こいじまい。-Ep.smoking-

ベンジャミン・スミス

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第三章 松田要と青天の霹靂

第二話 佐久間仁の正体

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 月嶋が満足そうな顔で胃を撫でながらインテリア事業部へ戻って来たのを要は見逃さなかった。そもそも見逃すも何もデスクが横なので戻ってくればすぐに分かるのだが。
しかし、月嶋の帰りを心待ちにしていた要は、オフィスの扉が開くたびにそちらに目を向けていた。そしてようやく待ち焦がれていた後輩が戻ってきたというわけだ。

「お帰り」
「今戻りました!」
「……」
「さて、続きしよっ!」

月嶋は仕事の続きとばかりにファイルが片付いて広くなったデスクの上でパソコンを開く。

「月嶋……」
「なんですか?」

パソコンから目を離さない後輩。

「さっきの人、誰?」

質問を間違えた。
それはパソコンから要に向けた驚いた表情で分かった。

「誰って……佐久間さんですよ? 松田さん、名前を呼んでたじゃないですか……先輩なのに」

 最後を強調して言われバツが悪くなる。
名前を呼んでしまった事をすっかり忘れていた。
第一あんな状況で、自分が何を口にしたかなんて一々覚えているわけがない。

「ちょっと下の名前知ってるだけだよ……クライアント先の人じゃないよな?」
「松田さん、大丈夫ですか? 先輩って言ってるじゃないですか!」

さらに怪訝そうな顔をする月嶋。もちろん要もそれは聞き逃さなかった。せめて他社であって欲しいという願いを込めてみたのだったが残念な答えが返ってきた。
 あまりにも要が理解できていないと感じた月嶋が名刺ケースから一枚名刺を取り出し、差し出してくる。

「佐久間 仁さん。化学事業部で営業を担当している人ですよ。」

──化学事業部かがくじぎょうぶ 佐久間さくま じん

(こんな漢字書くのか)

今では特別になったその名前。
知っている人物なのに、まるで始めて顔を合わせ、名刺交換したような気分になり、無意識に名刺を直そうとしてしまう。

「返してください!」
「あっ、わり」

後輩に名刺を返す。

「若く見えるけど、じ、あっ、佐久間さんっていくつ?」

月嶋は名刺を顎にツンツンと当てながら考え込む。
要に見せつけているような仕草に手を伸ばして奪いたくなる。

「いくつだったかな……何でですか?」
「いいから思い出せよ」
「んー……今年で30かな?」

(嘘だろ……あの顔で30手前かよ)

「だから気安く下の名前で呼んじゃいけません!」
「お前は飯食いに行ってたじゃんか」
「それは僕と佐久間さんの仲だからです!」
「はっ?」

この瞬間、要の心に何か黒いものが渦巻いた。

(まさか、こいつも仁とヤってたのか?)

一年間教育係として育ててきた可愛い後輩に持ってはならぬ感情を抱いた。

「去年僕が福岡空港支社に助っ人に行ったのを覚えていますか?」
「おう」

 要は当時の事を鮮明に覚えていた。助っ人で行ったことは別段不思議なことでない。福岡空港支社は、門司支社よりも規模が小さく、社員も少ない。急な欠員が出ればてんやわんやする事は多々あり、あのときはどうしても補充の必要性が出たため月嶋が向かったのだった。ほとんど自分には関係がない事なのに当時の事を鮮明に覚えていたのには理由がある。

「だって、あん時のお前、変だったから覚えてるよ」
「変?」
「あれだろ? お前がやたら残業していた時期だろ?」
「そんなこともありましたね」

なんて、本人は忘れていたかのような口ぶりだ。
あの時の月嶋は何かを忘れるかのように一心不乱に仕事にのめり込み、残業ばかりしていた。他人の仕事ですら持って行きかねないその勢いに何事かと心配し、食事に誘った事もある。

