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第六章 Another Sky
第八話 溢れる不安
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——仕事関係の電話かもしれない。
春人は自分にそう言い聞かせた。
だが、押し寄せる不安の波は引くどころか荒れていき、仕事をする手が何度も止まる。
もう研修が終わり、仕事の話などあの2人はする必要がない。それなのに電話をするのは仲が良い証拠。決して赤澤とアルバートの関係が気になるとか、そう言った不埒な類のものではない。
ただ、何故恋人の自分にはほとんど連絡がないのか——問題はここだった。
仕事と恋人を天秤にかけるなど恐れ多い。それでも自分の優先順位が低いのではと落ち込んでしまう。
本音と現実の葛藤に春人は手にしていたボールペンが音を鳴らすほど握りしめていた。
「大丈夫?」
見かねた佐久間が声をかける。
「大丈夫です! 僕はまだ終わりそうにないので先に帰って下さい!」
また残業をしようとする春人に佐久間は呆れるしかなかった。
「明日、飲みに行くの止めておく? 顔色も悪いし、休んだ方がいいよ」
明日は福岡空港支社での仕事の成功を祝って飲みに行く事になっている。
せっかく仕事以外で気がまぎれるチャンスが遠のき、春人は椅子から立ち上がった。
「行きます! それは絶対に! これも、もうあと1時間で終わらせるんで、明日は大丈夫です!」
あまりの勢いに半歩下がった佐久間だったが、口角を上げて「それなら待っているから終わらせて。一緒に帰ろう」と言った。
こう言われれば終わらせるしかない。
「はい!」
春人は無我夢中で報告書に取り掛かった。
そして宣告通りに1時間で佐久間と退勤する。
門司行の電車に2人で揺られ、別の駅で降りる佐久間が「明日、楽しみにしてるね」と言いながら手を振る。その姿が扉の向こうになり、春人も自分の最寄り駅へと電車に運ばれる。
車窓から見える空は紺と青と水色という一日を終える色で、そこに星が散らばっている。
いつもなら闇で、住宅街の明かりですら消えている時間帯に帰宅する春人には久しぶりの光景だった。
(何をしようか)
駅に着き、家路を行く間も考えたが何も思いつかない。途中で寄ったコンビニエンスストアの雑誌コーナーで、ファッション雑誌の表紙を飾る外国人男性を視界に入れてしまい、身体は重たくなる。
(電話したって出ない……僕のは)
と卑下する様な思考にいたり、いつもなら向かないアルコール飲料のショーケースの前で足が止まる。取っ手を握った手を止めるが、もう一度握り直してガラス扉を開ける。放たれた冷気でも頭は冷えることなく、籠がアルコール飲料でいっぱいになっていった。
そして帰宅後、着替えもせずに汗をかくプルタブに指をかけ引く、食事もそこそこにアルコールを摂取したことで、回りがいつもより早い。
「ふあああ」
情けない声を出し、テーブルに突っ伏す。既に缶が5つも転がり、脳が浮いていた。
春人はお酒に弱いわけではない。だが、村崎に失恋した時も然り、精神状態に左右されてしまう。
今も精神状態は不安定だ。そんな時に飲めばどうなるかくらいわかっている。だが、「飲まずにいられるか―!」とらしくない叫びをテーブルに投げ、6本目を飲みきり、7本目を開けた。
「今、何時だろ」
腕を上げる。そしてつい癖でガラス面に指を這わせてしまう。
「夜の十時……ってことは、イギリスは……夜の十時」
実際は昼の一時。違う球体が天から地上を照らしているのに、今の春人にはそれすら分からない。
「なーんだ。電話できるじゃん」
と、ベッドに投げたスマートフォンを、身体を引きずって取りに行く。
電話の履歴は村崎か松田か佐久間、そこから更にスクロールしてようやくアルバートだ。
