さよならをいう前に

九時木

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 食べて寝ること、悩み苦しむこと、そんな果てのある生活を送ること以外に、何を大切にする必要があるのか。

 果てのない世界を散歩しているうちに、ふとそんな問いが私の中で浮かびました。

 私はまた、人工空間を歩いていました。何の脅威もなく、ただ美しいものが美しいままでいられるその世界にお邪魔していました。


 遠い所まで行きました。氷河の海を潜ると、冷魚たちが群れを作って泳いでいました。

 氷以外に何も無い、人もいない、だだっ広い海の中にも、生物は確かにいるようでした。

 少し暖かい海へ移動すると、海藻が静かに揺れていました。大海の中で、ただ長い海藻だけが息をしていました。

 段々と、自分の主体が薄れていくようでした。広大な世界に投げ込まれ、自分が自分であるという必要性が失われていくようでした。

 目の前には、ただ静かで冷たく、美しい世界が広がっている。幸せという感情も、苦しいという感覚もない。

 ただ少しだけ寂しい、怖いという思いを抱えながら、私はその世界で旅を続けていました。


 旅を終えた後、妙な満足感がありました。

 強い達成感ではないのですが、何かが私の中に居座ることを決めたような感覚でした。

 その世界自体は、温かくも冷たくもない。ただ少しだけ憧れを感じさせるものがある。

 頭の中で果てしない世界を思い描き、あのような世界も隅にあるのだと、そう振り返らせてくれる。

 また帰りたい、行ってみたいと思えるような、安らげる空間です。

 しかし同時に、その人工空間はもう一つの答えを差し出してくれたように思いました。


 果てのない世界には、文字通り果てがありませんでした。

 動物も魚も、死ぬことがない。植物も枯れず、森はしげしげとしている。

 私がいつ訪問しようとも、いつも同じ顔でその世界に存在している。

 温度にも、水にも、空気にも左右されない人工空間。


 段々と、時間感覚が薄れていきました。何もしなくても自分は存在するのだという、確信を超えた事実がありました。

 食事も入浴もいらないと、そんな考えがよぎりました。というより、食事をする気にもなりませんでした。

 何かが決定的に満たされてしまい、一切の不安が取り払われてしまい、私は妙に落ち着いていました。


 その落ち着きのせいでしょうか。気がつけば、果てのある世界のありがたさに思いを巡らせていました。

 今までの自分の悩みは、苦しみは、終わりのある命を持っているからこそ生まれるものなのかもしれないと、そう感じました。

 考えすぎや耐えすぎによるこの疲労感は、生物としての限界を知らせ、自分が確かに生物であることを知らせてくれているのかもしれない。

 その限界が私に生きているという実感を、それが本当はどのような感覚を与えるのかを、それとなく示してくれているのかもしれない、と。


 ふと、私の知らない間に息を吸ったり吐いたりしている自分の肺が、何となく愛おしくなりました。

 この肺もいつかは止まり、命の終わりを告げるのでしょう。それでも今、肺は呼吸を続けています。

 私がどんなに頭に振り回され、物の書き方に苦しみ打ちのめされようとも、私の体は息を吸ったり吐いたりしているのです。


 私は頭から体へと、主権を渡そうかと思いました。

 理性も感情からも離れ、ただ体が必要とするものだけを満たしてやりたい。

 何の期待も背負わず、言い訳も弁護もしないその体の声を、ただその沈黙をじっと聞いていたい。

 体は植物のようです。静かに成長し、静かに老いていく。

 見落としていたのかもしれません。私の思いに関わらず動き続けるその存在を、無視していたのかもしれません。

 そうしなければ、何も良いものは書けない、疲れを乗り越えなければ物書きを続けられないと、そう思い込んでいたのかもしれません。


 しかし、崖先にいる私をいつだって引き止めてくれるのは、体です。限界を予知する身体疲労です。

 私は自分の疲れを軽蔑ばかりしていました。その感覚に対して、叱ってばかりでした。

 疲れは様々な形で表れていました。もっと完成度の高い文章を書かねばとか、逃げてはならないとか、有無を言わせないとか。実に様々な形で。

 それでも、体は確かに疲れているのです。私には命があり、いつかは死ぬ生き物であることを、体はずっと訴え続けているのです。

 限界を知らねばなりません。もう嫌だと言うのならば、はっきりと断ち切らなければなりません。

 体はずっと、物書きというものを一貫して嫌がっているのです。

 私にはそれを口に出すのが怖い。言えば何かを失ってしまいそうで怖かった。それだけです。
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