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第十二章 Major Strategy
第五話 ホラー大作戦
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村崎親子と別れた後、アルバートは「では、行こうか」とショッピングモール内に足を向けた。
「どこ行くの?」
「書店に」
「書店?」
「もともと本を買いに来ていたのだが、そこで不審なパーカーの男性に会ってね」
「まさか、村崎部長?」
「ああ。目的のものを買わずに書店を出てしまったのだ」
「そうだったんだ。最初から村崎部長といたわけじゃないんだね!」
「もし今日のが計画性のあるものなら私も君が見た事ない様な格好でここにいただろうね」
村崎のパーカー姿を思い出し、春人がクスリと笑う。
「村崎部長の変装すごかったね!」
「あれはもう2度と見られないだろうな。しかしあの優しさがあるからこそ、部下にも懇切丁寧な彼がいるのだろうな。ストーカーはあまり褒められないが」
「それ自分の事言ってる?」
「耳が痛いな。あれに乗ろうか」
アルバートが指さした先には、二階へ行くエスカレーター。それを見つけ春人は足を速め、アルバートの前を行く。そうなると必然的に先に乗るのは春人で、アルバートもこれはいつもの事なので微笑ましくみていた。
エスカレーターは春人にとって期間限定の幸せを与えてくれる機械なのだ。
乗ってすぐにくクルリと振り向いてくる春人は満面の笑みだ。高さが上がるにつれてどんどん嬉しそうな顔になる。
「今なら僕もアルと同じ背だね!」
なんて無邪気に言う。確かに1段20cmほどの高さがあるエスカレーターの前に乗れば背丈はほぼ同じにはなる。しかしまだアルバートの方が高く「あと、少しで抜けるところだったのに、残念だったな」と意地悪に言うと、目の前の恋人は必死に背伸びをする。
「んんっ、勝った!」
筋を引きつらせながら背伸びをした春人だったが、ちょうど終着点が近くなり、ゆっくりとアルバートの視界から下の方へと消えていく。
残念そうな顔をしている春人が完全に消えてしまう直前、彼の身体がグラッと揺れた。
「うわっ!! ……おっとと」
春人がエスカレーターの終着点、つまり〈くし〉の部分に踵があたり後ろに倒れそうになったが、なんとかバランスを保ち、恥ずかしそうに顔を赤くした。俯く春人の背中を撫で、細く微笑みながらアルバートは幸せを噛みしめるように二階フロアを歩いた。
書店で『赤と黒』の下巻を買い、料理本コーナーでソワソワしている春人に声をかける。
「何だかデジャブだな」
「え?」
「君と同じ場所で挙動不審な村崎さんを見つけたから」
最後に料理本コーナーを一瞥して書店を出る。
そして今度は逆にエスカレーターを下りるのだが、この時は率先してアルバートが先に乗る。
目の前のプラチナブロンドをツンツンしながら春人は「いつも思ってたけど、下りる時、気を遣ってくれている?」と尋ねた。振り向いた水色の瞳はいつもと変わらぬ色で「無意識だ」と言いたげだった。
「考えた事なかったな」
「そうなの? 僕はてっきり身長遊びに付き合ってくれてるのかと」
「あれはヒールを履いた女性がもし転けた場合の事を想定しているのだ」
「僕、男なんですけど!」
「ああ、そうだな。それに君の場合は前に乗った方が安全そうだ。」
「もぉーさっきの忘れてよ! あっでもさ、スカート履いてる女性だったらどうするの? 上りだと中身見えちゃうよ?」
先程の忘れてほしい事柄のことはすっかり本人の頭から抜け落ちたのかニヤニヤとした顔で聞いてくる。
「そういう時は「お先に失礼」と言って先に乗るといいよ。」
「へぇ」
アルバートの真面目かつ紳士的な回答に、春人は不満げな声を漏らした。
「そもそも女性の下着など見てどうするのだ。それなら君のを見るよ」
そして、意図も簡単に唇を春人の耳に寄せ「今夜もね」と囁き、低い声を微かに残しながら再び30センチの距離ができた。
「エッチ……」
というぼやきは小さすぎて30センチには届かなかった。
「予定より早いけどどうする?」
「桜ちゃんと会ってから、一度家に帰って、準備してアルの家に行くつもりだったんだ。だから一回帰る。で、直ぐに行くよ」
「ずっと思っていたのだが、着替えをうちに置いておけばいいではないか」
自動ドアを超え、全身に秋風を浴びた春人が身震いしながら「ダメ」という。