酔っているのにタップミスをせず、発信を押した。
——プルルル、プルルル
待てども出ない。
しかし切る気力もなく、体勢を仰向けに変え待ち続けた。
「何で出ないの?」
当然だ。
人工的な白色光に照らさせる不機嫌な春人とは違い、自然の明かりに照らされ仕事に追われているアルバートが出るわけがない。
だがそれに気づかぬ春人は不信感を募らせ、呼び出し音に耳を傾ける。
——ガチャッ
ようやく音が代わり『春人?』と心配そうな低い声が聞こえる。
「遅くまで仕事?」
『遅く? 今は昼の1時だ』
「へ? 今って……あれ? あっ、そうか。ごめん酔ってて」
『構わないよ』
「明日も飲みに行くのにやばいなあ」
と酔っ払いと分かる伸びた声がでる。
『……佐久間さん?』
「何で分かったの?」
『何となくだ。春人、明日……』
「ん?」
アルバートの声が聞こえなくなる。その代り微かに英語が聴こえる。その会話の中に不安が爆発しそうな名前が微かに聞こえた気がした。受話器に耳を押し付けるが、アルバートの声が戻ってきて、慌てて離す。
『すまない。仕事の電話が入った。あとで必ずかけ直す。そうだな……30分待っていてくれないか?』
「仕事忙しいんでしょ? だったら大丈夫」
やはりアルバートは仕事で多忙を極めている。しかし、その合間を縫ってでも赤澤と電話をしているという事実に残ったアルコールが頭に上る。
「じゃあね」
と、半分嫉妬交じりで電話を切る。間際に「待て!」と聞こえたが、その制止を無視した。
そして起き上がり、残りの酒も全て流し込む。
(やっぱり僕はわがままだ)
優先順位に落ち込んだり、いじけたり、大人らしく振る舞えず自分自身に一番苛立つ。
時差を間違えて電話をしたのは自分で、その自分の軽率な行動にも憤りを感じ、やり場のない感情が爆発しかけていた。
缶がペコっと音を鳴らして凹む。
解決策を見出すことが出来ず、春人はそのままアルバートの電話を待たずに眠りに落ちた。
*
春人との電話の最中にビクトールが目の前に現れた。
「アルバート、日本から電話だ」
「誰?」
「シューイチ アカザワ」
「分かった、直ぐに行く……すまない。仕事の電話が入った。あとで必ずかけ直す。そうだな……30分待っていてくれないか?」
『仕事忙しいんでしょ? だったら大丈夫』
酔った声が急に低くなる。そしてアルバートの制止も聞かずに春人は電話を切った。
「アルバート、急げ。受話器上げたまんまだ」
「分かった」
名残惜しそうにスマートフォンを胸ポケットに直す。短い電話にも関わらず、機械は熱くなっている。
(佐久間さんとまた食事か……)
不安を潰そうと握りしめた機械はまだポケットの中で熱を持ったままだ。
それに急かされるようにオフィスへ戻り、受話器をあげる。
「もしもし」
『わりい。俺だ』
「待たせてすまない」
『こっちこそ悪いな。最近何度も何度も。とりあえず結果報告だ』
「結果? 現状ではなく?」
『ああ。つまり終わったって事だ』
2人が話しているのはアルバートが残して帰国した仕事、つまり今田と赤澤が引き継ぎ、その後佐久間と春人がやっていたものだ。
赤澤は現状報告を逐一報告していた。
それはアルバートが頼んだことだった。自分が最後に残した仕事の行く末をきちんと確認しておきたかったのだ。
その結果、佐久間と春人が受け持つことになり、「結果報告」という言葉に仕事が片付いた事を悟った。
『倉庫から運送経路までの流れが早かった。そっちの社員にも助けてもらったみてえだな。ありがとう』
「何を言う。もとは私の仕事だ。こちらこそ感謝する」
『それと……まずい事しちまったかも』
「?」
『お前月嶋と連絡とってないのか?』
「あまり。私の残した仕事で負担をかけているのに、私が更に負担をかけてどうする。それに9時間という時差は予想以上に大きいよ」
