瓶詰めの神

東城夜月

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第二十一話 裏切り者の記憶①

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 いかにもな日本庭園の片隅に、みなとの家はあった。
 母と「父」なるものが一体どういう経緯で湊を産み落としたのかは知らない。興味も無いから聞いたこともないし、聞いたところでどうせ良い気分にはならないに決まっていた。
 父には湊とは違う「家庭」があった。庭園の持ち主である、母屋で暮らしている一家がそれであった。
 家族、というものではないのに、家を与えられ、金と物を与えられるだけまだ温情があったと言わざるを得ない。世の中で良く語られる母子家庭と違って、幼い頃から金で不自由したことはなかったし、最新のゲーム機や玩具も欲しがればすぐに買い与えられた。
 一方で、「家族」にはそれなりに教育をしていたようで、無責任に物を買い与えるようなことはしなかったらしい。母屋の子供達は湊を見ると恨めしそうな目で見て、めかけの子のくせに、と意味もわかっていないだろう言葉を口にするのだった。今思えば、「父」の「妻」というものが、子供達に色々と吹き込んでいたのだろう。
 そんな環境だったから、学校でも湊は孤立していた。教師達からは腫れ物扱いで、子供達からは、めかけの子、とからかわれて仲間外れにされた。母屋の子供達が居候だのなんだのと言いふらしていたからだ。
 客観的に見ても酷い環境だったと思うが、当時の湊は何も思わなかった。生活に不自由はしていなかったからだ。後ろ指を指されたところで、別に死ぬわけではない。
 だから突然「お前の遊び相手だ」と年下の少女を連れてこられた時には、面倒だな、という感情が先に立った。
「潤一にもお友達がおらんと可哀想やって、お父さんが連れてきてくれたんよ。仲良うしなさいね」
 母親はそう言ったが、頼んでもいないし、何を今更、という気分でしかなかった。だが、ここでそんなことを言うともっと面倒なことになるのはわかっていたので、湊はその有希という少女を遊び相手にした。二人でないとできないカードゲームや、ボードゲームなどをしたいときには役に立ったからだ。
「みなとさんは、いじわるをしないんですね」
 出会ってすぐの頃、有希は言った。
「なんで?」
「あそこの家の人たちは、すぐわたしにいじわるをしました。おやつを取ったり、ぶってきたり」
 どうやら有希は、母屋の子供達と馬が合わなかったから湊の相手をさせられることになったらしい。
 正直、少しがっかりした。わざわざ遊び相手を用意したなど恩着せがましく言っておいて、結局は自分の子供達におべっかを使えなかった子供を押しつけてきただけだ。
 それ以降、湊は何も期待しなくなった。有希はどんどん湊に懐いたが、母屋の高飛車な子供達より自分の方がましな人間であるのは当たり前だったから、特になんとも思わなかった。
 ある日、珍しく有希と二人で外に遊びに出た時のことだ。公園に野良猫が住み着いたらしく、有希がそれを見に行きたいと言い出した。
 公園は小高い丘の上にあり、傾斜は階段で舗装され、歩きやすいようになっていた。階段を上りきったところで、運悪く同学年の悪餓鬼達のグループと出くわしてしまった。
「おい、こいつと遊ばん方がええで。こいつはめかけの子やからな」
 自分達を見るや否や、彼等は取り囲むように立って、有希に言った。
「いやです。みなとさんはやさしいから。あなた達みたいな人よりずっと」
「なんやこいつ、チビのくせに生意気や」
 有希の言葉に腹を立てた一人が、彼女に手を上げようとした。
 別に彼女を守るつもりはなかったが、下の学年の子供、しかも女子に手を上げるなど、常識的に考えて止めるべきだと思った。
「おい、やめろ」
 だが、悪餓鬼達に道理などわかるはずがない。
「なんや、めかけの子のくせに!」
 悪餓鬼達が、湊を突き飛ばした。後ろは階段だ。当然、湊は頭から落ちた。
 転がり落ちた時の記憶は無い。気がつけば自分は顔面血塗れで、隣では有希が泣いていた。悪餓鬼達は自分達がしでかしたことに恐れ戦いたのか、蜘蛛の子を散らすように逃げていくところだった。
 流石にこれは大騒ぎになった。普段は誰に何を言われてもじっと黙っていた母親が学校に乗り込み、穏便に済ませようとする教師達に対して一歩も引かなかった。結果、悪餓鬼達は親に連れられて、湊の家まで頭を下げに来た。これでこの話は終わるはずだった。
 その場に、父なるものの、「妻」である女がやってきた。彼女は悪餓鬼達の親に朗らかに挨拶し、対照的に湊には汚い野良猫でも見るかのような目を向けて言った。
「ちょっと顔の作りがええからって、調子に乗って澄ました態度しとるからこんな目に合うんや」
 その言葉に、母親が怒り狂って「妻」なるものに掴みかかった。結局騒ぎを聞きつけてやってきた父がなんとかその場を収めた。
 母親は離れで一人、泣き崩れていた。今思えば、母親の気持ちも理解はできる。自分が土地の名士の妾だという、それだけの理由で、子供までいじめられて怪我をさせられた挙げ句、心無い言葉まで投げかけられたのだ。
 だが、その時湊は別のことを考えていた。どうやら自分は「顔の作りが良い」らしい、と。
 それまで改めて鏡をまじまじと見たことはなかった。そもそも、顔というものを意識したことがなかった。鏡を数十分かけて眺めてみると、とりあえずあの悪餓鬼達よりは顔の作りができているよような気がした。
 その日を境に、母親の様子は徐々に変わっていった。離れによくわからない形の像を置いて、ぶつぶつと何かを唱えるようになった。一体何を言っているのかと聞き耳を立てたこともあったが、お経ではないらしいということしかわからなかった。
 きっと、あの事件よりもっと前から、母親の弱った心に付け込んで封斗教ほうときょうを布教していた者がいたのだろう。誰からも後ろ指を指され、味方のいなかった母だ。宗教に引きずり込むのは容易いことだったに違いない。
 小学校の卒業式を終えた夜、湊は夜逃げ同然で母親に連れられ、生まれ育った離れを去ることになった。
「これからは、もう嫌なことを言われないで済むんよ」
 しきりに、母親はそう言った。
 別に故郷を離れることが嫌だとか、寂しいとかは思わなかった。それよりも、これからは妾の子、と言われずに済むと聞いて清々した気分だった。唯一、もう少し早く教えてくれれば有希に別れの言葉の一つでも言えたのに、と思った。別に寂しくはないが、常識的に考えて彼女くらいには別れを告げるべきだったと思ったからだ。
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