瓶詰めの神

東城夜月

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第十三話 六月の記憶

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 学園生活を始めて二ヶ月。なごみは少々息苦しさを感じ始めていた。
 学校は楽しい。当初は数少ない外部生ということ、そして入学初日の騒動もあって悪目立ちしていたきらいはあったが、クラスにも馴染み始めている。それに、同じ宗教という枠組みがあるためか、生徒達は基本的に善良で親切だった。
 寮生活も当初は不安だったものの、今では新鮮さを楽しんでいた。夕食後から消灯までの時間は寮内にいれば自由に行動できるし、共有スペースで勉強会を開いたりできる。
 普通に生活している分には、この学園が宗教団体の一部であることを意識することはなかった。ただ土曜日の「瞑想の時間」を除いては。
 土曜日は基本的には休日だ。だが生徒達は午前十時に、それぞれの学年が指定された講堂に集まらなければならない。それは「座学の時間」と呼ばれ、封斗教ほうときょうの歴史や教義などについて講義を受ける。
 午前十一時から正午までは「瞑想の時間」だ。全校生徒が体育館に集められ、一時間に渡って延々と瞑想を行う。和は、この時間が苦手だった。なにせ、ありとあらゆることを指摘されるのだ。姿勢が悪い、雑念が見える、体がぐらついた──など、枚挙にいとまがない。
 そしてなにより厳しいのは、指摘されるたびに靴べらのような棒で背中を叩かれることだった。流石に全力で打ち据えられることはないが、何度も叩かれると背中がヒリヒリする。そして全校生徒の前で怒られるものだから、恥ずかしくもあった。
 しかし、どうしても和は瞑想がうまくできなかった。一時間も目を閉じて背筋を伸ばしているなんて疲れてしまうし、そもそもなにもせずに一時間じっとしているということ自体が想像以上に苦しかった。
 この日もしたたかに背中を叩かれた上に、罰として体育館の掃除までさせられ、やっと食堂に行けたときには正午を四十分も過ぎていた。
 やばい、と内心焦る。和は食事に時間がかかるほうだ。悪いことに、寮のスケジュールは一分一秒の遅れを許さない。案の定、寮長である長田おさだの目についてしまった。
「ねえ、あなた遅刻してきてるのわかってるの?」
「はい、すみません」
 このやりとりを隣で聞いている有希ゆきが、居心地悪そうに白米を食べている。和が遅れてくるのを見越して、目立たないようにわざとゆっくり食べてくれていたのだろう。
「遅れてきてる癖になにもかもが遅いのよ。いつもぼんやりしてるけど、もうちょっと地に足つけて生活してくれないと困るの。今は集団生活をしてるんだから」
 はい、と和は肩を竦める。入学式の夜、初めての夕食でいきなり「食べるのが遅い」と怒られて以来、こうして叱責されるのがお馴染みの光景になってしまった。
「もう二ヶ月経ってるんだから、いい加減寮の生活ペースに慣れて欲しいんだけど。そうやってぼんやりしてるから、いつまで経っても瞑想もできなくて皆に笑い者にされるのよ。体育館で指導される度に他学年からも笑われてること、知ってる?」
「すみません」
高遠たかとおさんも、付き合う人は選んだら? それとも世話を押しつけられてるの?」
 和が遅れてきただけなのに、何故有希まで引き合いに出されなければいけないのか。そう思った時、有希が茶碗と箸を置いて立ち上がった。
「お言葉ですが、寮長」
「お前、いい加減にしろよ」
 そう言ったのは有希でも和でもなかった。長い髪を金髪に染め上げた派手な女子生徒が、食卓から立ち上がり、つかつかと歩いてくる。
「なんでお前の怒鳴り声聞きながら飯食わなきゃいけないわけ? 飯がマズくなるじゃん。ただでさえマズいのにさ」
「怒鳴り声ってなに? 私は寮長として指導を……」
「他学年にも笑われてる、なんて言うのが指導なわけ? それ、ただの悪口じゃん。聞いてるこっちも気分悪くなるんだけど」
「だったらあなたも先輩として後輩を指導しなさいよ。誰もやらないから私がやってるんでしょ?」
 二人の言い合いが徐々に白熱していく。止めなければ、と思ったが、最早和が割って入る隙などない。
「だいたい、教団の中でちょっと偉いくらいで調子に乗るなって言うの。うちら外部生にしたら、何の関係もないんだし」
「この学園に入った以上、外部生も信者も同じでしょ。あんたなんか、タダで学園にいるくせに」
 長田のその一言で、派手な女子生徒の顔色が変わった。
「今それ関係なくない?」
「外部生の癖に教団の金で学園に通ってるんだから、規律くらいは守れって言ってるの」
「だからお前が言ってんのはただの悪口だって言ってんだよ!」
 女子生徒が長田に掴みかかったのと、長田が彼女の頬を叩いたのはほぼ同時だった。和の目の前で、彼女らは掴み合って互いを罵り合っている。食堂は怒号と悲鳴に溢れかえった。
「やめなさい二人とも、みっともない!」
 誰かが呼んできたのか、結城ゆうきが食堂に入ってきた。
「まず落ち着きなさい、お互いに離れて! 一体何が原因なの?」
「あの、わたしです! わたしが悪いんです!」
 慌てて和は結城の前に出て説明する。
「わたしがお昼の時間に遅れてきたのに、食べるのが遅かったから寮長先輩に注意されて……それで、先輩がわたしを庇って……」
「関係ねえよ」
 派手な女子生徒はふてぶてしく言い放ち、長田を顎で指し示した。
「うちがこいつの態度にムカついたの」
 結城は深い溜息をつく。
「長田さん、二木にきさん、二人とも事情を聞かせてもらうわ。このまま指導室に来なさい」
 二木、と呼ばれた派手な生徒は、はいはい、とふて腐れた返事をしながら食堂を出る。長田がバツが悪そうにその後に続いた。
「どうしよう、大変なことになっちゃった……」
 とんだ大事になってしまったと、和は頭を抱える。
武村たけむらさんのせいじゃありません。今日の寮長の発言はいくらなんでも行き過ぎです」
「そうよ、気にすることないわ」
 有希の後ろに、いつの間にか見知らぬ女子生徒が立っていた。長い前髪のために目が隠れ気味だが、清楚で上品な雰囲気を感じさせる。
「あの人の言うことは聞き流しておけばいいわ。あの人は、神の威を借りて横暴に振る舞っているだけ。それに、平等という神の教えを誤って解釈している」
「はあ……」
 慰められているのだろうか。和はぽかんとして頷くことしかできない。隣の有希も同様だ。
「ごめんなさい、突然話しかけてしまって。外部生にあの人の振る舞いが神の意志だと思われてしまっては困るから」
「川崎先輩」
 食堂の入り口から、数人の女子生徒がこちらに向かって呼び掛けている。
「今行くわ。それじゃあ」
 二人に深々とお辞儀をして、彼女は待たせていたらしい後輩達の元に向かっていった。
「不思議な人でしたね」
「もしかしたら、小さい時からずっと教団にいる人なのかな。なんかそんな感じがしたよ」
 時計は既に十三時を回っていた。そういえば、と和は思い出す。
「有希ちゃん、自転車部に行かなくていいの? もう始まってるよ」
「別に、所属してるわけじゃないですから。私が勝手に先輩に会いに行っているだけで」
裕矢ゆうや君も自転車部だから見てみたいんだけどなあ。行ったらきっと怒られちゃうし」
 そんな話をしながら、二人もようやく人がいなくなった食堂を後にした。