春人は着替えを絶対にアルバートの家に置かない。そのせいでこの前のあられもない姿を見るに至ったのだが、どうして置かないのかずっと気になっていた。
「とりあえず一回帰るね」
と理由は言わずに、自分の家の方へ駆けていった。
その後、準備を済ませたであろう春人がアルバートの家のインターホンを鳴らす。ドアを開けると、そこには何かを企んでいるような日本人の恋人が立っており、アルバートは気を引き締めた。お菓子を作ってくれるなど嬉しい事を考えてくれる一方、予測不能な事をするのも春人の特技だ。今日も何かあるなと予感したアルバートだったが、ポーカーフェイスを気取って彼を中にいれた。
「ところで何故、インターフォンを鳴らしたのだ?」
「え? 何故っていっつも押すじゃん」
「うちの鍵を持っているだろ?」
廊下で春人の足が止まる。
「ごめん……」
謝罪の言葉を述べた春人に、アルバートは不思議な顔を向ける。
「どうして?」
「だって……まだ、返してないから」
「返す? 鍵をか?」
「うん。合鍵貰った気分で嬉しくて返さずに持ってたの。アルも何も言わないから。でも使っちゃうと返すように言われるのも嫌だったから……」
もう一度「ごめん」と言った春人がポケットから直ぐに鍵を取り出した。差し出されたその手にアルバートは自分の手を重ねる。そして大切そうに包み込み、春人に押し返した。
「合鍵だ」
春人が潤んだ瞳を上げる。
「それは合鍵だ。そのつもりで渡したはずだったのだが、言葉足らずだったようだ」
「いいの?」
「勿論だ」
「でも、合鍵なんて渡したら、僕勝手にきちゃうよ?」
「構わないよ。いつでもおいで」
「アルが家に帰ったらベッドにいるかもしれないよ?」
「最高ではないか」
「本当にいいの? 疲れてるときに恋人いたり、勝手に泊まったりしたら邪魔じゃないの?」
「なるほど、それで君は着替えをうちに置かないのか」
「アルの迷惑にはなりたくないから」
アルバートは俯いた春人を優しく抱き締める。
「迷惑なんて一つもない。だからいつでもおいで」
小さな身体は少しづつ温かくなり、胸に擦りつけながら首を縦に振った。可愛らしいその姿に、微笑ましくなるアルバートだが、肝心の企む顔の理由がまだ分からない。
「春人、何か隠してる?」
と直球で尋ねれば、いつもは肩を震わせるのに、今日は意地悪な笑みを浮かべた顔が返ってきた。
「隠してる!」
「今日は素直だな」
「僕を尾行なんてするからだよ! スイーツ大作戦がバレたからお仕置だよ!」
プライベート用のお洒落なメンズリュックをガサゴソさせた春人が何かを取り出した。
薄いプラスチックのケースに黄色のラインが入っている。
「DVD!!!」
「買ったのか?」
その割には少しケースの色がくすんでいるし、パッケージなどもない。
「借りてきたの!」
「何を?」
「ふっふっふっ。紳士なアルも僕に抱きつきたくなるようなDVDだよ!」
「抱きしめてもいいなら、いつでも抱きしめるが?」
「そうじゃなーい! アルが悲鳴を上げながら僕に抱きつくの!」
「私が? 悲鳴?」
「ホラー映画なの!」
「ほら、映画?」
「ほら、じゃない! ホラー! Horror!!」
春人が綺麗に発音をすると、アルバートも合点がいったという表情になるが、春人が望むような恐怖を浮かべたものではない。
「今に見てろー!」と意気込む春人はさっそくDVDをセットした。そして準備よくポップコーンとジュースまで用意して、二人でソファーに肩を並べる。
「アル、覚悟してね!」
長い広告の後、本編がスタートする。
これを提案した春人は徐々に肩幅を狭くしていたが、アルバートは眉間にシワを寄せていた。
(これが……私が悲鳴をあげるようなホラーなのだろうか? いや、もしかするとここからが恐怖の始まりなのかもしれない)
アルバートの視界には白いワンピースを着た髪の長い女が急に画面の端に現れたり、主人公達を追いかけたりを繰り返している。
(確かにこの淑女、顔色が悪いため少し不気味だが、せめてその長い前髪は切るべきではないだろうか。視界が悪くならないか? でもきっとこれが日本のホラーなのだろう)
アルバートが横目で確認すると、春人は時折身体を震わせている。いつのまにか三角座りをしてソファーで身体を小さく丸めていた。
(あっ、口が開いている)
怖がる割に見入っているようで口がポカンと開いている。そこにポップコーンを1つ入れると……
ビクンッ!!
