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第ハ章 Invite
第五話 売られた誘いは買う
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自分の匂いがする布団というのは1日の疲れを取るにはもってこいだ。自分しかいないテリトリーで無防備な状態を晒せる。そしてそこに恋人の匂いが混ざればなおさら。目覚めは最高のものとなる。
春人も、そんな気持ちで目が覚めたのに、いざ現実に戻ると、文字通り夢から覚めた気分を味わった。
いつもなら春人を抱きしめて眠る大きな身体は、今日は壁でも作るかのように背中を向けている。
昨夜、この背中を見た時は、その腕の中に自分以外の男がいた。
——ズキリ
シーツに顔を押し付けると、目元が触れている場所に染みができる。摩擦で熱くなるほど拭い、起き上がることなくゆっくり横ばいで背中に近づく。
額をくっつけ、そこから伝わる熱はいつもと変わらない温度。春人の知っている温度なのに、それが自分だけのものではなかったと知り、心は冷めていくばかり。
(やっぱり佐久間さんを狙ってたのかな?)
佐久間をやたら気にしていたアルバート。
春人はそれに不信感を抱きつつも、勘違いだと言い聞かせていた。
だが、昨日の光景で答えが出た。
(アルバートは佐久間さんが好き)
グッと額を押し付ける。
「んっ」
見つめていたアルバートの背中が動き、春人は慌てて身を引いた。
「……」
「……アル?」
反応はない。
しばらくするとまた動き、春人の方へ寝返りをうった。目の前に端正な寝顔が現れて、優しく腕の中に閉じ込められる。
しかし、春人の頭上では低い寝息が聞こえる。
(寝てるのかな……)
だが、まるで起きているかのように春人を抱き寄せた手が後頭部にあてがわれ髪の感触を楽しみだす。そして何度か撫でつけた後、その動きは止まった。
そして低かった寝息が、細くなり重みがなくなる。
一定のリズムを刻む胸に顔を埋める。そして「アルバート」と言うと、胸の筋肉がビクンと動いた。
「んん……」
頭上を見上げると、片目だけ薄く開いたアルバート。視界がぼやけ、焦点を合わせようと眉間に皺を寄せる。
そしてぼやけた視界で揺れる黒い何かが春人の頭髪だと気が付き目を見開いた。
「ッ?!」
春人を抱き締めていた腕がパッと離れ、敵意がない事を示すかのように顔の横で掌を春人に向ける。
そして身体を起こし、その大きな手で寝起きの顔を覆うアルバート。
「すまない、つい癖で。嫌がると思って昨夜は背中を向けて寝たのだが……」
参ったなと、首を横に振るアルバートの言っていることが本当なのは先に起きていた春人には分かっている。
しかし彼の慌てぶりに驚く春人を見て、信じて貰えていないと思っているアルバートは「言い訳がましいが、本当だ」と続ける。
そして背中を向けてしまった大きな身体に春人は身を預ける。
「春人?」
そして意を決して尋ねた。
「……アルは僕と佐久間さん、どっちが好きなの?」
アルバートはまだ勘違いをし続ける春人を今度は意識的に抱き締めた。
「勘違いしないでほしい。私が愛しているのは春人だけだ。昨日の件は不慮の事故だ。佐久間さんは体調を崩し、それを私が支えた」
「……本当に? 僕に飽きたんじゃなくて?」
「君はそんなに自分に自信がないのかい?」
「だって佐久間さんの方が仕事もできるし、趣味もあいそう。それに大人だし」
「それ以上に春人は魅力的だ」
「でも佐久間さんだって……」
アルバートの読みは当たっていた。春人は佐久間に対して尊敬の念が強く、本心に気づいていない。これではいくら佐久間の想いをアルバートが説明しても信じなかっただろう。
「確かに彼は仕事上ではよくできた人間かもしれない。だが仕事は所詮仕事だ。私は春人をライフスタイル全てにおいて欲している。君のいない世界なんてありえないのだ」
そう言われても春人は信じられなかった。アルバートの説得は薄っぺらく聞こえる。言葉巧みに日本語を操る色男に口説かれている気分だ。
それだけ昨日の光景は春人の脳裏に鮮明に焼き付き心を蝕んでいる。
しかし絶対に蝕まれないものがある。
それは春人がまだアルバートを好きだという事だ。その気持ちだけが、彼を信じようと必死に戦う。
「……分かった」
目を伏せ、アルバートを見ずに言う。
「信じているならこちらを向いて欲しい」
「……」
「私を見て。君だけの私をしっかり見てくれ」
大好きな低い声。それは春人だけの物と言ってくる。その声に誘われ、ゆっくり視線を上げた。
降り注ぐ慈愛に満ちた水色の視線。いつもなら吸い込まれるようにキスをしていた。
でも今は、その瞳も唇も知らない別人の部位に見えて、この距離感が恐ろしかった。