『だよな。それなのに今日、俺とアルバートは連絡よくしてるぞみたいな感じの事言っちまって……あーもうすまね!』
「なるほどね」
『もう喧嘩した?』
「していない。とりあえず教えてくれてありがとう。仕事の件も無事に終わってよかった」
『あれは完璧に佐久間のお陰だな』
またその名前か、とアルバートは細くため息をついた。そして人差し指をデスクの上で迷わせる。
「佐久間さんとはどんな人だ。この前、支社に来ていた青年というのは知っている」
(きちんと情報収集はしておかねば)
『人事の昨年度最大の嵐だ。田中部長が無理矢理引っ張てきたせいで他の人事にも影響が出た。あのおっさんもコネだけは立派に持ってやがる。頭の方は……いや、やめとくわ。でも、田中部長の目は間違いない。よくできる男だ、佐久間は。指示も的確、社会情勢もきちんと読み解き、それを踏まえた情報提供ができる。そして全てにおいて仕事が早い』
アルバートは赤澤もよく人を見ていると感心する。
『今回組んだのが月嶋で良かった。あれは年上だと、嫉妬の対象にしかならない。けど月嶋は持ち前の努力と呑み込みの早さできちんと佐久間についていった。だからこそこの段階で仕事が終わった』
仕事に関しては魅力的な男、佐久間仁。
しかしアルバートにとっては春人を狙う刺客でしかない。
「いいコンビだったようだな」
『そうだな。結構仲も良かったし。明日には2人とも門司支社に戻る』
今回の件が終わり、コンビが解散したとしても2人の距離が離れるわけではない。
ただ壁1つ隔てたオフィスで仕事をするだけだ。
不安は拭えない。
「報告ありがとう。すまない、そろそろ出なければいけないから失礼するよ」
挨拶をしながらデスクの上を片付ける。
受話器を置き、腕時計で時間を確認しピッチをあげる。
「そろそろ出張だろ?」
と心配してくるビクトールに「もう出る、あとは任せた」と言ってオフィスを出た。
そして駅へ向かいながら春人に電話をかける。
しかし春人は電話に出なかった。
◇ ◇ ◇
——おかけになった電話は現在電波の入らない……
電源が入っていない事を告げるアナウンスに春人は二日酔いでガンガンする頭を掻いた。
(やっちゃった……)
昨夜の記憶はちゃんとある。
いくら酔っていたとはいえ仕事中に電話をかけ、春人から切るなど一方的にも程がある。そして約束通りアルバートは30分後に電話をかけてくれていた。その時既に夢の中にいた春人には出る事ができなかった。
謝罪しようと慌てて電話をかけたが繋がらない。しかも電源を切っている。
嫌な予感しかしない。
春人はもう1度かけ直したがやはり出なかった。
大きな溜息を零し、時間を確認する。
もう出社しなければならない。
スーツを着用し気持ちを切り替え、久しぶりの門司支社へと出社した。
「久しぶりだな月嶋!」
相変わらず元気な先輩松田。
その隣の春人のデスクは綺麗なままだった。
「仕事がない」
残念そうな声を出す春人に松田が不思議そうな表情をする。
「松田さんがしてくれたんですか?」
「してない。だってお前、残業してかなり先まで終わらせてたじゃないか。だから溜まってないんだよ」
アルバートを忘れる為にのめり込んだ仕事のお陰で、福岡空港支社の仕事に立候補できた。しかし、早めに終わらせてしまい、門司支社に戻った春人に仕事は無かった。自分の努力のおかげではあるが、残業する物が無くなるのは困る。
忘れてはいけない大切な存在なのに、春人はアルバートを忘れる為に躍起になっていた。
「なんかお前、やつれたな。」
松田が春人の頬をつねりながら言う。
「そうですか?」
「覇気を感じない。何かあったのか? 向こうでしごかれたのか?」
「別に」
「残業のしすぎか? まさか向こうでも残業ばっかりしてたんじゃないだろな」
「大丈夫です!」
「本当か?」
信用していない松田は春人を仕事中も横目で監視していた。