「ひゃっ!!」
「おっと」
アルバートは驚いた春人に危うく指を噛まれるところだった。
「な、な、は、な、なに?!」
「大丈夫だろうか?」
「何が?!」
「とても怖がっているように見えるが……やめておくか?」
「だ、大丈夫だよ! アルこそ怖いんじゃないの?!」
「いや、問題ない」
春人は全く恐れをなしていないアルバートの反応に予想外といった表情を浮かべる。
だが、これはチャンスだと思った。
「じゃ、もう見るのやめる?」
「この後の展開は気になるので最後まで見るつもりだ」
「そ、そう」
春人は目尻を下げて、身震いをすると、再び視線をテレビに戻した。
(やはり怖くて見るのをやめたいのではないだろうか)
「春人、怖いなら無理に見る必要は……」
「大丈夫だよ! よし、ほら! そろそろまた出てくるよ……うわぁぁぁぁっ!!!!」
春人の言った通り、画面いっぱいに顔色の悪い女の顔が映し出される。
──ギュウ
春人は汗ばんだ手でアルバートの手を握った。言葉とのあまりの差に、苦笑いをしたアルバートはその手を握り返す。しかし、本人は気づいていない。無意識に握るくらい怖いなら止めればいいのにとも思うが、これはこれで悪くないので、怖がる春人を楽しむ。
——ギュッ
——ビクン
——ギュッ
——ビクン
画面を見ずともホラーな場面は春人の身体が教えてくれる。
「ひえ……」
春人の手が離れ、画面からは視線を逸らさず指で辿りながらアルバートの腕を上る。
——ギュウッ
今度は二の腕に強く抱きついた春人。それもそのはずだ。映像は絶対に何かが起こると予感させる真っ暗なトンネルを映していた。
「えっ、ダメだよ、そんなとこ入っちゃ……」
複数の男女が車でトンネルに入っていき、車が急に止まり車内の男女が焦りだす。
『ドンッ!!』
「ひっ!」
車に何かが衝突した音とほんの少しずれて春人が悲鳴を短く上げる。
車の天井を見上げオドオドする男女が映し出されると、次のホラーシーンに備えてか、春人が膝に乗る猫のように四つん這いになりながらアルバートの膝に乗った。
アルバートの視界は黒髪でいっぱいになり、一応声をかけたが、本人は振り向かない。
『ドンドンドンドン!!!!!』
「ひやぁ!!!」
車の天井から大きな音が複数して助手席の男が車から降りて逃げていく。
——ギュッ
とアルバートの胸ぐらあたりを掴み、震える春人。
「やだやだやだ……」
顔をアルバートの胸に埋めて、しばらくするとゆっくりテレビ画面の方に視線を戻す。
画面は車内に残った男女3人が会話をするシーンだ。このあとどうするか話し合っている。助手席の男を助けに行くか、3人で帰るか。
「帰ったほうがいいよ。ねえ?」
「そうだな」
アルバートにはそんなことはどうでもよかった。
(わざとでは?)
映画のフラグが立つような演出も、春人の仕草も計算されているとしか思えない。本来の尾行の仕返しはこれではないのかと思うほど、映画の内容に合いもしない可愛らしい生き物がいる。
——ビクンッ
春人がまた反応する。
トンネルの奥から、助手席から逃げた男が走って戻ってきていた。その背後には無数の青白い手が彼をトンネルの奥に引きずり込もうと男を追いかけている。
「うわぁ」
助手席の男と追いかける無数の手から逃げるように車が急発進してトンネルの出口へ向かう。
——バンバンバン
春人が来るぞ来るぞと言わんばかりにアルバートの胸を叩く。
しかし無事にトンネルを抜けた男女は山道を車で下山していく。
その時、後部座席の女がおもむろに口を開いた。
『ねぇ? 私の足……みて』
画面いっぱいに後部座席の女の顔、そして、他2人の不安げな瞳がアップで映り、その瞳が下がれば、コマ展開も徐々に女の足の方へ映像が変わっていく。
そして……複数の青白い手が足首を掴んでいた。
——ギュッ
アルバートも膝の上に乗る春人の足首を掴む。
「うわぁぁぁ‼ やだやだやだ、死にたくない‼ って、アル‼」
パッと足首から手を離す。
ようやくアルバートの膝から降りた春人は冷や汗にまみれていた。ソファーに座るアルバートを怒りと恐怖に満ちた目で見下ろしている。
「どさくさに紛れて何してるの! 僕を膝に乗せたり、足首掴んだりして!」
「足首を握ったのはわざとだが、膝に乗ってきたのは君だ」
「う、嘘だ!」
「嘘ではない……あっ」
アルバートは映画が最後のオチを映し出したため思わず声を出してしまった。その声と視線に春人は反射的に振り向いてしまい「ひやぁ!」と声をだしてアルバートに抱き着いた。
ちょうど車が崖から落ち、薄れゆく意識の中で画面が暗くなるかと思いきや、主人公のいつもより半分になった視界に映画の序盤から何度も登場している青白い女が映りこんだのだ。
「むっ。すまない」
「すまないじゃないよー!」
「やはり怖かったのだな」
「怖くないもん! 面白かったし!」
「しかしこれで君が私の膝に乗っていた事は証明されたな」
微笑むアルバートの膝の上で春人が恥ずかしそうに頬を膨らます。そこにキスをして「可愛かったよ。充分楽しませてもらった」と感想を述べた。