「そういえば今年度は残業しなくなったな」
「えっ? ああ、まぁ……ブームが過ぎただけです」
「なんだよ残業のブームって」

要が心配していたあの時期、月嶋は恋人である人事・広報部副部長のミラーと遠距離恋愛の真っ只中だった。それを忘れるために仕事に打ち込んでいたのだ。

「そんなことより、佐久間さんの続きです!」
「ああ、そうだったな」

二人して去年の記憶に馳せていたが、月嶋が話をもとに戻す。

「あの時、僕と一緒に福岡空港支社に助っ人に行ったのが佐久間さんだったんです! その時からの仲ですよ!」

月嶋と仁が同僚としての健全な仲だったことに、ほっと一安心する要。思わず緩んだ頬に気が付いて手で口を覆う。その時、また思わず口から出そうになった気持ちも押し込める。

(やっぱり俺は仁が……)

空気と共に続きは喉の奥へ呑み込んだ。
 しかし、もう気が付いてしまった自分の気持ちに戸惑いを隠せない。奥へ呑み込んだ気持ちが暴れて胸の辺りが張り裂けそうになる。

「そういえば昨日の合コンどうだったんですか?」
「えっ? あー、うん」
「久しぶりだったんじゃないですか? いい人いました?」

久しぶり。そうだ、今までは仁を優先して行っていなかった。
挙句……

「合コンにはいなかった」

もっと気になる人ができてしまった。
 しかも告白した。理性を失った最悪の形で。

 そして返事は……

──要、酔いすぎだって

小馬鹿にしたような微笑みに、怒る気力も湧かなかった。
それに、なかった事にしようとする発言は、もう告白の答えを物語っていた。

 固まる要に細くため息を吐いた仁はまだ終わってもいないのに身支度を整えた。
向けられた背中が、今日以降見られなくなる気がして「悪い。酔ってるわ。今のなし」と冷静を装いながら弁明した。

「分かってるよ」
「まじ、ごめん」

謝罪してしまった自分に苛立ちが募る。しかし今はこれしか出来ない。次の逢瀬が訪れるかの不安で胸ははち切れそうになっていた。

「いいよ」

玄関へ向かう仁の背中からは気持ちが分からない。透視でもするように見つけ続けたが、最後まで分からず、革靴のトントンという音が最後の時を連想させる。

「じゃあね」

と、去っていった仁。いつもは「またね」あまりにも重量感のある言葉に、玄関の冷たいフローリングにめり込んだ気分になった。

──そして昨日の代償が、今日のファイリングミスだ。

昨日の失態を何度も何度も悔やんでいるうちに

「あれ?」

オフィスには1人きりになっていた。廊下は暗い。窓の外も暗い。目の前には進んでいない仕事がパソコンの液晶を通して、要の落胆している表情を照らしている。

「はぁぁぁ」

天を仰ぐ。
どれほど酸素を吐き出そうと胸は苦しい。
しかし、少し気持ちよくもある。
中毒になりそうなそれは……

「やっぱり好きなんだよな」

恋だった。

「じ……ん」

名前を口に出せば、声に淡い色が色づき、胸が締め付けられ、唇も震える。何度も何度もその名を口ずさむ。声に出すたびに楽になるどころか、どんどん気持ちが高まり、声に出すだけでは我慢が出来なくなる。

「……我慢なんて性にあわねー」

我慢が出来なくなった身体は、まるで膨らんだ風船に穴が開いた様に、勢いよく要の身体を動かした。椅子が倒れるのもお構いなしに立ち上がりオフィスを出て行く。そして、ただ自分の気持ちだけを引っさげて要は同じ階にある別の部署へと向かっていた。

 化学事業部というプレートが見え、要が足を止める。最近は行かなくなったが、合コンばかりして策士紛いに女を口説いていた要からすれば、ここまで手ぶらで突進していくのは久しぶりだった。
 むしろいままでにこんな事があっただろうかと思うほどだ。
 汗ばむ手を握り締め、一歩を踏み出す。

何食わぬ顔で化学事業部のオフィスを覗くと仁はいた。他にも何人か残っていたがちょうど帰るところのようだ。オフィスから出て行く社員に扉を開け、きちんと出て行ったところでオフィスに足を踏み入れる。

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