昼になり春人がスマートフォンをこっそり確認しているのが見えたが、松田には画面の中までは分からない。しかし画面を見つめる漆黒の瞳にはメッセージアイコンの上でもだもだしている指が映っている。
(アルバートからメッセージが来てる。昨日の事だよね。絶対に呆れてる、見たくない)
迷った挙句、春人は画面をタップせず、その指でスマートフォンをポケットに直した。
その瞬間横にいた松田が勢いよく立ち上がる。
「よし!」
「うわ!」
松田が春人の腕を引っ張る
「奢ってやる! 社食行くぞ!」
気を利かせた先輩に引きずられるように春人は社員食堂へ連れていかれた。
そして、松田はこれでもかと言うほど頼んだ。焼肉定食に生姜焼き定食、カツ丼にハンバーグ定食。
「肉だらけじゃないですか!」
春人は思わず突っ込んでしまう。
「しっかり食えよ!」
そうは言われてもあまりの量の多さに春人は箸にすら手が伸びない。それに何故急に先輩がこんな事をしたのかも分からない。
「どうしたんですか急に?」
「落ち込んでるときは食うのが一番! 俺も去年、どこぞの部長に嫌味言われて落ち込んでる時に村崎部長がここでたくさん奢ってくれたんだよ!」
懐かしむ様に自分の定食に手を付ける松田。
「何かあるなら聞くし、言えないならとりあえず食え食え!」
「松田さん……」
「ん?」
頬にソースが付いている松田は間抜け面だ。そんな先輩でも春人の事を思ってくれている。その優しさがソース以上に染みる。
「優しいんですね」
「俺はいつも優しいだろ!」
「……合コン」
「あっ、あれは……んじゃ、デザートもつけてやる!」
と罰が悪そうに財布を持って席を立った松田の背中に春人は小さく「ありがとうございます」と感謝の意を告げた。
(松田さんも佐久間さんも優しいな)
今夜の飲みに行くもう一人の先輩を思い出す。
佐久間も春人を気にかけてくれている。その本意に気が付いていない春人は優しい先輩2人の気持ちを噛みしめて焼肉定食に手を付けた。
春人は自分にそう言い聞かせた。
だが、押し寄せる不安の波は引くどころか荒れていき、仕事をする手が何度も止まる。
もう研修が終わり、仕事の話などあの2人はする必要がない。それなのに電話をするのは仲が良い証拠。決して赤澤とアルバートの関係が気になるとか、そう言った不埒な類のものではない。
ただ、何故恋人の自分にはほとんど連絡がないのか——問題はここだった。
仕事と恋人を天秤にかけるなど恐れ多い。それでも自分の優先順位が低いのではと落ち込んでしまう。
本音と現実の葛藤に春人は手にしていたボールペンが音を鳴らすほど握りしめていた。
「大丈夫?」
見かねた佐久間が声をかける。
「大丈夫です! 僕はまだ終わりそうにないので先に帰って下さい!」
また残業をしようとする春人に佐久間は呆れるしかなかった。
「明日、飲みに行くの止めておく? 顔色も悪いし、休んだ方がいいよ」
明日は福岡空港支社での仕事の成功を祝って飲みに行く事になっている。
せっかく仕事以外で気がまぎれるチャンスが遠のき、春人は椅子から立ち上がった。
「行きます! それは絶対に! これも、もうあと1時間で終わらせるんで、明日は大丈夫です!」
あまりの勢いに半歩下がった佐久間だったが、口角を上げて「それなら待っているから終わらせて。一緒に帰ろう」と言った。
こう言われれば終わらせるしかない。
「はい!」
春人は無我夢中で報告書に取り掛かった。
そして宣告通りに1時間で佐久間と退勤する。
門司行の電車に2人で揺られ、別の駅で降りる佐久間が「明日、楽しみにしてるね」と言いながら手を振る。その姿が扉の向こうになり、春人も自分の最寄り駅へと電車に運ばれる。
車窓から見える空は紺と青と水色という一日を終える色で、そこに星が散らばっている。
