瓶詰めの神

東城夜月

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第十九話 墜落②

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 川崎が二木にきに追いついた時には、彼女は教室の窓から下の階に逃げようとしている所だった。咄嗟に椅子を掴んで、力任せに投げつける。そんなことは予想もしていなかったのか、椅子の直撃を受けて彼女はよろめき、床に尻餅をついた。その隙を逃さず、素早く近づいて彼女に組み付く。鉈は都丸と交戦して、熱でふらついた際に取り落としてしまった。懐にあるのは頼りないナイフだけだが、これで戦うしかない。
 取っ組み合いになり、二人で教室内を転がり回る。並んだ机や椅子に強かに打ち付けるせいで、体中が痛い。それでも、なんとか彼女の手から森山を殴りつけたであろう小さなハンマーを引きはがすことに成功した。音を立てて、ハンマーが床の上を滑っていく。
「クソが!」
 頬に思い切り二木の拳を受けた。衝撃に頭がぐらりとする。素手の喧嘩となれば、所謂不良の彼女には及ばない。隙を突かれて、マウントを取られた。そのまま首を締め上げられる。顔に血が集中して、意識が途切れそうになる。
 手元に全力で意識を集中させ、懐のナイフを握った。それを二木の脇腹に突き立てようとしたが、力が足りなかったのか刃が滑った。しかしなんとか肉を切り裂くことには成功したらしい。床にぱたぱたと血が落ち、二木は脇腹を抑えて床に転がった。気管に空気が一気に流れ込み、激しく咳き込む。腹部の傷がまた開いたかもしれない。刺すような痛みに襲われ、すぐに動くことができない。 二木は体勢を立て直すと、窓から隣の教室に飛び移った。手負いの状態で戦うのを避けたいのだろう。臆病で、すばしっこく、小癪な女だ。
 一度大きく息を吸い込み、立ち上がる。廊下に出ると、既に二木の姿は遠くなっていた。逃がすわけにはいかない。
 唯一自分に残された武器であるアーチェリーに矢をつがえる。もはや痛まない箇所がない体だが、無理矢理鞭打って引き絞り、矢を放った。渾身の力を込めて放った矢が、二木の足に命中した。突然の痛みに体勢を崩した彼女が、派手に転倒する。
 再びナイフを構えながら駆け寄り、転がっている彼女に向けて振り下ろす。すんでのところで、それは二木が構えた同じ形のナイフで防がれた。まさか、最後に頼るのがこの貧弱なナイフだとは思わなかった。
 素人同士の殺し合いだ。ナイフで戦うと言っても、華麗にはできない。ましてや互いに手負いの状態だ。廊下を転げ回り、掴み合い、這いずるようにして刃を振り回す。
 互いに揉み合う内に、川崎の手が二木の髪を掴んだ。この好機を逃すまいと、思い切り引き倒す。先程とは反対に、川崎が優位に立った。
 勝った、川崎はそう確信して、逆手に持ったナイフを振り下ろそうとした。
 瞬間、腹部に激痛が走った。あの傷口から、血が流れていく感覚がする。制服越しに、二木の手が傷口に食い込んでいた。抵抗しようとして遮二無二振り回した手が、偶然当たったのだろう。
 気概とは裏腹に、川崎の体は最早限界だった。体から力が抜けていく。それを、二木が見逃すはずがなかった。
「川崎さん!」
 後ろからあの弱々しそうな女子生徒の声が聞こえたのと、二木のナイフが川崎を貫いたのは同時だった。内臓を貫通したのが、感覚でわかった。
 返り血にまみれた二木が壁に寄りかかるようにして立ち上がり、廊下の窓を開けた。森山も間もなく来るだろうと踏んで、逃走することを選んだのだろう。
 視界がどんどん暗くなる。だが、二木の派手な金髪は、よく目立った。それを目印に、彼女の左足を掴む。

 なごみの目の前で、二木の体が斜めになった。逃げようとしたのか窓枠に立った彼女の、そのしなやかな足を、大量に出血して血塗れになった川崎がしっかりと掴んでいた。それはさながら、地獄の死者が逃げようとする罪人を追う姿のようだった。
「う、そ」
 二木は信じられないというように目を見開いた。体勢を崩した彼女はぐらりと揺れて、虚空へと崩れ落ちた。
 身も凍るような悲鳴が響き渡る。そして、果実が潰れるような鈍い音。それを聞いて安堵したかのように、川崎は床に崩れ落ちた。
「川崎さん!」
 和は彼女に駆け寄ったが、どう見ても助からないであろうことは一目瞭然だった。止めどなく血が流れ、廊下に血溜まりが広がっていく。
「森、山君は……」
「大丈夫です、生きてます! だから、川崎さんも……!」
「もう、見えない、の……」
 彼女の目は、もう焦点があっていなかった。瞳孔が開きかけている。この時始めて和は、前髪に隠れていない彼女の顔をはっきりと見た。
「川崎」
 背後から森山の声がした。和が振り返ると、呆然とした森山が、そこに立ち尽くしていた。
「森山君……」
「おい、川崎、しっかりしろ!」
 駆け寄った森山が、血に濡れるのも構わず川崎を抱き上げる。
「あの……晩、餐会の……」
 言いかけた彼女は、血の塊を吐き出してから、一度大きく震えた。そして、それきり、動かなくなった。
 森山は、動かなくなった彼女を抱えたまま、呆然としている。
「ごめんなさい……わたし、間に合わなかった……」
「いや、違う。俺のせいだ。俺が中途半端なことをしたからだ。こいつを死なせたくないなら、しっかりと覚悟を決めて行動しないといけなかった」
 森山は一度川崎を抱きしめた。
「お前達の邪魔にはならねえよ」
 突然の脈絡のない言葉を、和は飲み込むことができなかった。
「え?」
 聞き返した和に、森山は端的に告げた。
「世話になったな」
 そう言った瞬間、静まり返った廊下にぴちゃりと粘着質な音がした。刹那、真紅の飛沫が舞い上がる。時期外れの桜のように。
 森山の首から大量の血が噴き上がった。その手には、あの支給されたナイフがしっかりと握られていた。彼の手は、瞬く間に真っ白に変わっていく。
 彼は、自ら喉を突いたのだ。
 和の目の前で、三人の命が潰えた。
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