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第ハ章 Invite
第六話 10本の想い
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会社の屋上で佐久間と対峙する春人は口をポカンと開けていた。
何か言おうと冷たい風を肺に送り込み、停止した脳が息を吹き返す。
「今……何て言いましたか?」
佐久間は恥ずかしそうに視線を逸らすも、最後は春人を真っ直ぐ見つめる。
それは寒空に舞う鷹が獲物に狙いを定める視線に近い。
「だから……月嶋君が好きって言ってるの」
春人は再び思考を停止させる。
かれこれこれを4回は繰り返している。
もう次は無いと、「俺は君が好きだ」と佐久間がはっきり言う。
「え? 佐久間さんはアルが好きなんじゃないんですか?」
佐久間の眉が不愉快そうに吊り上がる。
「もしかして昨日の?」
首を縦に激しく振る春人に、佐久間は肩を窄めた。
「ありえないから。絶対に付き合いたくないタイプ」
「そ、そうかな? 結構似ているところがある気したんですけど」
「似てるからって合うとは限らないよ。むしろ反発しちゃうんじゃないかな?」
春人は危惧していた事が勘違いだったと分かり安心する。
それを面白いと思わない佐久間が本題に戻す。
「とにかく俺が好きなのは月嶋君なの」
「それも意味が分かんないです! 何で僕なんですか?! 佐久間さんならもっといい人がいますよ!」
しかめっ面の佐久間が春人の腕を掴み引き寄せる。
「今、俺を褒めるのは逆効果だよ。俺が良い人だと思っているなら、付き合ってくれる?」
「でも僕にはアルバートが……」
「別れて」
佐久間の目は今までに見た事がないほど真面目だ。掴まれた腕への圧は増す。
これは冗談でも何でもないと、春人はその気持ちを真っ直ぐに受け止める。
しかし応える事は出来ない。
手を振り払われた佐久間の顔が歪む。
「無理です。僕はアルバートと別れません」
「遠距離なのに? 国籍も年齢も違う。彼に背伸びをして、我慢する月嶋君はとても苦しそうにみえるよ? それなら近くにいられる俺の方が君を幸せにできる」
佐久間のいう事はもっともだ。春人の本心までも見透かしている。
「苦しいけど、アルバートを好きな気持ちは変えられないんです。だから……僕は佐久間さんとは付き合えません。ごめんなさい」
誠心誠意を込めて頭を下げる春人。しかしハッとその頭を上げる。
「でも先輩としては大好きです! 尊敬しています! あっ、こういう事も今は言わない方がいいのかな?! ご、ごめんなさい!」
言われた事は直ぐに吸収する。仕事でもみてきた春人の姿に、佐久間は自分が仕事仲間以上の関係になれない事を悟る。
「本当、そういうところが可愛いよね。でも仕事以外の顔も見せてほしかったな」
届かぬ空を見上げる。
「俺も後輩として月嶋君の事大好きだよ。でもそれ以上の気持ちがある事も忘れないでほしい」
「……はい。でも……」
「分かってる。付き合えないんでしょ? でも思い続ける事は俺の勝手だよね。ミラーさんに言っておいてくれる? まだ諦めないので、って」
諦める素振りを見せぬ佐久間も、春人から見れば仕事の時と同じ表情だった。
——なかなか手に入らない品物をあの手この手で自分の物にしようとしているように見える。
仕事では重要になる意欲も、恋愛では意固地にしかならない。そして性格も相まって引き際が分からなくなっている。
本人にはそれを伝えない。伝えればプライドを傷つける事になるだろう。
「分かりました」
佐久間も「好きな人を手に入れられなかった」というより「同じ部類の人間に負けた」感覚に近い事は分かっていた。
しかしそこから目を背け、そして春人からも目を背け「それだけ」と最後に呟いた。
「失礼します」
その仕事人の横を、最後にもう一度頭を下げながら春人は通り過ぎた。
屋上の扉に手をかけ、そっと後ろを振り向く。職場で見る姿と変わらないその背中に
(佐久間さんにも素敵な恋人ができますように)
と願いながら、春人は大好きな恋人の元へと帰るべく、いきおいよく扉を開けた。
*
階段を駆け下りるとロビーに見た目の目立つ男が立っていた。
「あっ」
その声に反応して、下りてくる春人を見上げた顔はいつもより緊張している。
「おかえり」
