冥土神楽

来星馬玲

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世話が焼けるお方ですねぇ……ふふっ

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 かつて客室として利用されていた部屋の付属として隣接している浴室。檜で作られた浴槽は温めたばかりのお湯で満たされており、桐辺きりべ熙彦てるひこがゆったりと浸かっていた。

 両手を頭の後ろに回して支えるような姿勢のまま、窓から見える光景をぼんやりと眺める熙彦。揺蕩う湯気の向こうには、ガラスを境界線にして広がる、星に照らされた山間部の夜景が広がっている。

 所々で光っている外灯の明かりは、山沿いの道路を走る者の道しるべと言えたが、熙彦には、暗い楕円形の連なりにある種の調和を与えている風に見えてもいた。

 とんとんとん……と、戸を叩く音。熙彦が檜風呂に使ったまま首を曲げてそちらを向くと、ガラス戸の向こうに立っている人の影が見えた。

「旦那さま。そろそろお上がりになってくださいな。また、のぼせてしまいますよ?」

 昏木くらき夜美子よみこの声。囁くようでいて、耳をつっつくような繊細な刺激を感じる。

「ああ、うん。そろそろ、あがるよ」

「今夜はお客様もいらっしゃいますからね。……みっともないところ、見せたりしたら、いけませんよ」

(一言多いなぁ……まったくもう)

 夜美子の熙彦に対する接し方は、住居主という目上への敬意もないわけではなかったが、それ以上に、まるで母親が子供を優しく諫めるような扱いだった。要するに、世間知らずのお坊ちゃまという認識もあるのだろう。

(まあ、否定はできないんだけど)

 既にガラス戸に彼女の姿は見えない。もう、向こうへ行ってしまったのだろう。

(よみちゃん……かぁ)

 瞳を閉じれば、幼少期の自分を見下ろす、長身の夜美子の姿が甦る。

 その頃から人付き合いが苦手だった熙彦は、神社の敷地内で近所の子供たちが集まって何かの遊びをしているのを遠巻きに眺めてばかりだった。

 遊びの内容は缶蹴りだったり、かくれんぼだったり、あるいは女子が多い時は縄跳びをやっている姿もよく見られた。

 最初の内は、熙彦もその輪の中に入っていた記憶がある。だが、その記憶も、かくれんぼで一人、床束の合間で過ごした孤独な闇へと収束している。

 神社の神主は大の子供好きだった。少なくとも、近所に住む誰もが、そう認識している。いつも子供たちとにこやかに挨拶を交わし、遊び場になっている境内を喜んで見守り、時には面子やカルタ取りのような昔ながらの遊戯に誘うことが日課にもなっていた。

 神社に植えられている大きな杉の樹。その陰でしゃがみ込んでいる熙彦が見つめているのは、地面を行き交う無数のクロオオアリたち。じっくり観察してみると、何匹化のアリは何やら硬そうな植物の種を思しき物を咥えていた。

 蟻の観察というのは、なかなか子供の好奇心を刺激する。個々の蟻の動きを目で追っている熙彦は、既に先ほどまで近場で遊んでいた子供たちの姿が無くなっていること、背後から覗き込んでいるある人物の気配にも気付かなかった。

 ぽつ……ぽつ……と、肌に当たる低温の刺激。幾つもの黒い影が雨粒の滲みから遠ざかっていく。遠く黒い人形が長く伸び、山の麓へ通じる長い坂に黒い形を残す。

 空は飴色で、時間の流れは過去と未来へ引き裂かれるように混沌を極めた。生まれる前の記憶が、得体のしれない感情を呼び覚まし……。

「う……あ」

 熙彦は呻き声を出し、咄嗟に立ち上がろうとしたが、足元がおぼつかない。顔面は蒼白で、怯えの色を露わにしていた。

 足がもつれ、地面の上に倒れ込みそうになる。そんな少年に手を回して、奈落との境界線上で踏み止まらせる、ある人物。

「あ……」

 巫女装束を着た女性の姿。齢は若いが、幼少期の熙彦にとってもずっと離れた年長者のように見えた。

「大丈夫だよ」

 何かの花の香り。熙彦は、今こうして地面を足で踏みしめている自分の存在を再認識し、深い安堵を覚えたのだ。




「旦那さま。旦那さま。起きてくださいまし、旦那さま!」

 優しく揺り動かされ、うたたねから目覚める熙彦。見ると、風呂桶から出されてバスタオルを巻かれた自分を支えている、夜美子の姿。

「あ……れ?」

「あれぇじゃないですよ。眠っていたんですよ、おふろの中で」

 朦朧として意識が徐々に晴れていくにつれ、ようやく状況が呑み込めてきた。

「そっか……」

 熙彦の口から出たのは実にそっけない言葉であったが、内心、恥ずかしさと申し訳なさで心苦しかったのである。

 熙彦のそんな心情を理解している夜美子はそれ以上は追及しない気遣いを見せ、心配そうに手を握って脈を計りながら、顔色を窺った。

「でもまあ、大事にならなくて良かったですね。……どうかお気をつけてくださいね?」

「うん……ごめん」

「それはそうと……旦那さま」

 妙に改まった物言い。

「うん?」

 夜美子の意図が呑み込めず、熙彦は彼女の若干思案しているような横顔を見やった。

「あのお客様……檜田ひのきた様、どうやらただ宿泊するために旦那さまの御屋敷を所望したわけでは無いご様子ですよ。危険はまずないと思いますが……旦那さまも念のため、心得ておいてください」

 そう言う夜美子であったが、それは何かを危惧しているというよりも、悪気のない企みというか、ちょっとした悪戯心のある含みといったものが感じられた。根拠は無いが、夜美子と一つ屋根の下で一緒に暮らしている熙彦故の直感だった。

「ささ。早くお召し物を。そのままのお姿では風邪をひいてしまいますよ」

「あっ」

 そう、熙彦はバスタオル一枚を巻いているだけ。妙齢の女性の手を煩わせてしまった羞恥心がこみ上げてて来て、全身を縮こまらせてしまう。

 夜美子はクスクスと笑うと、熙彦の体調も大丈夫そうであるのに安心したのか、そのまま脱衣所の外へと行ってしまった。

 熙彦は身支度を整えながら、夜美子の残していった花の香りに懐かしいものを感じていた。
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