「どうせ怖くなかったんでしょ」
DVDの内容を全力で怖がった男はデッキからケースにすばやく戻し、まるで封印するかのように力を込めてケースを閉める。
「不気味ではあったな」
「怖くなかったの?」
「あまり。あの様に顔色の悪い淑女が出てきたり、手に追いかけられるのは勘弁だが」
「そ、そっかぁ」
「そんなに驚かせたかったのか?」
「うん。だってアルのそんな所見たことないし」
「しかし、驚かせるなら別にホラー映画でなくても良いのでは?」
「ほら、この前映画観に行こうとしたじゃん? 結局アルの老眼鏡買った時!」
脅かした仕返しに老眼鏡を強調する。
「あの時観たかったやつなの!」
「しかし新作のDVDにしてはケースがくすんでいるな」
「これは昔のだよ。映画はリメイク版なんだ!」
「君がホラー映画が好きだなんて初めて知ったよ」
「好きじゃない」
「なに? ならばなぜ……」
「だーかーらー! さっきから言ってるじゃん、驚かせたかったの!」
「その割には犠牲がデカすぎやしないか?」
「でもたまにはさ……アルが僕を頼ってギュッてしてるところもみたいもん」
春人は照れた声を出し、それを隠すかのように背を向けた。
(ああ、やはり君は可愛い)
もっともっとお互いの色々な姿を見ようと模索する姿が愛しくて、抱きしめたくなり、アルバートは春人の背中に腕を広げ、そして包み込んだ。
しかし……
「うわぁぁぁぁ!!!!」
映画の余韻が悪い意味で残っていたようで愛は意図も簡単に跳ね除けられ、春人は今までに見た事もない力でアルバートを突き飛ばした。
その後、何度も謝る春人と食事をとり、ホラーの異文化に花を咲かせた。
「ゾンビやスプラッタ系の方が怖いな」
「日本ではあまり見ないかも……でも最近若い子に流行ってる」
「だが、それも同じ人間同士のスプラッタ系だろ? こちらはどちらかといえばファンタジー要素の様なものが——」
と教えてくれた。完璧に今回は春人の情報収集不足だった。
「日本のホラーとは人の恨みや死んだ後などがテーマになることが多いのだな」
「怨念とかね!」
「オンネン……」
本棚から分厚い辞書を取り出し怨念という言葉を調べだすアルバート。
「あまり褒められた言葉ではないな。しかし、可愛い君を見ることが出来たからまた見ても構わないよ」
パタンと本を閉じて棚に戻す。
「別に何もしてない!」
「ははは……そういう事にしておこうか。では食事も済んだことだし、お先にお風呂にどうぞ」
アルバートが勧めるが、春人は椅子で座ったままモジモジしている。
「どうかしたのか?」
「え? うん……いや……そうだね。泊まるからお風呂に入らないとだね……」
春人は立ちあがろうとテーブルに手をついたが、中腰のまま固まってしまった。
このタイミングで、テレビ番組で水は幽霊が集まりやすいと聞いたのを思い出してしまったのだ。
「あのさ……」
「ん?」
「お願いがあるんだけど……」
「どうした」
「……お風呂までついてきてくれませんか?」
怯えた春人のお願いにアルバートはクスリと微笑んでしまった。
「笑わないでよ!」
「いや、本当に可愛いなと思って。行こうか。それとも一緒に……」
「入りません!」
もう怖がっているのは完璧に知られているので恥を捨て、アルバートに脱衣場で待ってもらう事にした。
「こっち見ないで。背中向けて」
服を脱ごうと、裾に手をかけた春人がアルバートに言う。肩を竦めたアルバートだったが素直にいう事を聞く。
「背中を向ける必要はあるのだろうか?」
「恥ずかしいじゃん!」
「今更では?」
「いいから! 見ないでね!」
「OK」
春人はアルバートが振り向かないか確認をしてサッと服を脱ぎ、浴室への扉を開ける。ガチャンと閉めたところでアルバートに中から声をかける。
「いいよ!」
扉の樹脂ガラス越しにアルバートがこちらを振り向き、アルバートの色付きのシルエットが洗濯機にもたれるのがわかる。
「アル?」
「なんだ?」
「いる?」
「ちゃんといるよ」
その返事を聞き、春人はシャワーからお湯を出し、まずは身体を洗う。シャワーは浴室に入って右側に備え付けられていて、横目でしかアルバートを確認出来ない。一気に洗いたくて、シャワーで身体の泡を流すのと同時進行でシャンプーを手のひらに乗せ広げる。目を瞑れば、いくらアルバートがいるとはいえ、やはり背後はスースーするような気がした。アパートのため広くない浴室なのに背中には永遠と冷たい空間が広がり壁がないような感覚に陥る。ゴシゴシと髪を洗い、お湯で流していく。お湯で流される泡、しかし恐怖心だけは流されることは無い。
「ねぇ、アル?」
返事がない。ザーッとシャワーの音だけが響く。
「アル?」
返事はない。
「アルバート?」
一向に返事は帰ってこない。振り向くのを躊躇ってしまうのはやはり背後が怖いから。だが、恋人からの返答のなさに別の恐怖が込み上げる。
(まさか……幽霊に攫われた?)