いつもなら闇で、住宅街の明かりですら消えている時間帯に帰宅する春人には久しぶりの光景だった。
(何をしようか)
駅に着き、家路を行く間も考えたが何も思いつかない。途中で寄ったコンビニエンスストアの雑誌コーナーで、ファッション雑誌の表紙を飾る外国人男性を視界に入れてしまい、身体は重たくなる。
(電話したって出ない……僕のは)
と卑下する様な思考にいたり、いつもなら向かないアルコール飲料のショーケースの前で足が止まる。取っ手を握った手を止めるが、もう一度握り直してガラス扉を開ける。放たれた冷気でも頭は冷えることなく、籠がアルコール飲料でいっぱいになっていった。
そして帰宅後、着替えもせずに汗をかくプルタブに指をかけ引く、食事もそこそこにアルコールを摂取したことで、回りがいつもより早い。
「ふあああ」
情けない声を出し、テーブルに突っ伏す。既に缶が5つも転がり、脳が浮いていた。
春人はお酒に弱いわけではない。だが、村崎に失恋した時も然り、精神状態に左右されてしまう。
今も精神状態は不安定だ。そんな時に飲めばどうなるかくらいわかっている。だが、「飲まずにいられるか―!」とらしくない叫びをテーブルに投げ、6本目を飲みきり、7本目を開けた。
「今、何時だろ」
腕を上げる。そしてつい癖でガラス面に指を這わせてしまう。
「夜の十時……ってことは、イギリスは……夜の十時」
実際は昼の一時。違う球体が天から地上を照らしているのに、今の春人にはそれすら分からない。
「なーんだ。電話できるじゃん」
と、ベッドに投げたスマートフォンを、身体を引きずって取りに行く。
電話の履歴は村崎か松田か佐久間、そこから更にスクロールしてようやくアルバートだ。
酔っているのにタップミスをせず、発信を押した。
——プルルル、プルルル
待てども出ない。
しかし切る気力もなく、体勢を仰向けに変え待ち続けた。
「何で出ないの?」
当然だ。
人工的な白色光に照らさせる不機嫌な春人とは違い、自然の明かりに照らされ仕事に追われているアルバートが出るわけがない。
だがそれに気づかぬ春人は不信感を募らせ、呼び出し音に耳を傾ける。
——ガチャッ
ようやく音が代わり『春人?』と心配そうな低い声が聞こえる。
「遅くまで仕事?」
『遅く? 今は昼の1時だ』
「へ? 今って……あれ? あっ、そうか。ごめん酔ってて」
『構わないよ』
「明日も飲みに行くのにやばいなあ」
と酔っ払いと分かる伸びた声がでる。
『……佐久間さん?』
「何で分かったの?」
『何となくだ。春人、明日……』
「ん?」
アルバートの声が聞こえなくなる。その代り微かに英語が聴こえる。その会話の中に不安が爆発しそうな名前が微かに聞こえた気がした。受話器に耳を押し付けるが、アルバートの声が戻ってきて、慌てて離す。
『すまない。仕事の電話が入った。あとで必ずかけ直す。そうだな……30分待っていてくれないか?』
「仕事忙しいんでしょ? だったら大丈夫」
やはりアルバートは仕事で多忙を極めている。しかし、その合間を縫ってでも赤澤と電話をしているという事実に残ったアルコールが頭に上る。
「じゃあね」
と、半分嫉妬交じりで電話を切る。間際に「待て!」と聞こえたが、その制止を無視した。
そして起き上がり、残りの酒も全て流し込む。
(やっぱり僕はわがままだ)
優先順位に落ち込んだり、いじけたり、大人らしく振る舞えず自分自身に一番苛立つ。
時差を間違えて電話をしたのは自分で、その自分の軽率な行動にも憤りを感じ、やり場のない感情が爆発しかけていた。
缶がペコっと音を鳴らして凹む。
解決策を見出すことが出来ず、春人はそのままアルバートの電話を待たずに眠りに落ちた。
*
春人との電話の最中にビクトールが目の前に現れた。
「アルバート、日本から電話だ」
「誰?」
「シューイチ アカザワ」