「……ただいま。な、何してるの?」
自分がとんでもない勘違いをして家を飛び出してきたことを思い出し、春人は屋上での出来事を誤魔化すように頬を掻いた。
「佐久間さんに口説かれた君に口説いてもらおうと思って」
とサラリと言ったアルバートに春人は足を止めてしまう。
「佐久間さんが僕を好きなの知っていたの?!」
驚愕で大きくなった声。
慌てて周りを確認する。キョロキョロする春人にアルバートは「知っていたよ」と言いながら踵を返した。
その余裕を感じさせる背中にやられた気分になる。
「もー! 知ってるなら教えてよ!」
「佐久間さんには佐久間さんのタイミングがある」
「いつから知っていたの?!」
「……確か、君が彼と福岡空港支社に派遣された時だ」
春人は怪訝な表情をアルバートに向けた。
その時から佐久間の気持ちを知っていたというのなら、自分の恋人は一体どういう気持ちで春人から告げられる佐久間に関する話題に耳を傾けていたのだろうか。
「僕がとられないと思ってた?」
その疑問にアルバートはすぐに返事をしない。しばらく考えたのち「まさか」と冷静に答え、自身の考えを述べた。
「春人は浮気などしない。私は恋人を信じた……それだけだよ」
と、ポーカーフェイスでその奥に隠れた本心を隠した。
(本当は、不安で仕方がなかった。しかし、それが知られれば彼に幼稚だと呆れられるかもしれない。何よりあのキスマークが愛嬌のある独占欲からとんでもない嫉妬の塊に顔を変えてしまう)
それだけは隠しておきたかった。
それにこれが知られれば、何食わぬ顔で迎えに来た今の本当の意味も知られてしまう。
そしてアルバートの思惑に見事嵌った春人は「大人の余裕ってやつ?」と不服そうにぼやいた。
ようやく震えていた手も止まる。
「そういえば佐久間さんからアルバートに伝言」
春人から伝言の内容を聞き、震えの止まった手が握りこぶしを作る。
「そうか。わかった」
「それだけ?!」
「逆に聞くが、君は佐久間さんに奪われる気でいるのか?」
上手いこと話をすり替えるのは誰かとそっくりだ。
「そんなわけないじゃん! 佐久間さんにも言ったけど僕はアルバートが好きだからどこにも行ったりしません!」
はっきり告げられ一瞬だけ光が見える。それでも自分と似た様な仕事の仕方をする男に油断はできない。
「そんなに心配なら僕がどれだけアルバートを好きか本当に口説こうか?」
「いや、もう十分口説かれた」
「え? いつ?」
数秒前の告白を忘れているのか、それとも彼にとってはそれが当たり前の事なのか……どちらにしても……
「もう一度口説いてくれるというのなら、君の部屋でゆっくり聞くよ」
と家の鍵を春人の目の前で揺らした。
「一連の騒動でまだキスすらできていないから、もう限界だ」
と腰に手を回し囁くアルバートに春人は何も言わず、家路を行く足を速めた。
勿論その後は何度も身体を重ね、ようやくお互いの体温を交換することができた。
そしてその晩は背中を向けず、アルバートの胸の中で春人は眠りに落ちていった。アルバートが「おやすみ」と撫でてくれる背中に前回よりも大量の花が咲いている事にも気づかず。
◇ ◇ ◇
そして翌日──再びおとずれた帰国のとき。
アルバートを空港まで見送りに行く春人が目を見開く。
「僕、村崎部長に助けて貰ったの?!」
「ああ。覚えていなくとも礼をしておいた方がいいだろう」
あの日の事を必死に思い出そうとするも、自分が勘違いした光景しか思い出せない。そしてその前の肝心な事も忘れていた。
「ちょっと相談があるんだけど」
「どうかした?」
「……田中部長に化学事業部に来ないかって言われたんだ」
さほど驚いた様子を見せないアルバートに春人は助けを求めた。
「認められている証拠だな」
「それは嬉しいけど、僕は異動したくない」
「断ったらいいではないか」
「日本人はそう簡単にいかないの! それに……村崎部長に迷惑がかかるかもしれない」
春人は田中に言われた事を全てアルバートに話した。
「どうしたらいいのかな」
「村崎さんも年齢でいうと若い方だから分が悪いな」
顎に手をやり本気で悩む。しかし悩みを相談してきた本人は既に他の事に意識を持っていかれていた。
「保安検査場、通れるみたいだよ」
力のない声は、消えてしまいそうだ。
電子掲示板を見つめる春人の頭を撫でる。そし椅子の方を向かせる。