意を決して振り向けば、先ほどまで樹脂ガラス越しに見えていたアルバートの姿は消えていた。
「えっ?! アル?!」
シャワーのお湯を止めるのも忘れ、まだ身体に泡が付いているにも関わらず春人は浴室の扉を開けた。
「アル?! うわッ!」
ちょうど脱衣場にアルバートが戻ってきて、春人は声を上げてしまった。
「春人?」
「もービックリした……いなくなったかと」
「ああすまない、少し席を外した。ところで……」
「ん?」
アルバートの視線は春人の身体に向けられていた。足元を見ると泡とお湯が小さな水溜りを作っていた。
「ごめん! 急にいなくなったのにびっくりして、そのまま出てきちゃったから! 後で床拭くね!」
春人は浴室に戻るためくるりと背を向けた。半開きにしたままの扉からは出しっぱなしにしたままのシャワーのお湯の湯気が漏れていた。
「止めないと……わっ!!」
——ガタガタ
春人の視界には濡れた浴室には似つかわしくない服を着たままの腕が見えていて、濡れた背中には、アルバートの服が張り付く。
「一緒にはいろうか」
「えっ?」
「だったら怖くないだろ?」
「服脱いでないじゃん」
振り向くと、アルバートはシャワーで上半身を濡らしており、プラチナブロンドのオールバックは朝露に耐えかねた草の様に下がり眩しい。透けたシャツの下からは骨が浮き上がり、浮き出た肌色は淡く色づいている様にも見える。
「我慢ができなくて脱ぐのを忘れてしまった」
普通に入る気などさらさらない確信犯の端正な微笑みに春人は呆れてしまう。
「……変態。でも……ゴムがないよ?」
「大丈夫」
浴室の曇った鏡には目も見開く春人と、口で避妊具を器用に開封するアルバートが写っていた。
「まさか、それを取りに行ってたの?」
「すりガラス越しの君が艶めかしくてつい……」
「はぁ……この世で一番恐ろしいのは英国紳士かもね」
悪魔が鏡の中で微笑み、小悪魔は天国へと連れて行かれる。
「どこ行くの?」
「書店に」
「書店?」
「もともと本を買いに来ていたのだが、そこで不審なパーカーの男性に会ってね」
「まさか、村崎部長?」
「ああ。目的のものを買わずに書店を出てしまったのだ」
「そうだったんだ。最初から村崎部長といたわけじゃないんだね!」
「もし今日のが計画性のあるものなら私も君が見た事ない様な格好でここにいただろうね」
村崎のパーカー姿を思い出し、春人がクスリと笑う。
「村崎部長の変装すごかったね!」
「あれはもう2度と見られないだろうな。しかしあの優しさがあるからこそ、部下にも懇切丁寧な彼がいるのだろうな。ストーカーはあまり褒められないが」
「それ自分の事言ってる?」
「耳が痛いな。あれに乗ろうか」
アルバートが指さした先には、二階へ行くエスカレーター。それを見つけ春人は足を速め、アルバートの前を行く。そうなると必然的に先に乗るのは春人で、アルバートもこれはいつもの事なので微笑ましくみていた。
エスカレーターは春人にとって期間限定の幸せを与えてくれる機械なのだ。
乗ってすぐにくクルリと振り向いてくる春人は満面の笑みだ。高さが上がるにつれてどんどん嬉しそうな顔になる。
「今なら僕もアルと同じ背だね!」
なんて無邪気に言う。確かに1段20cmほどの高さがあるエスカレーターの前に乗れば背丈はほぼ同じにはなる。しかしまだアルバートの方が高く「あと、少しで抜けるところだったのに、残念だったな」と意地悪に言うと、目の前の恋人は必死に背伸びをする。
「んんっ、勝った!」
筋を引きつらせながら背伸びをした春人だったが、ちょうど終着点が近くなり、ゆっくりとアルバートの視界から下の方へと消えていく。
残念そうな顔をしている春人が完全に消えてしまう直前、彼の身体がグラッと揺れた。
「うわっ!! ……おっとと」
春人がエスカレーターの終着点、つまり〈くし〉の部分に踵があたり後ろに倒れそうになったが、なんとかバランスを保ち、恥ずかしそうに顔を赤くした。俯く春人の背中を撫で、細く微笑みながらアルバートは幸せを噛みしめるように二階フロアを歩いた。
書店で『赤と黒』の下巻を買い、料理本コーナーでソワソワしている春人に声をかける。
「何だかデジャブだな」
「え?」
「君と同じ場所で挙動不審な村崎さんを見つけたから」
最後に料理本コーナーを一瞥して書店を出る。
そして今度は逆にエスカレーターを下りるのだが、この時は率先してアルバートが先に乗る。
目の前のプラチナブロンドをツンツンしながら春人は「いつも思ってたけど、下りる時、気を遣ってくれている?」と尋ねた。振り向いた水色の瞳はいつもと変わらぬ色で「無意識だ」と言いたげだった。
「考えた事なかったな」
「そうなの? 僕はてっきり身長遊びに付き合ってくれてるのかと」
「あれはヒールを履いた女性がもし転けた場合の事を想定しているのだ」
「僕、男なんですけど!」
「ああ、そうだな。それに君の場合は前に乗った方が安全そうだ。」
「もぉーさっきの忘れてよ! あっでもさ、スカート履いてる女性だったらどうするの? 上りだと中身見えちゃうよ?」
先程の忘れてほしい事柄のことはすっかり本人の頭から抜け落ちたのかニヤニヤとした顔で聞いてくる。
