憂鬱症

九時木

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167 乖離

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 ラモトリギンの服用を中止し、一日が経った。
 薬の中止によって食欲が戻り、私は普段の食事量を食べるようになった。

 しかし、気分の方は何となく憂鬱だった。
 夕食後、私はベッドに横たわり、何もせず時間が過ぎていくのを待っていた。


 私は、今夜は入浴ができないだろうと思った。
 体を洗うだけの気力がなかったし、起き上がるのも面倒だった。

 その日は体調不良で仕事を休み、ほとんど外出していなった。
 寝そべったままできることと言えば、読書、絵描き、音楽鑑賞くらいだった。

 私は昼には絵を描き、夜には音楽鑑賞をした。

 音楽はバッハの『マタイ受難曲』を聴いていた。

 この曲は、どうやらイエスの生涯を表現した曲らしく、最後の晩餐、磔刑など、各シーンごとにアリアやコラールが折り混ぜられている。

 特に伸びやかなアリアが美しく、私はその宗教音楽にしばらく聞き入っていた。

 『マタイ受難曲』は何時間もあったので、私はその曲を流しながら、うたた寝をしていた。


 憂鬱感は音楽によって幾分かは和らいだが、頭は依然として石のように重かった。

 心の中は、黒や灰色の絵の具を塗りたくったように暗く、またフランシス・ベーコンの絵画のような不穏さが潜んでいた。

 私は何となく居心地が悪くなり、頭を搔いた。
 頭皮を搔くジリジリとした音が、頭蓋骨に響き渡り、私は不快げに目を細めた。

 『マタイ受難曲』は一時的に私の気分を和らげてくれたが、しばらくすると、悩ましげな曲へと変わっていった。


 言葉で表しにくい感情が、私の中で渦巻いていた。
 私は現実と幻想の間という、輪郭のぼやけた世界に迷い込んでしまったようだった。

 私は現実世界を上手く認識できず、目の前の映像は無数の破片のように散っていた。

 エアコンもテレビも、何か現実に存在するものではないように感じられ、また自分に意識があるということも、何となく奇妙なことのように思えた。

 私の中で、目に映るもの全てがこの世に存在しないものではないかと疑いがふと浮上した。

 存在の確かさというものが徐々に失われ、全てが曖昧な夢の世界に覆われているようだった。


 私はまた、自分の意識が今に至るまで何十年も同じ体内で閉じ込められていることにおかしさを覚えた。

 何十年も生き、今になってやっとその閉鎖的な構造に気がついたような、そんな妙な悟りを得ていた。

 私は自分の手のひらを眺め、開いたり閉じたりしてみたが、その手は自分のものではないように思えた。

 手は私の無意識が動かしているのであって、私自身が意思を持って動かしているわけではないのだと、そう感じるようになった。


 全体的に、その日の私は解離的な症状を呈していた。
 あまりにもベッドに横たわり、外に出ないせいか、現実感覚というものが失われつつあるようだった。

 外から聞こえる人々の騒ぎ声も、まるで遠くの世界の出来事のように感じられた。
 
 私は水中に潜り、その中から地上の光を眺めているような気分になっていた。

 自分が自分ではなくなり、段々と意識が埋もれていくような感覚だった。 


 私は眼球を動かし、部屋を見回してみたが、目に映るものはどれも自分の所有物ではないような気がした。

 それぞれが独立し、固有の世界の中に閉ざされているようで、自分とは全く無関係の物体のようだった。
 
 あれだけ使ったテレビもエアコンも、何度も触れたカーテンも、まるで他人のものにしか見えなくなっていた。

 私はしばらくその謎めいた世界観にのまれ、呆然としていた。
 誰かと連絡を取るとか、何か意識を現実に引き戻してくれるようなことをしなければならないと思ったが、実際にはただ仰向けになっていることしかできなかった。
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