦巻く表現が好きな人間。
私も例外ではない。多分、どちらかと言えば日記的な創作物が好みなのだろう。
そういうのを読んでいると、何かをくすぐられたような気分になる。ただそれだけの理由なのだが。
例えばドストエフスキーは、よく現代文学の父として評されるが、彼の書く小説の8割方は日記のようなものではないかと感じている。
借金、ギャンブル、そしててんかん発作の描写。さらには無神論への関心、良心への呵責……。
どれも彼でなければ書けなかったはずだ。いくら書く能力が優れていると言っても、こういったものはそもそも自分が人間であるという自覚がなければ書けない。
彼を評する者の中には、「彼の人間描写は緻密で計算し尽くされている」などと言う者がいる。
馬鹿のようにつまらない評価だ。それでは、彼の小説を一冊も読んでいないのと同じことだ。
「彼は借金背負いで、賭博者で、てんかん持ちのロシア人だ」。まだそう形容する方がましなくらいである。
作家の中には、読者のためにああしよう、こうしようと策を練る者も少なくない。
そういう人間を見ていると、私はあくびが出る。頭がぼんやりとし、次第には今晩の夕食はどうしようかなどと、全くの余所事を考えるようになる。
そういう作家に何か自分の意見を言えば、大体このような返事が来るだろうと、私は予想する。
「そうは言っても、小説というものは結局読まれなくては意味がない。いくら自分が言いたいことを言っても、伝わらなければ何の意味もない」。
私は頭の中で、そんな返答を勝手に変換する。
「私には何の個性もない。その欠陥を補うために人々に受け入れられるような小説を書いたのに、どうしてそれすら否定されなければならないのか?」
という具合で。
この変換が実際にその人の本心を言い当てているかどうかについては、別に興味がない。
私は単に、その人を勿体ない人間だと思っているだけなのだ。
個性があるのに、それをそのまま大事に取っておこうとしない。ただ自分が認められたいがために、読者目線などという回りくどい手法を選んでいる。
食べたいケーキがあるのに、そのケーキではなく別のケーキを選ぶことで、自分の腹を満たそうとする。そんな代償行為とさほど変わらない。
そのような欲求不満があるのならば、なぜそれを創作の中でぶちまけようとしないのだろう。
なぜ本当に食べたいはずのケーキをそう簡単に手放し、別のケーキで満足したような気になれるのか、私にはよく理解できないのだ。
自分のしたいようにする芸術家は、承認欲求を持っていない。
そのため、承認されるために努力するようなこともない。そして、何かを伝えることを前提とせず、何も伝わらないことを前提とする。
真の芸術家は、「何も伝わらない」と嘆く暇があれば、己の内面に全ての神経と集中力を注ぎ込み、最後には何も伝わらなくて当然だと悟りを開く。
そのような人は、世間からの攻撃によって滅びるのではない。自分自身の内面のあまりの深さに圧倒され、これ以上は精神が耐えられないと言って破滅するのだ。
別に、本当に破滅しろと言うのではない。ただ、そのような破滅を知らない人間は、何となく真の芸術家にはなれないような気がする。
だから、真の芸術家を目指すのならば、あまり行儀の良い人間にはならない方がいいだろう。
実際、ゴッホといいドストエフスキーといい、真の芸術家と思わしき人はずいぶん行儀が悪いものである。
芸術が求めているのは、どんな表現であれ、その内側に生意気さのような、何か扱いにくいものを持っている人間なのだ。
芸術という怪物は、そんな人間が大好物だ。だから、芸術家を目指すのならば、そんな怪物の餌にでもなって恍惚を覚えるのがいい。
……『私は自分にも人々にも奉仕していない。ただ物語にのみ奉仕しているのだ』
私は、真の芸術家とは何であるかを考えた。そして、真の芸術家が言いそうなことを想像し、新たにこの言葉を日記に書き留めた。
芸術家の墓場は、大衆の中にあるのではない。彼らの墓場は物語の中、つまり小説や絵画にあるのだ。
私は、世の中の人間がもっと自分に正直になれますようにと願った。自分に正直になり、そのまま気持ちよくくたばれますようにと願った。
私は日記を閉じた。今日の私は、いつもより気持ちよくくたばってくれたようだった。
ある人にとって、何かを創る際、その魅力を伝えるためにいかに受け手のことを考えるかというのは、本当は何も創らないのと同じことなのだ。
作家なら筆を折ること、絵描きなら手を止めること。それと同じ行為なのである。
創造的な行為及び芸術は、もっと奔放でなくてはならない。
誰かに寄り添いたいというのならば、慈善活動でもしていた方がはるかに貢献できるだろう。
しかし、芸術はそうではない。そこで何よりも求められるのは、自分自身に正直であること、要するに自由なのだ……。』
私は少し前に書いた、自分の日記を読んでいた。
それは確か、ゴッホの解説書を読んでいた時に書き殴った日記だった。
私はまるでその画家に操られたかのように、その文章をひたすら書いていた。
『芸術は慈善活動ではない』。恐らくその時の私には、そんな考えが閃いたのだろう。
確かに、この2つは意外と混同されがちなものだった。
芸術は自己表現、自分自身の内面を追求するためにある。一方の慈善活動は、社会をより良くするため、人々を助けるためにある。
芸術が結果的に慈善活動となり、慈善活動が芸術を利用することがあるために、この2つはよくごちゃ混ぜにされてしまう。
ゴッホも純粋な芸術家のように見えるが、意外とそうでもない。
特に彼が宗教家として、貧しい村で暮らしていた時、彼は芸術を慈善活動のように扱っていたように思える。
