祓魔師 凛冴

来星馬玲

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鬼峰家の血筋

死別

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 全身を煽る勢いの突風が、一室に流れ込んできた。驚いた小夜子さよこがさっと振り返り、絶句する。

 開け放された窓の両枠でばさばさと舞い上がっているドレープカーテン。その中央で上体を起こしてこちらを見据えている、ちぎりの姿。契の両目は魔的な真紅の光彩を帯びており、その様子は背後の情景を照らしている赤い月と酷似していた。

 今や、部屋全体が歪んだ赤一色のオーロラの如き異界に呑み込まれた様相を呈しており、超自然的な存在に直面した時の生理的な恐怖が、小夜子の感情を覆い尽くそうとしていた。

「ち、ちぎり……?」

 やっとの思いで小夜子は相手に呼びかけたが、そこには驚愕と疑念の感情が込められている。眼前の怪異が本当に契であるのか、まるで理解が追いつかない。

「さよ……こ……」

 小夜子ははっとなる。紛れも無い、契の声。

「くる……しい……たす、けて……さよこ……」

 契の口をついて出る、沈痛な訴え。小夜子の内なる感情の渦は、変わり果てた、一番の親友に対する献身の情を奮い立たたせた。

「契……」

 異常な空気に圧され、言葉が続かない。それでも小夜子は相手の助けになる手は無いかと思案しながら、恐る恐る、互いの距離を詰めていく。

「契、どうしたの……」

 契の身に何が起こったのか、小夜子には全く見当もつかない。ただ、契が途方もなく恐ろしい存在に囚われている事実だけは、小夜子にも察せられた。

「さよ……こ、どこ? さよこ……どこ?」

 首をひねりながら、視線を彷徨わせる契。いや、果たして今の契には視界が映っているのだろうか?

「契、わたしはここだよ。ねえ……」

 契は小夜子のいる方とは別の方向に腕を伸ばし、何かを掴もうとしているように手を彷徨わせている。もしかしたら、契には小夜子の声が届いていないのかもしれない。

 もし、ここで契を助けることが出来なければ、彼女はこのまま遠い世界に離れて行ってしまうのでは……そんな不安が、小夜子の意志を強めた。こうして再び巡り合えたからには、自分が契の助けになる手段があるはずだと、小夜子は自らを奮い立たせる。

(手放したくない……絶対に)

 伸ばしていた手を力尽きたように下ろし、肩をカタカタと震わせている契。小夜子はそんな彼女に近づくと、優しく抱きしめ、安心させるようにその背中をさすった。

「大丈夫だよ、契。ほら、わたしが傍にいるから……どこにもいかないから」

 弱りきった契に対して湧いてくる、愛おしい気持ち。弱者を庇護する者としての責任感は、深い愛情によって成り立っていた。

 だが――。

「んう……ふクッ!?」

 契が小夜子に向かってガバリと顔を押し付けると、その唇に吸い付いた。小夜子の口内に舌が入り込んでくる。舌は異様に長く伸び、妖しく蠢きながら喉奥へと侵入してくる。

 小夜子の意識が激しく明滅する。呼吸器系を塞がれ、息ができない。滑り気を帯びた分厚い肉の塊が、肺と胃の中にまで入り込んでくるようだ。既に、それは人間による接吻などではなかった。

 とうとう耐えられなくなった小夜子は、契を思いきり突き放してしまう。途端、蛸の触腕のような物体が口の中から吐き出されたような感覚を覚えた。

 げほげほと咳き込む小夜子。未だ、身体の中に異物が取り残されている不快感があった。

「ぐぐぐッ……ぐぐッ……」

 笑いとも呻きともつかない、くぐもった声。苦しさのあまり涙まで流している小夜子は、自らの胸元を抑えながら、異形の存在に憑りつかれている親友を凝視する。

「ミツケタ……さよこ、ミツケタ……」

 契はそう言うと、すっと起き上がり、小夜子の前で仁王立ちになる。

「見つけた……?」

 契の言葉を反芻する小夜子。口に出してみたところで、契が何を意図しているのかは分からない。

「契……わたしは、ずっと、ここに……いるよ?」

 小夜子は契に向かってそう言ったが、まるでその言葉が自分自身に言い聞かせたものであったかのように、己の脳内で何度も響くのを実感していた。

「くっググググ……」

 刹那、突き出された契の両手から、無数の不可視の触手がとぐろを巻くヘビのように幾重にも重なって渦を形成し、小夜子を襲った。

 小夜子は見えない何かによって身体を締め付けられ、歪んだ空間に固定される。五感の全てが苦痛によって塗り替えられ、やがては痛みとも呼べない悍ましい感触に取り込まれていった。

 それは精神への凌辱だった。魍魎の思念の支配下に置かれている鬼峰の館において、正気を保ち続けている者に対する、強制的な洗脳を施そうとする念波である。

 今の小夜子には、外部と接するあらゆる感覚が失われていた。当然ながら、部屋の扉越しに吠え続ける獣の必死の訴えが耳に届くはずもない。

(な、なに? これ……)

 一寸先は虚無。その中で己の意識という一点のみが、ぽつんと孤独に存在している。

(こわい……こわいよぉ)

 恐怖心によって自我が崩壊しかける。もし小夜子がここで狂ってしまえば、苦痛も快楽も全てを甘受するだけのデク人形へと堕とされていただろう。

 だが――。

(そうだ……契。契もこんなところに……一人で)