その見知らぬ唇が開く。
「信じて春人。私が愛しているのは君だけだ」
どうしても薄っぺらく聞こえてしまう。
言われれば言われるほど、人を馬鹿にしたように聞こえ、春人はアルバートの胸を押し退けた。
「信じ……られないよ」
「どうして」
「アルはモテる。僕じゃなくても相手にしてくれる男なんてたくさんいるよ」
不安はありもしない妄想へ春人を誘う。
「僕は日本にいる時だけの恋人なんじゃないの? イギリスには別にいて、日本でも僕が無理なら他の人なんじゃないの?」
「そのような不貞行為、絶対にありえない」
「でも昨日佐久間さんと!」
「だからあれは違う」
「でも……でも……」
向けられる漆黒の瞳は押し寄せる不安に揺れ、居場所を失いかけている。言葉も失い、春人は足を抱え、項垂れた。
アルバートもこれ以上は影を落とすだけだと口を噤むことしか出来ない。
——ブー、ブー
春人のポケットが震える。力なく手を入れ、スマートフォンを取り出す。
画面を見た目が見開かれ、悔しそうにアルバートに向けられる。
そして黙って端末をアルバートに差し出した。
「君にだ」
「アルバートにだよ」
画面には「佐久間仁」の文字。
「早く出なよ」
「佐久間さんは春人にかけてきている。それに私が彼と話すことは何もない」
アルバートは受け取る振りをして受話ボタンをタップし、無理矢理春人の耳に当てた。
「……もしもし」
『もしもし。今大丈夫?』
「はい」
『……ミラーさんも一緒?』
春人は「やっぱり」と無音で口を動かしアルバートを睨み付けた。当の本人は「勘違いだよ」と首を横に振っている。
「いますよ。僕の家にいます」
『そっか。ちゃんと家に連れて帰ってくれたんだね』
佐久間の心配は出て行った春人の状況だった。アルバートが一緒に居る事で、無事に見つけて貰えたと一安心するため息が聞こえる。
『月嶋君。もしよかったら今から会えない? 話があるんだ』
「電話じゃ駄目なんですか?」
『電話じゃ無理。俺は君ときちんと話したい』
「分かりました」
時間と場所を決め、春人は身支度を整える。
今まで優しかった先輩が、春人の中で別の存在になっていく。
(アルバートを頂戴とかかな?)
臨戦態勢に入る春人。
「……ちょっと出かけてくる」
「どこへ?」
「佐久間さんの所」
「家に行くのか?」
「違う。会社で会う。佐久間さん休日出勤しているらしいから」
トントンと強くつま先を打ち、靴を履く春人の瞳は燃えている。
「一緒に行こうか?」
「どうして? 佐久間さんに会いたいの?」
「そうではない」
いつまで明確な事を言わないアルバートに、短くなっている気が刺激される。
「別に教えてくれなくてもいいですよーだ! 言っとくけど、もしアルが佐久間さん好きでも、佐久間さんがアルを欲しがってもあげないから!」
咎める様な厳しい目つきがアルバートを刺し、人差し指がビシッと向けられる。
そして深呼吸した春人が
「今度は僕がアルバートを口説いて振り向かせてやる!」
と、威勢よく言い放ち、扉を開け颯爽と部屋を出て行った。
そのあまりの勘違いと剣幕にアルバートは「気をつけて」という言葉すらかけられなかった。
「告白する気だろうな」
アルバートは佐久間が最終的にミネラルウォーターを受け取った事で確信していた——春人に告白をすると。
(助言をないがしろにするほど、佐久間さんも落ちぶれてはいないだろう。彼ならきっと私の言った意味を理解してくれている)
まさかここまではやく決断したのは予想外だったが、遅かれ早かれこうなる事は目に見えていた。
(これで春人の誤解も解けるだろうし、何より春人が佐久間さんを警戒するようになるかもしれない)
そうポジティブに捉えていたのに、いざその時が来ると落ち着かない。
「迎えに行くと嫌がるだろうか」
もし、春人が佐久間を受け入れてしまったら……
そんな不安に駆られ、玄関とリビングを行ったり来たりする。
時間が過ぎれば過ぎるほど不安は大きくなり、とうとう……
疑心暗鬼を生んだ春人の家からは誰もいなくなった。
春人も、そんな気持ちで目が覚めたのに、いざ現実に戻ると、文字通り夢から覚めた気分を味わった。
いつもなら春人を抱きしめて眠る大きな身体は、今日は壁でも作るかのように背中を向けている。
昨夜、この背中を見た時は、その腕の中に自分以外の男がいた。
——ズキリ
シーツに顔を押し付けると、目元が触れている場所に染みができる。摩擦で熱くなるほど拭い、起き上がることなくゆっくり横ばいで背中に近づく。
額をくっつけ、そこから伝わる熱はいつもと変わらない温度。春人の知っている温度なのに、それが自分だけのものではなかったと知り、心は冷めていくばかり。
(やっぱり佐久間さんを狙ってたのかな?)