「まだ時間はある。座ろうか」
「……うん」
誘われるがまま椅子に腰をかけ無言の春人は椅子同士を繋ぐ金具の上で指を弄ぶ。
そこへグレーのハンカチがふわりと被さる。
横を見上げると、被せた本人は前を見ていた。
何が起こっているか分からない春人はハンカチを退かそうと指を引くが、ハンカチの中でギュッと大きな手に捕らえられてしまう。
「?!」
アルバートは微動だにせずただ前だけを見ていた。しかし口だけが小さく「これならバレないよ」と動く。
春人も真似をしてポーカーフェイスを気取ろうとしたが、それは叶わなかった。
(だ……だめぇ……)
アルバートの骨格の良い骨ばった指が、春人の手の甲を撫でる。そして指先を絡ませあう。最初は指先だけ、徐々に関節を一つ、二つと通り過ぎ、指間の窪みをクイクイと優しく押してくる。波打つように柔らかい動きは、蜜壺を刺激する動きと同じ。指を足に見立て、窪みは春人の熱い下腹部、そこをイかせんばかりに撫で上げる。
「……」
真っ赤になりながら俯く事しかできない。
ただ指を絡めているだけなのに、公然で行為に及んでいる気分だ。
「んっ」
と頬を染め必死に耐える春人。
アルバートは時間が許すかぎり健全に見える愛撫を施した。その間も崩れぬ表情に春人は悔しくなり、やり返そうと指を動かすが結局彼に犯される。
そして段々弱まり、今度は動物の親子が身体を擦り合わせる様に愛おしそうに指を撫でる。
その動きも止まり、「そろそろ行かなければ」と離れて行く。
「うん」
と言いながらも、春人は離れる指を強く握って離さない。しかし、無残なアナウンスにとうとう離す時が来た。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
いつもの別れの言葉を合図に、手品の様にハンカチの下から恋人達の手は消える。
何事も無い風にハンカチを畳むアルバートに春人は今回も弱音を吐けなかった。
(寂しいな)
俯き、表情を隠す。
それを見下ろすアルバートは、大人の余裕に見せかけた独占欲を背中と、そして今回は手に刻み込んだ。
別れの間際まで自分の存在を恋人の身体に教え込ませた。
42歳のプライドが隠した独占欲と、23歳が背伸びして隠した寂しさは、今日も地に降り立つことがないまま、空へと飛び立った。
何か言おうと冷たい風を肺に送り込み、停止した脳が息を吹き返す。
「今……何て言いましたか?」
佐久間は恥ずかしそうに視線を逸らすも、最後は春人を真っ直ぐ見つめる。
それは寒空に舞う鷹が獲物に狙いを定める視線に近い。
「だから……月嶋君が好きって言ってるの」
春人は再び思考を停止させる。
かれこれこれを4回は繰り返している。
もう次は無いと、「俺は君が好きだ」と佐久間がはっきり言う。
「え? 佐久間さんはアルが好きなんじゃないんですか?」
佐久間の眉が不愉快そうに吊り上がる。
「もしかして昨日の?」
首を縦に激しく振る春人に、佐久間は肩を窄めた。
「ありえないから。絶対に付き合いたくないタイプ」
「そ、そうかな? 結構似ているところがある気したんですけど」
「似てるからって合うとは限らないよ。むしろ反発しちゃうんじゃないかな?」
春人は危惧していた事が勘違いだったと分かり安心する。
それを面白いと思わない佐久間が本題に戻す。
「とにかく俺が好きなのは月嶋君なの」
「それも意味が分かんないです! 何で僕なんですか?! 佐久間さんならもっといい人がいますよ!」
しかめっ面の佐久間が春人の腕を掴み引き寄せる。
「今、俺を褒めるのは逆効果だよ。俺が良い人だと思っているなら、付き合ってくれる?」
「でも僕にはアルバートが……」
「別れて」
佐久間の目は今までに見た事がないほど真面目だ。掴まれた腕への圧は増す。
これは冗談でも何でもないと、春人はその気持ちを真っ直ぐに受け止める。
しかし応える事は出来ない。
手を振り払われた佐久間の顔が歪む。
「無理です。僕はアルバートと別れません」
「遠距離なのに? 国籍も年齢も違う。彼に背伸びをして、我慢する月嶋君はとても苦しそうにみえるよ? それなら近くにいられる俺の方が君を幸せにできる」
佐久間のいう事はもっともだ。春人の本心までも見透かしている。
「苦しいけど、アルバートを好きな気持ちは変えられないんです。だから……僕は佐久間さんとは付き合えません。ごめんなさい」
