憂鬱症

77 脳の実験

　デエビゴ、クエチアピン、セルトラリン。
　トリンテリックス、ジアゼパム、スルピリド。
　コンサータ、ストラテラ。

　私は帰宅後、何となく薬手帳を開き、薬剤名を復唱していた。
　手帳を見てみると、今に至るまで、様々な薬を飲んでいることに気がついた。

　私は一つ一つの薬について、少しずつ思い出していた。


　デエビゴは睡眠薬で、精神科に通いたての頃に飲んだ。
　その薬を飲むと眠りが深くなり、少し気分が良くなった。しかし、眠気が強く出たので止めた。

　クエチアピンやセルトラリンは、副作用が強く出たので数日で止めた。頻脈や吐き気が激しく、私には向かなかった。

　トリンテリックス、ジアゼパム、スルピリドはよく覚えていない。覚えていないということは、大して効果がなかったのだろう。


　残ったのは、コンサータ、ストラテラ、インチュニブだった。
　どちらも注意力を調整し、過集中に効くとされる薬だった。

　コンサータは雑念が消え、まるで脳が生まれ変わったような気分になったが、高熱が出たので1日で止めた。

　ストラテラは地道に飲んではみたが、コンサータほど絶大な効果が得られなかった。効果を実感できなかったので、それも止めた。


　結果、最終候補としてインチュニブが処方された。
　これは過集中よりも多動を抑える薬らしいが、まだ飲み始めのため、本当に効くのかはわからない。


　ところで、薬漬けの生活を送るのは悪くなかった。
　その生活を送っているうちに、私は薬に関心を抱くようになり、時には書店で薬学の本を漁ってみたりもした。

　本に知っている薬剤名が登場すると、顔見知りと出会ったような、何となく喜ばしい気持が湧き上がった。


　「ナトリウム塩」や「～酸」の言葉を見ていると、薬には以外にも身近な成分が含まれているということに気がついた。

　脳がそういった成分を餌にして改良されていると思うと、まるで植物に窒素やリン酸の肥料を与えているようで、何とも愉快だった。


　私は、脳も結局タンパク質と脂質の塊だと思った。

　普段は生死など、抽象的で形のないものを考えるが、それらは結局、有形の臓器からひねり出されているに過ぎない。

　そして、脳内でどれだけ複雑なことを考えても、脳が焼却炉で灰になってしまえば、どんな理論も跡形もなくなってしまう。

　私は、そんな人間の脆さが好きだった。散々に理論武装をしておきながら、最後は結局何も残らないというのが、面白おかしくてたまらなかった。


　人間は、何とか塩や何とか酸を吸収しながら、何とか理論でまくし立て、何事もなかったかのように去っていく。

　私は、人間は化学物質に振り回されながら、何処までも無意味なことを繰り返す存在だと思った。

　同時に、そんな人間に生まれて良かったとも思った。
　大義名分を背負って真正面から生きるよりも、「あの薬はこうだ」「この薬はこうだ」などと傍からぶつぶつ言っている方が、ずっと気楽で生きやすかった。


　私は、自分の脳をもっと振り回してみたいと思った。
　様々な薬を飲み、それぞれの効果で快楽や絶望に溺れながら、脳を散々に酷使してみたいと感じた。

　もしそれで新しい人種が生み出されたり、新しい薬が開発されるのならば、それも面白いことだと笑った。

　私には、もはや危機感というものがなかった。脳がタンパク質と脂質の塊だと知ってしまった以上、そんな感情はもはや紙屑も同然だった。