佐久間をやたら気にしていたアルバート。
春人はそれに不信感を抱きつつも、勘違いだと言い聞かせていた。
だが、昨日の光景で答えが出た。
(アルバートは佐久間さんが好き)
グッと額を押し付ける。
「んっ」
見つめていたアルバートの背中が動き、春人は慌てて身を引いた。
「……」
「……アル?」
反応はない。
しばらくするとまた動き、春人の方へ寝返りをうった。目の前に端正な寝顔が現れて、優しく腕の中に閉じ込められる。
しかし、春人の頭上では低い寝息が聞こえる。
(寝てるのかな……)
だが、まるで起きているかのように春人を抱き寄せた手が後頭部にあてがわれ髪の感触を楽しみだす。そして何度か撫でつけた後、その動きは止まった。
そして低かった寝息が、細くなり重みがなくなる。
一定のリズムを刻む胸に顔を埋める。そして「アルバート」と言うと、胸の筋肉がビクンと動いた。
「んん……」
頭上を見上げると、片目だけ薄く開いたアルバート。視界がぼやけ、焦点を合わせようと眉間に皺を寄せる。
そしてぼやけた視界で揺れる黒い何かが春人の頭髪だと気が付き目を見開いた。
「ッ?!」
春人を抱き締めていた腕がパッと離れ、敵意がない事を示すかのように顔の横で掌を春人に向ける。
そして身体を起こし、その大きな手で寝起きの顔を覆うアルバート。
「すまない、つい癖で。嫌がると思って昨夜は背中を向けて寝たのだが……」
参ったなと、首を横に振るアルバートの言っていることが本当なのは先に起きていた春人には分かっている。
しかし彼の慌てぶりに驚く春人を見て、信じて貰えていないと思っているアルバートは「言い訳がましいが、本当だ」と続ける。
そして背中を向けてしまった大きな身体に春人は身を預ける。
「春人?」
そして意を決して尋ねた。
「……アルは僕と佐久間さん、どっちが好きなの?」
アルバートはまだ勘違いをし続ける春人を今度は意識的に抱き締めた。
「勘違いしないでほしい。私が愛しているのは春人だけだ。昨日の件は不慮の事故だ。佐久間さんは体調を崩し、それを私が支えた」
「……本当に? 僕に飽きたんじゃなくて?」
「君はそんなに自分に自信がないのかい?」
「だって佐久間さんの方が仕事もできるし、趣味もあいそう。それに大人だし」
「それ以上に春人は魅力的だ」
「でも佐久間さんだって……」
アルバートの読みは当たっていた。春人は佐久間に対して尊敬の念が強く、本心に気づいていない。これではいくら佐久間の想いをアルバートが説明しても信じなかっただろう。
「確かに彼は仕事上ではよくできた人間かもしれない。だが仕事は所詮仕事だ。私は春人をライフスタイル全てにおいて欲している。君のいない世界なんてありえないのだ」
そう言われても春人は信じられなかった。アルバートの説得は薄っぺらく聞こえる。言葉巧みに日本語を操る色男に口説かれている気分だ。
それだけ昨日の光景は春人の脳裏に鮮明に焼き付き心を蝕んでいる。
しかし絶対に蝕まれないものがある。
それは春人がまだアルバートを好きだという事だ。その気持ちだけが、彼を信じようと必死に戦う。
「……分かった」
目を伏せ、アルバートを見ずに言う。
「信じているならこちらを向いて欲しい」
「……」
「私を見て。君だけの私をしっかり見てくれ」
大好きな低い声。それは春人だけの物と言ってくる。その声に誘われ、ゆっくり視線を上げた。
降り注ぐ慈愛に満ちた水色の視線。いつもなら吸い込まれるようにキスをしていた。
でも今は、その瞳も唇も知らない別人の部位に見えて、この距離感が恐ろしかった。
その見知らぬ唇が開く。
「信じて春人。私が愛しているのは君だけだ」
どうしても薄っぺらく聞こえてしまう。
言われれば言われるほど、人を馬鹿にしたように聞こえ、春人はアルバートの胸を押し退けた。
「信じ……られないよ」
「どうして」
「アルはモテる。僕じゃなくても相手にしてくれる男なんてたくさんいるよ」