誠心誠意を込めて頭を下げる春人。しかしハッとその頭を上げる。
「でも先輩としては大好きです! 尊敬しています! あっ、こういう事も今は言わない方がいいのかな?! ご、ごめんなさい!」
言われた事は直ぐに吸収する。仕事でもみてきた春人の姿に、佐久間は自分が仕事仲間以上の関係になれない事を悟る。
「本当、そういうところが可愛いよね。でも仕事以外の顔も見せてほしかったな」
届かぬ空を見上げる。
「俺も後輩として月嶋君の事大好きだよ。でもそれ以上の気持ちがある事も忘れないでほしい」
「……はい。でも……」
「分かってる。付き合えないんでしょ? でも思い続ける事は俺の勝手だよね。ミラーさんに言っておいてくれる? まだ諦めないので、って」
諦める素振りを見せぬ佐久間も、春人から見れば仕事の時と同じ表情だった。
——なかなか手に入らない品物をあの手この手で自分の物にしようとしているように見える。
仕事では重要になる意欲も、恋愛では意固地にしかならない。そして性格も相まって引き際が分からなくなっている。
本人にはそれを伝えない。伝えればプライドを傷つける事になるだろう。
「分かりました」
佐久間も「好きな人を手に入れられなかった」というより「同じ部類の人間に負けた」感覚に近い事は分かっていた。
しかしそこから目を背け、そして春人からも目を背け「それだけ」と最後に呟いた。
「失礼します」
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屋上の扉に手をかけ、そっと後ろを振り向く。職場で見る姿と変わらないその背中に
(佐久間さんにも素敵な恋人ができますように)
と願いながら、春人は大好きな恋人の元へと帰るべく、いきおいよく扉を開けた。
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階段を駆け下りるとロビーに見た目の目立つ男が立っていた。
「あっ」
その声に反応して、下りてくる春人を見上げた顔はいつもより緊張している。
「おかえり」
「……ただいま。な、何してるの?」
自分がとんでもない勘違いをして家を飛び出してきたことを思い出し、春人は屋上での出来事を誤魔化すように頬を掻いた。
「佐久間さんに口説かれた君に口説いてもらおうと思って」
とサラリと言ったアルバートに春人は足を止めてしまう。
「佐久間さんが僕を好きなの知っていたの?!」
驚愕で大きくなった声。
慌てて周りを確認する。キョロキョロする春人にアルバートは「知っていたよ」と言いながら踵を返した。
その余裕を感じさせる背中にやられた気分になる。
「もー! 知ってるなら教えてよ!」
「佐久間さんには佐久間さんのタイミングがある」
「いつから知っていたの?!」
「……確か、君が彼と福岡空港支社に派遣された時だ」
春人は怪訝な表情をアルバートに向けた。
その時から佐久間の気持ちを知っていたというのなら、自分の恋人は一体どういう気持ちで春人から告げられる佐久間に関する話題に耳を傾けていたのだろうか。
「僕がとられないと思ってた?」
その疑問にアルバートはすぐに返事をしない。しばらく考えたのち「まさか」と冷静に答え、自身の考えを述べた。
「春人は浮気などしない。私は恋人を信じた……それだけだよ」
と、ポーカーフェイスでその奥に隠れた本心を隠した。
(本当は、不安で仕方がなかった。しかし、それが知られれば彼に幼稚だと呆れられるかもしれない。何よりあのキスマークが愛嬌のある独占欲からとんでもない嫉妬の塊に顔を変えてしまう)
それだけは隠しておきたかった。
それにこれが知られれば、何食わぬ顔で迎えに来た今の本当の意味も知られてしまう。
そしてアルバートの思惑に見事嵌った春人は「大人の余裕ってやつ?」と不服そうにぼやいた。
ようやく震えていた手も止まる。
「そういえば佐久間さんからアルバートに伝言」
春人から伝言の内容を聞き、震えの止まった手が握りこぶしを作る。
「そうか。わかった」
「それだけ?!」
「逆に聞くが、君は佐久間さんに奪われる気でいるのか?」
上手いこと話をすり替えるのは誰かとそっくりだ。
「そんなわけないじゃん! 佐久間さんにも言ったけど僕はアルバートが好きだからどこにも行ったりしません!」
はっきり告げられ一瞬だけ光が見える。それでも自分と似た様な仕事の仕方をする男に油断はできない。