「そういう時は「お先に失礼」と言って先に乗るといいよ。」
「へぇ」
アルバートの真面目かつ紳士的な回答に、春人は不満げな声を漏らした。
「そもそも女性の下着など見てどうするのだ。それなら君のを見るよ」
そして、意図も簡単に唇を春人の耳に寄せ「今夜もね」と囁き、低い声を微かに残しながら再び30センチの距離ができた。
「エッチ……」
というぼやきは小さすぎて30センチには届かなかった。
「予定より早いけどどうする?」
「桜ちゃんと会ってから、一度家に帰って、準備してアルの家に行くつもりだったんだ。だから一回帰る。で、直ぐに行くよ」
「ずっと思っていたのだが、着替えをうちに置いておけばいいではないか」
自動ドアを超え、全身に秋風を浴びた春人が身震いしながら「ダメ」という。
春人は着替えを絶対にアルバートの家に置かない。そのせいでこの前のあられもない姿を見るに至ったのだが、どうして置かないのかずっと気になっていた。
「とりあえず一回帰るね」
と理由は言わずに、自分の家の方へ駆けていった。
その後、準備を済ませたであろう春人がアルバートの家のインターホンを鳴らす。ドアを開けると、そこには何かを企んでいるような日本人の恋人が立っており、アルバートは気を引き締めた。お菓子を作ってくれるなど嬉しい事を考えてくれる一方、予測不能な事をするのも春人の特技だ。今日も何かあるなと予感したアルバートだったが、ポーカーフェイスを気取って彼を中にいれた。
「ところで何故、インターフォンを鳴らしたのだ?」
「え? 何故っていっつも押すじゃん」
「うちの鍵を持っているだろ?」
廊下で春人の足が止まる。
「ごめん……」
謝罪の言葉を述べた春人に、アルバートは不思議な顔を向ける。
「どうして?」
「だって……まだ、返してないから」
「返す? 鍵をか?」
「うん。合鍵貰った気分で嬉しくて返さずに持ってたの。アルも何も言わないから。でも使っちゃうと返すように言われるのも嫌だったから……」
もう一度「ごめん」と言った春人がポケットから直ぐに鍵を取り出した。差し出されたその手にアルバートは自分の手を重ねる。そして大切そうに包み込み、春人に押し返した。
「合鍵だ」
春人が潤んだ瞳を上げる。
「それは合鍵だ。そのつもりで渡したはずだったのだが、言葉足らずだったようだ」
「いいの?」
「勿論だ」
「でも、合鍵なんて渡したら、僕勝手にきちゃうよ?」
「構わないよ。いつでもおいで」
「アルが家に帰ったらベッドにいるかもしれないよ?」
「最高ではないか」
「本当にいいの? 疲れてるときに恋人いたり、勝手に泊まったりしたら邪魔じゃないの?」
「なるほど、それで君は着替えをうちに置かないのか」
「アルの迷惑にはなりたくないから」
アルバートは俯いた春人を優しく抱き締める。
「迷惑なんて一つもない。だからいつでもおいで」
小さな身体は少しづつ温かくなり、胸に擦りつけながら首を縦に振った。可愛らしいその姿に、微笑ましくなるアルバートだが、肝心の企む顔の理由がまだ分からない。
「春人、何か隠してる?」
と直球で尋ねれば、いつもは肩を震わせるのに、今日は意地悪な笑みを浮かべた顔が返ってきた。
「隠してる!」
「今日は素直だな」
「僕を尾行なんてするからだよ! スイーツ大作戦がバレたからお仕置だよ!」
プライベート用のお洒落なメンズリュックをガサゴソさせた春人が何かを取り出した。
薄いプラスチックのケースに黄色のラインが入っている。
「DVD!!!」
「買ったのか?」
その割には少しケースの色がくすんでいるし、パッケージなどもない。
「借りてきたの!」
「何を?」
「ふっふっふっ。紳士なアルも僕に抱きつきたくなるようなDVDだよ!」
「抱きしめてもいいなら、いつでも抱きしめるが?」
「そうじゃなーい! アルが悲鳴を上げながら僕に抱きつくの!」
「私が? 悲鳴?」
「ホラー映画なの!」
「ほら、映画?」
「ほら、じゃない! ホラー! Horror!!」
春人が綺麗に発音をすると、アルバートも合点がいったという表情になるが、春人が望むような恐怖を浮かべたものではない。
「今に見てろー!」と意気込む春人はさっそくDVDをセットした。そして準備よくポップコーンとジュースまで用意して、二人でソファーに肩を並べる。
「アル、覚悟してね!」
長い広告の後、本編がスタートする。
これを提案した春人は徐々に肩幅を狭くしていたが、アルバートは眉間にシワを寄せていた。
(これが……私が悲鳴をあげるようなホラーなのだろうか? いや、もしかするとここからが恐怖の始まりなのかもしれない)
アルバートの視界には白いワンピースを着た髪の長い女が急に画面の端に現れたり、主人公達を追いかけたりを繰り返している。
(確かにこの淑女、顔色が悪いため少し不気味だが、せめてその長い前髪は切るべきではないだろうか。視界が悪くならないか? でもきっとこれが日本のホラーなのだろう)
アルバートが横目で確認すると、春人は時折身体を震わせている。いつのまにか三角座りをしてソファーで身体を小さく丸めていた。
(あっ、口が開いている)
怖がる割に見入っているようで口がポカンと開いている。そこにポップコーンを1つ入れると……
ビクンッ!!