不安はありもしない妄想へ春人を誘う。
「僕は日本にいる時だけの恋人なんじゃないの? イギリスには別にいて、日本でも僕が無理なら他の人なんじゃないの?」
「そのような不貞行為、絶対にありえない」
「でも昨日佐久間さんと!」
「だからあれは違う」
「でも……でも……」
向けられる漆黒の瞳は押し寄せる不安に揺れ、居場所を失いかけている。言葉も失い、春人は足を抱え、項垂れた。
アルバートもこれ以上は影を落とすだけだと口を噤むことしか出来ない。
——ブー、ブー
春人のポケットが震える。力なく手を入れ、スマートフォンを取り出す。
画面を見た目が見開かれ、悔しそうにアルバートに向けられる。
そして黙って端末をアルバートに差し出した。
「君にだ」
「アルバートにだよ」
画面には「佐久間仁」の文字。
「早く出なよ」
「佐久間さんは春人にかけてきている。それに私が彼と話すことは何もない」
アルバートは受け取る振りをして受話ボタンをタップし、無理矢理春人の耳に当てた。
「……もしもし」
『もしもし。今大丈夫?』
「はい」
『……ミラーさんも一緒?』
春人は「やっぱり」と無音で口を動かしアルバートを睨み付けた。当の本人は「勘違いだよ」と首を横に振っている。
「いますよ。僕の家にいます」
『そっか。ちゃんと家に連れて帰ってくれたんだね』
佐久間の心配は出て行った春人の状況だった。アルバートが一緒に居る事で、無事に見つけて貰えたと一安心するため息が聞こえる。
『月嶋君。もしよかったら今から会えない? 話があるんだ』
「電話じゃ駄目なんですか?」
『電話じゃ無理。俺は君ときちんと話したい』
「分かりました」
時間と場所を決め、春人は身支度を整える。
今まで優しかった先輩が、春人の中で別の存在になっていく。
(アルバートを頂戴とかかな?)
臨戦態勢に入る春人。
「……ちょっと出かけてくる」
「どこへ?」
「佐久間さんの所」
「家に行くのか?」
「違う。会社で会う。佐久間さん休日出勤しているらしいから」
トントンと強くつま先を打ち、靴を履く春人の瞳は燃えている。
「一緒に行こうか?」
「どうして? 佐久間さんに会いたいの?」
「そうではない」
いつまで明確な事を言わないアルバートに、短くなっている気が刺激される。
「別に教えてくれなくてもいいですよーだ! 言っとくけど、もしアルが佐久間さん好きでも、佐久間さんがアルを欲しがってもあげないから!」
咎める様な厳しい目つきがアルバートを刺し、人差し指がビシッと向けられる。
そして深呼吸した春人が
「今度は僕がアルバートを口説いて振り向かせてやる!」
と、威勢よく言い放ち、扉を開け颯爽と部屋を出て行った。
そのあまりの勘違いと剣幕にアルバートは「気をつけて」という言葉すらかけられなかった。
「告白する気だろうな」
アルバートは佐久間が最終的にミネラルウォーターを受け取った事で確信していた——春人に告白をすると。
(助言をないがしろにするほど、佐久間さんも落ちぶれてはいないだろう。彼ならきっと私の言った意味を理解してくれている)
まさかここまではやく決断したのは予想外だったが、遅かれ早かれこうなる事は目に見えていた。
(これで春人の誤解も解けるだろうし、何より春人が佐久間さんを警戒するようになるかもしれない)
そうポジティブに捉えていたのに、いざその時が来ると落ち着かない。
「迎えに行くと嫌がるだろうか」
もし、春人が佐久間を受け入れてしまったら……
そんな不安に駆られ、玄関とリビングを行ったり来たりする。
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疑心暗鬼を生んだ春人の家からは誰もいなくなった。
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