「そんなに心配なら僕がどれだけアルバートを好きか本当に口説こうか?」
「いや、もう十分口説かれた」
「え? いつ?」
数秒前の告白を忘れているのか、それとも彼にとってはそれが当たり前の事なのか……どちらにしても……
「もう一度口説いてくれるというのなら、君の部屋でゆっくり聞くよ」
と家の鍵を春人の目の前で揺らした。
「一連の騒動でまだキスすらできていないから、もう限界だ」
と腰に手を回し囁くアルバートに春人は何も言わず、家路を行く足を速めた。
勿論その後は何度も身体を重ね、ようやくお互いの体温を交換することができた。
そしてその晩は背中を向けず、アルバートの胸の中で春人は眠りに落ちていった。アルバートが「おやすみ」と撫でてくれる背中に前回よりも大量の花が咲いている事にも気づかず。
◇ ◇ ◇
そして翌日──再びおとずれた帰国のとき。
アルバートを空港まで見送りに行く春人が目を見開く。
「僕、村崎部長に助けて貰ったの?!」
「ああ。覚えていなくとも礼をしておいた方がいいだろう」
あの日の事を必死に思い出そうとするも、自分が勘違いした光景しか思い出せない。そしてその前の肝心な事も忘れていた。
「ちょっと相談があるんだけど」
「どうかした?」
「……田中部長に化学事業部に来ないかって言われたんだ」
さほど驚いた様子を見せないアルバートに春人は助けを求めた。
「認められている証拠だな」
「それは嬉しいけど、僕は異動したくない」
「断ったらいいではないか」
「日本人はそう簡単にいかないの! それに……村崎部長に迷惑がかかるかもしれない」
春人は田中に言われた事を全てアルバートに話した。
「どうしたらいいのかな」
「村崎さんも年齢でいうと若い方だから分が悪いな」
顎に手をやり本気で悩む。しかし悩みを相談してきた本人は既に他の事に意識を持っていかれていた。
「保安検査場、通れるみたいだよ」
力のない声は、消えてしまいそうだ。
電子掲示板を見つめる春人の頭を撫でる。そし椅子の方を向かせる。
「まだ時間はある。座ろうか」
「……うん」
誘われるがまま椅子に腰をかけ無言の春人は椅子同士を繋ぐ金具の上で指を弄ぶ。
そこへグレーのハンカチがふわりと被さる。
横を見上げると、被せた本人は前を見ていた。
何が起こっているか分からない春人はハンカチを退かそうと指を引くが、ハンカチの中でギュッと大きな手に捕らえられてしまう。
「?!」
アルバートは微動だにせずただ前だけを見ていた。しかし口だけが小さく「これならバレないよ」と動く。
春人も真似をしてポーカーフェイスを気取ろうとしたが、それは叶わなかった。
(だ……だめぇ……)
アルバートの骨格の良い骨ばった指が、春人の手の甲を撫でる。そして指先を絡ませあう。最初は指先だけ、徐々に関節を一つ、二つと通り過ぎ、指間の窪みをクイクイと優しく押してくる。波打つように柔らかい動きは、蜜壺を刺激する動きと同じ。指を足に見立て、窪みは春人の熱い下腹部、そこをイかせんばかりに撫で上げる。
「……」
真っ赤になりながら俯く事しかできない。
ただ指を絡めているだけなのに、公然で行為に及んでいる気分だ。
「んっ」
と頬を染め必死に耐える春人。
アルバートは時間が許すかぎり健全に見える愛撫を施した。その間も崩れぬ表情に春人は悔しくなり、やり返そうと指を動かすが結局彼に犯される。
そして段々弱まり、今度は動物の親子が身体を擦り合わせる様に愛おしそうに指を撫でる。
その動きも止まり、「そろそろ行かなければ」と離れて行く。
「うん」
と言いながらも、春人は離れる指を強く握って離さない。しかし、無残なアナウンスにとうとう離す時が来た。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
いつもの別れの言葉を合図に、手品の様にハンカチの下から恋人達の手は消える。
何事も無い風にハンカチを畳むアルバートに春人は今回も弱音を吐けなかった。
(寂しいな)
俯き、表情を隠す。
それを見下ろすアルバートは、大人の余裕に見せかけた独占欲を背中と、そして今回は手に刻み込んだ。
別れの間際まで自分の存在を恋人の身体に教え込ませた。
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