「ひゃっ!!」
「おっと」
アルバートは驚いた春人に危うく指を噛まれるところだった。
「な、な、は、な、なに?!」
「大丈夫だろうか?」
「何が?!」
「とても怖がっているように見えるが……やめておくか?」
「だ、大丈夫だよ! アルこそ怖いんじゃないの?!」
「いや、問題ない」
春人は全く恐れをなしていないアルバートの反応に予想外といった表情を浮かべる。
だが、これはチャンスだと思った。
「じゃ、もう見るのやめる?」
「この後の展開は気になるので最後まで見るつもりだ」
「そ、そう」
春人は目尻を下げて、身震いをすると、再び視線をテレビに戻した。
(やはり怖くて見るのをやめたいのではないだろうか)
「春人、怖いなら無理に見る必要は……」
「大丈夫だよ! よし、ほら! そろそろまた出てくるよ……うわぁぁぁぁっ!!!!」
春人の言った通り、画面いっぱいに顔色の悪い女の顔が映し出される。
──ギュウ
春人は汗ばんだ手でアルバートの手を握った。言葉とのあまりの差に、苦笑いをしたアルバートはその手を握り返す。しかし、本人は気づいていない。無意識に握るくらい怖いなら止めればいいのにとも思うが、これはこれで悪くないので、怖がる春人を楽しむ。
——ギュッ
——ビクン
——ギュッ
——ビクン
画面を見ずともホラーな場面は春人の身体が教えてくれる。
「ひえ……」
春人の手が離れ、画面からは視線を逸らさず指で辿りながらアルバートの腕を上る。
——ギュウッ
今度は二の腕に強く抱きついた春人。それもそのはずだ。映像は絶対に何かが起こると予感させる真っ暗なトンネルを映していた。
「えっ、ダメだよ、そんなとこ入っちゃ……」
複数の男女が車でトンネルに入っていき、車が急に止まり車内の男女が焦りだす。
『ドンッ!!』
「ひっ!」
車に何かが衝突した音とほんの少しずれて春人が悲鳴を短く上げる。
車の天井を見上げオドオドする男女が映し出されると、次のホラーシーンに備えてか、春人が膝に乗る猫のように四つん這いになりながらアルバートの膝に乗った。
アルバートの視界は黒髪でいっぱいになり、一応声をかけたが、本人は振り向かない。
『ドンドンドンドン!!!!!』
「ひやぁ!!!」
車の天井から大きな音が複数して助手席の男が車から降りて逃げていく。
——ギュッ
とアルバートの胸ぐらあたりを掴み、震える春人。
「やだやだやだ……」
顔をアルバートの胸に埋めて、しばらくするとゆっくりテレビ画面の方に視線を戻す。
画面は車内に残った男女3人が会話をするシーンだ。このあとどうするか話し合っている。助手席の男を助けに行くか、3人で帰るか。
「帰ったほうがいいよ。ねえ?」
「そうだな」
アルバートにはそんなことはどうでもよかった。
(わざとでは?)
映画のフラグが立つような演出も、春人の仕草も計算されているとしか思えない。本来の尾行の仕返しはこれではないのかと思うほど、映画の内容に合いもしない可愛らしい生き物がいる。
——ビクンッ
春人がまた反応する。
トンネルの奥から、助手席から逃げた男が走って戻ってきていた。その背後には無数の青白い手が彼をトンネルの奥に引きずり込もうと男を追いかけている。
「うわぁ」
助手席の男と追いかける無数の手から逃げるように車が急発進してトンネルの出口へ向かう。
——バンバンバン
春人が来るぞ来るぞと言わんばかりにアルバートの胸を叩く。
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——ギュッ
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「そ、そっかぁ」
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「うん。だってアルのそんな所見たことないし」
「しかし、驚かせるなら別にホラー映画でなくても良いのでは?」
「ほら、この前映画観に行こうとしたじゃん? 結局アルの老眼鏡買った時!」
脅かした仕返しに老眼鏡を強調する。
「あの時観たかったやつなの!」
「しかし新作のDVDにしてはケースがくすんでいるな」
「これは昔のだよ。映画はリメイク版なんだ!」
「君がホラー映画が好きだなんて初めて知ったよ」
「好きじゃない」
「なに? ならばなぜ……」
「だーかーらー! さっきから言ってるじゃん、驚かせたかったの!」
「その割には犠牲がデカすぎやしないか?」
「でもたまにはさ……アルが僕を頼ってギュッてしてるところもみたいもん」
春人は照れた声を出し、それを隠すかのように背を向けた。
(ああ、やはり君は可愛い)
もっともっとお互いの色々な姿を見ようと模索する姿が愛しくて、抱きしめたくなり、アルバートは春人の背中に腕を広げ、そして包み込んだ。
しかし……
「うわぁぁぁぁ!!!!」
映画の余韻が悪い意味で残っていたようで愛は意図も簡単に跳ね除けられ、春人は今までに見た事もない力でアルバートを突き飛ばした。
その後、何度も謝る春人と食事をとり、ホラーの異文化に花を咲かせた。
