さよならをいう前に

九時木

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 正午過ぎ、シャッターを開けて外の景色を見ました。

 青空が画面いっぱいに広がっていました。風は涼しく、大変気持ちのよいものでした。

 それまで真っ暗だった部屋に、新しい空気が流れ込んだようでした。

 私はこの景色を書かねばならないと思いました。印象派の画家がするように、目の前にあるものを懸命に書き留めるのです。

 目の前の景色は、すぐに消えてしまいます。だから、すぐに書かねばならないと思うのです。


 昨晩の物語を思い出すと、心が傷みます。

 衝動では物を書きたくないと言ったのに、その物語が衝動で書いたものだったからです。自分の意思に反して、ただ書かねばならないという気持ちで書いてしまったからです。

 こういう書き方をしていると、書いた直後は必ず疲れてしまいます。何故あんなものを何時間もかけて書いてしまったのかと深い罪悪感に囚われます。

 どれだけ自分に言い聞かせても、その物語は駄目なものです。衝動で書くものには、やはり罪しかありません。

 それでも、書く前にはこう思ってしまいます。何か居心地のよい今の環境を壊してしまいたいと。

 心の何処かで納得しきれないこの感情を、今書かずにはいられないと。


 私は環境に溶け込むのが苦手です。環境と自分が一体化するのがとても嫌なのです。

 自分が自分でなくなるような気がしてしまうからでしょう。ただ生温かな空気感にのまれていくのが怖いのです。

 怖いというより、その不確定な状況を信じきることに居心地の悪さを覚えるのかもしれません。

 だから、温かな場所からは自ら離れてしまいます。明るい場所を避けるに避けて、物語はやはり暗い場所からでしか書けないと、ついにはそう思うほどです。

 何とも面倒な性格ですね。ですが、人間は眩しいものを見れば見るほど、暗いものを見たがるものです。

 自分の存在を確かめたいのです。自分の輪郭を保っていたい。眩しさに囚われて、自分を見失ってしまいたくない。それだけなのです。


 私は目の前の景色に圧倒されすぎているのでしょうか。

 一喜一憂しすぎているのでしょうか。しかし、目の前の景色があまりにも鮮烈に映ってしまっています。

 希少価値のあるものだが、同時に瞬間的であるせいで、今すぐ書き留めなければすぐに忘れ去られてしまう。目の前の景色については、そんな気がしてならないのです。

 文章には推敲が必要です。景色をより正確に美しく描写するためには、まず自分の考えを熟成させなければなりません。

 それでも、ただ目の前の景色をそのままに記録したいと思うのも事実です。多少荒っぽくとも、醜く映ろうとも、その原石を保管しておきたいと思うのも確かです。


 文章の世界には、答えがありません。何に重きを置き、どのようにしてそれを維持するのか。

 あるいは、自分の生々しさを暴くために、破壊の限りを尽くすのか。どちらも正しく、ただ違うのは方向性だけなのでしょう。

 私は時々、どちらの立場でもありたいと思うことがあります。だから、筆が暴れたり落ち着いたりします。

 どれだけ理想を掲げても、残るのはその筆跡だけです。私を確かな形で物語るのは、歯ぎしりしてしまいたくなるようなその筆跡だけなのです。


 私は物語を閉ざすために、今物書きをしています。どんな筆跡であっても、私の物語は必ずそこに帰結しなければなりません。

 思ってもいないことを書き続けてはならないのです。筆跡とは、そう簡単に消せるものではないものです。

 紙にペンの跡がつくと、紙は二度と元の形には戻れません。たとえ修正液や消しゴムを使ったとしても、何かを修正したという事実自体は絶対に残ってしまうものなのです。

 だから、必要なのは修正することではありません。過ちをおかさないことです。過ちをおかしたのならば、そのままにしておくことです。

 しかし、傷は作って喜ぶものではありません。そもそも傷を作らないことに努め、その努力を死守すべきなのです。

 生半可な覚悟はよしましょう。書きたいと思うものだけを書く。それ以外は雑念で、取るに足りないものです。


 今の私には、書ききったという感覚があります。だから、もう何も書くことはありません。

 物語としての可能性を閉ざし、目の前の出来事を全身で受け止めること。今の私に必要なのは、それだけです。

 物書きという行為に対して、さよならを宣告することです。後悔や後ろめたさがないよう、その意思を固めていくことだけなのです。
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