「分かった、直ぐに行く……すまない。仕事の電話が入った。あとで必ずかけ直す。そうだな……30分待っていてくれないか?」
『仕事忙しいんでしょ? だったら大丈夫』
酔った声が急に低くなる。そしてアルバートの制止も聞かずに春人は電話を切った。
「アルバート、急げ。受話器上げたまんまだ」
「分かった」
名残惜しそうにスマートフォンを胸ポケットに直す。短い電話にも関わらず、機械は熱くなっている。
(佐久間さんとまた食事か……)
不安を潰そうと握りしめた機械はまだポケットの中で熱を持ったままだ。
それに急かされるようにオフィスへ戻り、受話器をあげる。
「もしもし」
『わりい。俺だ』
「待たせてすまない」
『こっちこそ悪いな。最近何度も何度も。とりあえず結果報告だ』
「結果? 現状ではなく?」
『ああ。つまり終わったって事だ』
2人が話しているのはアルバートが残して帰国した仕事、つまり今田と赤澤が引き継ぎ、その後佐久間と春人がやっていたものだ。
赤澤は現状報告を逐一報告していた。
それはアルバートが頼んだことだった。自分が最後に残した仕事の行く末をきちんと確認しておきたかったのだ。
その結果、佐久間と春人が受け持つことになり、「結果報告」という言葉に仕事が片付いた事を悟った。
『倉庫から運送経路までの流れが早かった。そっちの社員にも助けてもらったみてえだな。ありがとう』
「何を言う。もとは私の仕事だ。こちらこそ感謝する」
『それと……まずい事しちまったかも』
「?」
『お前月嶋と連絡とってないのか?』
「あまり。私の残した仕事で負担をかけているのに、私が更に負担をかけてどうする。それに9時間という時差は予想以上に大きいよ」
『だよな。それなのに今日、俺とアルバートは連絡よくしてるぞみたいな感じの事言っちまって……あーもうすまね!』
「なるほどね」
『もう喧嘩した?』
「していない。とりあえず教えてくれてありがとう。仕事の件も無事に終わってよかった」
『あれは完璧に佐久間のお陰だな』
またその名前か、とアルバートは細くため息をついた。そして人差し指をデスクの上で迷わせる。
「佐久間さんとはどんな人だ。この前、支社に来ていた青年というのは知っている」
(きちんと情報収集はしておかねば)
『人事の昨年度最大の嵐だ。田中部長が無理矢理引っ張てきたせいで他の人事にも影響が出た。あのおっさんもコネだけは立派に持ってやがる。頭の方は……いや、やめとくわ。でも、田中部長の目は間違いない。よくできる男だ、佐久間は。指示も的確、社会情勢もきちんと読み解き、それを踏まえた情報提供ができる。そして全てにおいて仕事が早い』
アルバートは赤澤もよく人を見ていると感心する。
『今回組んだのが月嶋で良かった。あれは年上だと、嫉妬の対象にしかならない。けど月嶋は持ち前の努力と呑み込みの早さできちんと佐久間についていった。だからこそこの段階で仕事が終わった』
仕事に関しては魅力的な男、佐久間仁。
しかしアルバートにとっては春人を狙う刺客でしかない。
「いいコンビだったようだな」
『そうだな。結構仲も良かったし。明日には2人とも門司支社に戻る』
今回の件が終わり、コンビが解散したとしても2人の距離が離れるわけではない。
ただ壁1つ隔てたオフィスで仕事をするだけだ。
不安は拭えない。
「報告ありがとう。すまない、そろそろ出なければいけないから失礼するよ」
挨拶をしながらデスクの上を片付ける。
受話器を置き、腕時計で時間を確認しピッチをあげる。
「そろそろ出張だろ?」
と心配してくるビクトールに「もう出る、あとは任せた」と言ってオフィスを出た。
そして駅へ向かいながら春人に電話をかける。
しかし春人は電話に出なかった。
◇ ◇ ◇
——おかけになった電話は現在電波の入らない……
電源が入っていない事を告げるアナウンスに春人は二日酔いでガンガンする頭を掻いた。
(やっちゃった……)
