さよならをいう前に

九時木

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 そこは人工空間でした。それでも、確かに甘美なものが漂う場所でした。

 散歩をしていると、1羽の青い蝶がふと私の後ろをはためきました。冷たい夜に、たった1羽で飛んでいるようでした。

 まるで互いが夜の静けさを味わいに来たように、人気のないその場所で、私は蝶と邂逅したのです。

 その羽は月光で艷めき、ガラスのような透明度を上下に揺らしてみせました。

 めまいのするような光に囚われ、ふとその蝶を虫かごに閉じ込めてしまいたいという欲動が、私の中で込み上げました。

 しかし、私はぐっと堪えました。そうして、ただ互いが偶然巡り合わせ、同じ時間を過ごしたことだけを心に刻むことにしました。


 冬の冷たさをものともせず、蝶はあてもなく辺りを散策していました。

 その姿を見ていると、私の中で、1羽の蝶が不意に姿を現しました。

 冬に飛ぶその青い蝶と同じく、私の中の蝶もまた夜空を映し出すようにして、その羽を青色に染めていました。

 実体を持つ方の青い蝶は、蝶の姿をしていましたが、私にはそれが蝶でないようにも見えました。

 何かもっと別の、私と同じ直線上に立つ者に見え、私は思わず機嫌の良い息を漏らしてしまいました。


 私は生き物にもっと触れたいと思いました。

 そうして、いつもなら通り過ぎてしまうような場所にも、目を留めました。

 夜の海の冷たさ、その中であぶくを吹き出し、ささやかに呼吸を告げる貝類。

 同じ場所をぐるぐると回って過ごす鰯の群れ、色と形を妖艶に揺らすミノカサゴ。

 巨大な水槽の中で、魚たちはいつも通りに泳ぐ姿を見せていました。

 同じ顔でまっすぐと、前にしか進むことのできないその体をくねらせながら、人の作った空間で、すいすいと魚らしく泳いでいました。

 私の視界に、ふと長い海藻が映りました。魚のように活発に動き回ることはありませんが、静かに揺れているその生き物を、私は記憶せずにはいられませんでした。

 私の心は海洋生物によって満たされつつありました。しかし、しばらく水槽の前に立っている間、ふとあの蝶が頭の中で甦りました。

 贅沢な想像が湧きました。今晩の最後の景色は蝶にしよう、蝶の景色を最後に取っておこうと、そんな約束が私を愉しませてくれたのです。


 私は蝶のいる場所へ向かいました。

 心を踊らせすぎず、静かに歩むことを心がけながら、その場所へ歩みを進めました。

 蝶は期待通り、その場所にいました。どの蝶も羽をたたみ、花や木の幹に留まっていました。

 ただあの青い蝶だけが、大きな羽を動かし、その場所を飛び回っているのが見えました。

 その蝶は、確かに夜が好きなようでした。朝の温もりではなく、夜の静けさと暗さと冷たさの中で、自らの心を思う存分に解放しているようでした。


 私は座り、目を閉じました。青い蝶が頭の上や肩に留まることを僅かに期待しながら、目を閉じ続けていました。

 しかし、青い蝶は木の幹にも、私の身体にも、どこにも留まらず、ただ自分だけを頼りにしているように飛び続けていました。

 その体験はもどかしく、歯がゆく、つらいものでしたが、私はそれでも青い蝶のことを憎めませんでした。

 いつまでも、いつまでも、密かな期待を抱えながら、私は蝶を見続けていました。


 瞬間的な青い蝶との巡り合わせ。水槽の中の不動の景色。

 全てが私の中に溶け込んでいきました。体の隅々まで行き渡り、私はその美しさにうっとりとしていました。

 ただ美しいという感覚以外には、何もなかったのです。ただ美しいという感覚だけが、私の生を確かなものにしていたようです。

 私の顔には、目の前の空間に対する微笑みだけが残りました。その微笑みだけが、私の心を嘘偽りなく表してくれているようで、私は満足しました。

 そこは人工空間でした。それでも、確かに甘美なものが漂う場所だったのです。
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