「ゾンビやスプラッタ系の方が怖いな」
「日本ではあまり見ないかも……でも最近若い子に流行ってる」
「だが、それも同じ人間同士のスプラッタ系だろ? こちらはどちらかといえばファンタジー要素の様なものが——」
と教えてくれた。完璧に今回は春人の情報収集不足だった。
「日本のホラーとは人の恨みや死んだ後などがテーマになることが多いのだな」
「怨念とかね!」
「オンネン……」
本棚から分厚い辞書を取り出し怨念という言葉を調べだすアルバート。
「あまり褒められた言葉ではないな。しかし、可愛い君を見ることが出来たからまた見ても構わないよ」
パタンと本を閉じて棚に戻す。
「別に何もしてない!」
「ははは……そういう事にしておこうか。では食事も済んだことだし、お先にお風呂にどうぞ」
アルバートが勧めるが、春人は椅子で座ったままモジモジしている。
「どうかしたのか?」
「え? うん……いや……そうだね。泊まるからお風呂に入らないとだね……」
春人は立ちあがろうとテーブルに手をついたが、中腰のまま固まってしまった。
このタイミングで、テレビ番組で水は幽霊が集まりやすいと聞いたのを思い出してしまったのだ。
「あのさ……」
「ん?」
「お願いがあるんだけど……」
「どうした」
「……お風呂までついてきてくれませんか?」
怯えた春人のお願いにアルバートはクスリと微笑んでしまった。
「笑わないでよ!」
「いや、本当に可愛いなと思って。行こうか。それとも一緒に……」
「入りません!」
もう怖がっているのは完璧に知られているので恥を捨て、アルバートに脱衣場で待ってもらう事にした。
「こっち見ないで。背中向けて」
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「恥ずかしいじゃん!」
「今更では?」
「いいから! 見ないでね!」
「OK」
春人はアルバートが振り向かないか確認をしてサッと服を脱ぎ、浴室への扉を開ける。ガチャンと閉めたところでアルバートに中から声をかける。
「いいよ!」
扉の樹脂ガラス越しにアルバートがこちらを振り向き、アルバートの色付きのシルエットが洗濯機にもたれるのがわかる。
「アル?」
「なんだ?」
「いる?」
「ちゃんといるよ」
その返事を聞き、春人はシャワーからお湯を出し、まずは身体を洗う。シャワーは浴室に入って右側に備え付けられていて、横目でしかアルバートを確認出来ない。一気に洗いたくて、シャワーで身体の泡を流すのと同時進行でシャンプーを手のひらに乗せ広げる。目を瞑れば、いくらアルバートがいるとはいえ、やはり背後はスースーするような気がした。アパートのため広くない浴室なのに背中には永遠と冷たい空間が広がり壁がないような感覚に陥る。ゴシゴシと髪を洗い、お湯で流していく。お湯で流される泡、しかし恐怖心だけは流されることは無い。
「ねぇ、アル?」
返事がない。ザーッとシャワーの音だけが響く。
「アル?」
返事はない。
「アルバート?」
一向に返事は帰ってこない。振り向くのを躊躇ってしまうのはやはり背後が怖いから。だが、恋人からの返答のなさに別の恐怖が込み上げる。
(まさか……幽霊に攫われた?)
意を決して振り向けば、先ほどまで樹脂ガラス越しに見えていたアルバートの姿は消えていた。
「えっ?! アル?!」
シャワーのお湯を止めるのも忘れ、まだ身体に泡が付いているにも関わらず春人は浴室の扉を開けた。
「アル?! うわッ!」
ちょうど脱衣場にアルバートが戻ってきて、春人は声を上げてしまった。
「春人?」
「もービックリした……いなくなったかと」
「ああすまない、少し席を外した。ところで……」
「ん?」
アルバートの視線は春人の身体に向けられていた。足元を見ると泡とお湯が小さな水溜りを作っていた。
「ごめん! 急にいなくなったのにびっくりして、そのまま出てきちゃったから! 後で床拭くね!」
春人は浴室に戻るためくるりと背を向けた。半開きにしたままの扉からは出しっぱなしにしたままのシャワーのお湯の湯気が漏れていた。
「止めないと……わっ!!」
——ガタガタ
春人の視界には濡れた浴室には似つかわしくない服を着たままの腕が見えていて、濡れた背中には、アルバートの服が張り付く。
「一緒にはいろうか」
「えっ?」
「だったら怖くないだろ?」
「服脱いでないじゃん」
振り向くと、アルバートはシャワーで上半身を濡らしており、プラチナブロンドのオールバックは朝露に耐えかねた草の様に下がり眩しい。透けたシャツの下からは骨が浮き上がり、浮き出た肌色は淡く色づいている様にも見える。
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普通に入る気などさらさらない確信犯の端正な微笑みに春人は呆れてしまう。
「……変態。でも……ゴムがないよ?」
「大丈夫」
浴室の曇った鏡には目も見開く春人と、口で避妊具を器用に開封するアルバートが写っていた。
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