昨夜の記憶はちゃんとある。
いくら酔っていたとはいえ仕事中に電話をかけ、春人から切るなど一方的にも程がある。そして約束通りアルバートは30分後に電話をかけてくれていた。その時既に夢の中にいた春人には出る事ができなかった。
謝罪しようと慌てて電話をかけたが繋がらない。しかも電源を切っている。
嫌な予感しかしない。
春人はもう1度かけ直したがやはり出なかった。
大きな溜息を零し、時間を確認する。
もう出社しなければならない。
スーツを着用し気持ちを切り替え、久しぶりの門司支社へと出社した。
「久しぶりだな月嶋!」
相変わらず元気な先輩松田。
その隣の春人のデスクは綺麗なままだった。
「仕事がない」
残念そうな声を出す春人に松田が不思議そうな表情をする。
「松田さんがしてくれたんですか?」
「してない。だってお前、残業してかなり先まで終わらせてたじゃないか。だから溜まってないんだよ」
アルバートを忘れる為にのめり込んだ仕事のお陰で、福岡空港支社の仕事に立候補できた。しかし、早めに終わらせてしまい、門司支社に戻った春人に仕事は無かった。自分の努力のおかげではあるが、残業する物が無くなるのは困る。
忘れてはいけない大切な存在なのに、春人はアルバートを忘れる為に躍起になっていた。
「なんかお前、やつれたな。」
松田が春人の頬をつねりながら言う。
「そうですか?」
「覇気を感じない。何かあったのか? 向こうでしごかれたのか?」
「別に」
「残業のしすぎか? まさか向こうでも残業ばっかりしてたんじゃないだろな」
「大丈夫です!」
「本当か?」
信用していない松田は春人を仕事中も横目で監視していた。
昼になり春人がスマートフォンをこっそり確認しているのが見えたが、松田には画面の中までは分からない。しかし画面を見つめる漆黒の瞳にはメッセージアイコンの上でもだもだしている指が映っている。
(アルバートからメッセージが来てる。昨日の事だよね。絶対に呆れてる、見たくない)
迷った挙句、春人は画面をタップせず、その指でスマートフォンをポケットに直した。
その瞬間横にいた松田が勢いよく立ち上がる。
「よし!」
「うわ!」
松田が春人の腕を引っ張る
「奢ってやる! 社食行くぞ!」
気を利かせた先輩に引きずられるように春人は社員食堂へ連れていかれた。
そして、松田はこれでもかと言うほど頼んだ。焼肉定食に生姜焼き定食、カツ丼にハンバーグ定食。
「肉だらけじゃないですか!」
春人は思わず突っ込んでしまう。
「しっかり食えよ!」
そうは言われてもあまりの量の多さに春人は箸にすら手が伸びない。それに何故急に先輩がこんな事をしたのかも分からない。
「どうしたんですか急に?」
「落ち込んでるときは食うのが一番! 俺も去年、どこぞの部長に嫌味言われて落ち込んでる時に村崎部長がここでたくさん奢ってくれたんだよ!」
懐かしむ様に自分の定食に手を付ける松田。
「何かあるなら聞くし、言えないならとりあえず食え食え!」
「松田さん……」
「ん?」
頬にソースが付いている松田は間抜け面だ。そんな先輩でも春人の事を思ってくれている。その優しさがソース以上に染みる。
「優しいんですね」
「俺はいつも優しいだろ!」
「……合コン」
「あっ、あれは……んじゃ、デザートもつけてやる!」
と罰が悪そうに財布を持って席を立った松田の背中に春人は小さく「ありがとうございます」と感謝の意を告げた。
(松田さんも佐久間さんも優しいな)
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言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
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