『ジャガイモを食べる人々』は、その名の通り自分たちで作ったジャガイモをつつく貧民を描いているが、それを描いたのは貧民を救うためだった。
長らく絵画の世界では、神話や英雄譚をモチーフにした絵が評価されたが、彼はより現実的な世界に焦点を当てた。
そうすることで、貧民の存在を知らせ、彼らにも尊厳を与えようとしたのだ。
ゴッホが芸術にひたむきになり始めたのは、もっと晩年で、痛ましいほどに心を病んでからだった。
慈善活動から脱し、自分自身が貧困にあえぎながら真の芸術を目指した時期だった。その頃から、彼の絵は色彩豊かになり、タッチも独特なものへと変化した。
『星月夜』に『カラスのいる麦畑』。その質感は、慈善活動を前提とした芸術では絶対に表現できない。私にはそんな風に感じられる。
ただ自身の内面を深く追求することでしか、到達することのできない絵……。
ところで、創作物には色々な種類がある。
新聞紙や教科書のように整えられた小説。本物そっくりの一枚絵。
もちろん、そうでないものもある。日記のように乱雑な小説、落書きのように荒っぽい絵。
別に優劣はない。だが、人には好みというものがある。
写実的な描写が好きな人間、感情の渦巻く表現が好きな人間。
私も例外ではない。多分、どちらかと言えば日記的な創作物が好みなのだろう。
そういうのを読んでいると、何かをくすぐられたような気分になる。ただそれだけの理由なのだが。
例えばドストエフスキーは、よく現代文学の父として評されるが、彼の書く小説の8割方は日記のようなものではないかと感じている。
借金、ギャンブル、そしててんかん発作の描写。さらには無神論への関心、良心への呵責……。
どれも彼でなければ書けなかったはずだ。いくら書く能力が優れていると言っても、こういったものはそもそも自分が人間であるという自覚がなければ書けない。
彼を評する者の中には、「彼の人間描写は緻密で計算し尽くされている」などと言う者がいる。
馬鹿のようにつまらない評価だ。それでは、彼の小説を一冊も読んでいないのと同じことだ。
「彼は借金背負いで、賭博者で、てんかん持ちのロシア人だ」。まだそう形容する方がましなくらいである。
作家の中には、読者のためにああしよう、こうしようと策を練る者も少なくない。
そういう人間を見ていると、私はあくびが出る。頭がぼんやりとし、次第には今晩の夕食はどうしようかなどと、全くの余所事を考えるようになる。
そういう作家に何か自分の意見を言えば、大体このような返事が来るだろうと、私は予想する。
「そうは言っても、小説というものは結局読まれなくては意味がない。いくら自分が言いたいことを言っても、伝わらなければ何の意味もない」。
私は頭の中で、そんな返答を勝手に変換する。
「私には何の個性もない。その欠陥を補うために人々に受け入れられるような小説を書いたのに、どうしてそれすら否定されなければならないのか?」
という具合で。
この変換が実際にその人の本心を言い当てているかどうかについては、別に興味がない。
私は単に、その人を勿体ない人間だと思っているだけなのだ。
個性があるのに、それをそのまま大事に取っておこうとしない。ただ自分が認められたいがために、読者目線などという回りくどい手法を選んでいる。
食べたいケーキがあるのに、そのケーキではなく別のケーキを選ぶことで、自分の腹を満たそうとする。そんな代償行為とさほど変わらない。
そのような欲求不満があるのならば、なぜそれを創作の中でぶちまけようとしないのだろう。
なぜ本当に食べたいはずのケーキをそう簡単に手放し、別のケーキで満足したような気になれるのか、私にはよく理解できないのだ。
自分のしたいようにする芸術家は、承認欲求を持っていない。
そのため、承認されるために努力するようなこともない。そして、何かを伝えることを前提とせず、何も伝わらないことを前提とする。
真の芸術家は、「何も伝わらない」と嘆く暇があれば、己の内面に全ての神経と集中力を注ぎ込み、最後には何も伝わらなくて当然だと悟りを開く。
そのような人は、世間からの攻撃によって滅びるのではない。自分自身の内面のあまりの深さに圧倒され、これ以上は精神が耐えられないと言って破滅するのだ。
別に、本当に破滅しろと言うのではない。ただ、そのような破滅を知らない人間は、何となく真の芸術家にはなれないような気がする。
だから、真の芸術家を目指すのならば、あまり行儀の良い人間にはならない方がいいだろう。
実際、ゴッホといいドストエフスキーといい、真の芸術家と思わしき人はずいぶん行儀が悪いものである。
芸術が求めているのは、どんな表現であれ、その内側に生意気さのような、何か扱いにくいものを持っている人間なのだ。
芸術という怪物は、そんな人間が大好物だ。だから、芸術家を目指すのならば、そんな怪物の餌にでもなって恍惚を覚えるのがいい。
……『私は自分にも人々にも奉仕していない。ただ物語にのみ奉仕しているのだ』
私は、真の芸術家とは何であるかを考えた。そして、真の芸術家が言いそうなことを想像し、新たにこの言葉を日記に書き留めた。
芸術家の墓場は、大衆の中にあるのではない。彼らの墓場は物語の中、つまり小説や絵画にあるのだ。
私は、世の中の人間がもっと自分に正直になれますようにと願った。自分に正直になり、そのまま気持ちよくくたばれますようにと願った。
私は日記を閉じた。今日の私は、いつもより気持ちよくくたばってくれたようだった。
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