 ペダルが重い。梅雨時特有の湿気が体中に張り付いて苛立つ。
「すんません、自分、ドリンク補充させてもらいます」
 宣言して、隊列から抜ける。この山で数少ない自動販売機の前にロードバイクを止め、深く溜息を吐く。
「おい、どうした」
 前方から声をかけられ、顔を上げた。部長の森山だ。隊列の先頭にいたはずだが、わざわざ戻ってきたのだろうか。
「四月からずっと調子が悪そうだな。そんなんじゃ、今年もみなとにインハイのレギュラー取られるぞ」
「そうっすね」
「なんだよ、どうでも良さそうだな」
 自分でも驚くほど気のない返事だった。
 裕矢が所属する自転車競技部では、八月のインターハイ出場メンバーの座を巡って緊迫した空気が流れている。比名川ひながわ学園は文武両道を掲げており、部活動にも余念が無い。勿論、封斗教を宣伝するための手段に過ぎないのだが。
 元々、この山奥の学園生活でやることもないからと始めたことだ。今ではもう情熱を失っているに等しかった。なにせ、それどころではないのだから。
「もう飽きたのか。それとも女か」
「別に」
「女だな」
 裕矢はこの森山が苦手だ。非常に勘の鋭い人間で、話しているだけで腹の底まで全部見抜かれそうな気がする。おちおち世間話もできない。
「今年に入って急に調子が落ちたってことは、一年生か」
「回りくどい言い方すんの止めてもらっていいっすか。どうせ全部知ってるんでしょ」
「全部は知らねえな。お前が入学式の日に、一年の教室で一悶着起こしたってことぐらいだ」
 あれはとんだ失態だった。母親から和が入学しているかもしれないと聞き、血の気が引いたあまりに考え無しに行動に出てしまった。
「何を悩んでるんだ?」
「あいつは、こんなところにいちゃいけない」
 もはや隠しても無駄だと思い白状する。森山のことはあまり理解してはいないが、こういったことを吹聴するような人物ではないことぐらいは確信していた。
「こんな山奥で、自販機にジュースも置いてねえ、購買でまともに菓子も買えねえようなカルト宗教のコミュニティで今を過ごしていいような人間じゃない」
 和には、普通の生活をしてほしい。友達とジュースを飲み流行の菓子を食べて雑談し、放課後は寄り道をして遊ぶ。そういう高校生活を送るべきだ。そうやって幸せに暮らしてくれるなら、例え自分のことなんか忘れられたって構わない。
「なるほど。そりゃ、部活どころじゃねえな」
「すんません、完全に個人的な話で」
「この学園に、個人的な問題を抱えてない家庭の子供なんていねえだろ」
 森山の言うとおりだ。この学園の九割は幼い頃から家庭が宗教漬けで、比名川学園まで実質エスカレーター式に上がってきた生徒だ。そんな家庭に問題がないわけがない。
「森山さんは、どこからでしたっけ」
「俺は小学校の五年からだ。問答無用で友達からも引き離されて、キツかったよ」
 不意に、車輪が回転する音がした。道路に顔を向けると、湊が立っていた。
「副部長に、呼んでこいって言われたんで」
 相変わらず抑揚のない喋り方で彼は言う。
「悪いな。ちょっと話が長くなっちまった。戻ろう」
 森山はロードバイクに跨がって漕ぎ出した。裕矢もその後に続きながら、湊に問う。
「お前、今の話どこから聞いてた」
「いや、なんも聞いてへんよ」
 それだけ答えて、彼は裕矢の前に出た。風除けを買って出たのだろう。体調が悪いとでも思っているのかもしれない。彼のそういうところが、裕矢に余計苛立ちを感じさせるのに。
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