 ただ追い詰められていくだけの己の中へ逃げ込むよりも、すぐ傍にいるはずの愛しく想う者へ手を差し伸べる。その選択が、小夜子に一瞬でありながら十分な猶予を与えた。

 バン、と、音を立てて扉が開け放される。その瞬間、一匹の猛犬が飛び出し、契の腕に嚙みついたのである。

「あぎゃあっ!」

 けたたましい悲鳴が木霊する。はっと我に返った小夜子は、契の腕に大柄な犬が噛みつき、そこからだらだらと血が流れている光景を目の当たりにした。

「い……いやっ! やめて!」

 逡巡している余裕などはなかった。小夜子は契に喰らいついている犬を引き剥がそうとする。

「サーバ! 止せ! やめるんだ!」

 そう叫んだのは湯口ゆぐち大來たいき。先に小夜子が知り合っていた巡査であり、沖島おきしまひかるの部下の一人だ。

 本来、職務に忠実であるはずの警察犬のサーバだったが、大來の命令に対して一向に従う気配を見せない。大來はサーバの口を掴み、突き刺さっている牙を外そうと苦心する。

「う、ぐぅぅぅう! があ!」

 契が奇声をあげ、不可視の触手で以てサーバの身体を突き放した。

 「ぎゃうっ!」
 
 大柄な警察犬の体躯が、壁に叩きつけられる。

「サ、サーバ……」

 大來はサーバへ哀れむような目を向けている。その視線の先を、サーバに襲われていた契の方へ移した時、思わずギョッとなった。

「な……?」

 異形に憑りつかれた契の真紅の眼光が、大來の網膜を焼き、その平常心を揺るがす。

(契さん? なのか……?)

 思考が追いつかず、狼狽える。その隙が、大來にとっての命取りとなった。

「しゃあ!」

 まるで巨木から彫り出した丸太を振り回したような衝撃が空を切り、大來の頭部を直撃した。大來の意識が一瞬のうちに砕け散り、深淵へと消えていった。

「い、いやああああああ!」

 悲鳴を上げたのは、部屋の外で成り行きを見守っていた一人のメイド、掛山かけやま実月みつきだった。その耳をつんざく声が、茫然となっていた小夜子の脳内へ痛いくらいに響いた。

「契、なんで……そんな……」

 明らかに、大來は即死だった。飛散した肉片が部屋のあちこちにべったりと付着しており、間近に居た小夜子もまた、血と脳漿のうしょうでベトベトになっていた。

 一瞬の間を置いて、頭部を失った大來がバタリと倒れる。信じ難い光景だった。

「どうして……どうして……こんな」

 わなわなと震える小夜子。とても人間の為せる所業ではない。小夜子には、目の前の惨状を引き起こしたのが契だとは信じられなかったし、信じたくなかった。

「ぐるるるる……バウ! バウ!」

 サーバが吠え猛ると、間髪入れずに契へ飛びかかった。先ほどは意表を突かれた契であったが、今度は煩わし気に右手を構えると、圧倒的な質量を生じさせ、サーバを迎え撃つ。

 それが正面から直撃すれば、サーバも先に殉職した大來の跡を追う結果となっていただろう。しかし、契の形をした異形の力に、ある衰えが表れ始めていたことが、一つの命運を分ける結果となる。

「ぐうん!」

 床に叩きつけられたサーバ。サーバはひっくり返った姿勢のまま、四肢をぴくぴくと痙攣させている。大來のものであった血の上に、相棒であるこの警察犬の血が混ざりあっていく。

 サーバは骨を折られ、内臓を損傷しており、自力で動けない状態となっていた。その第二の犠牲によって、契を救おうとしていた小夜子の脳内も混乱を極めていた。

「ぐぐ……うぐああああ!」

 契が奇声を上げ、小夜子に掴みかかる。切羽詰まった者の気迫があった。

 驚愕と絶望に打ちひしがれた小夜子は、声すらあげられない。また、同僚の実月の絶叫が響き渡ったが、小夜子には届かない。

【駄目だ……もう持たない……】

(え?)

 脳内で直接響いた声。それは小夜子に向けたものではなかったのであるが、小夜子の感受性は人ならざる者の声を敏感に聞き取っていた。

「小夜子……」

 己の名を呼ぶ声で、現実に引き戻される小夜子。見ると、契の瞳からはあの不気味な真紅の眼光が失われ、見慣れた栗色の瞳に戻っている。だが、小夜子には、その色が途方もない哀しみにそまっていくように感じられた。

「……さようなら」

 そう言い残した契から、力が抜けていく。慌てて契の身体を支える小夜子であったが、その場にくずおれた契の肉体からは、命の熱が急速に消えていった。



《果てたようだね》

 窓の外。背の高い樹木の枝の合間に身を潜めている、一匹の三毛猫がそこにいた。アイネである。

《もう、あの娘は限界だった。……心も身体も》

 アイネは契の死を悼むように目を閉じ、項垂れている。

【だが、これではっきりした。姫岸小夜子……やはり、あれが本当に】

 アイネとは別の意識が、冷静に事態を見据えている。

杏樹あんじゅめ。この私に隠しごととはな】

《灯台下暗し……という人間の慣用句があるのさ》

 アイネが瞳を開き、虚空を見据える。

《どのみち、鬼峰家ももう御終いだろうね。そろそろ潮時なんだよ》

 アイネはそう言ったが、姿見えぬ相手は微かにほくそ笑んだ。

【潮時だと? 違うな、ようやく動き出す時が差し迫って来たのだよ】

《お前さんはまだ生贄を望むのかい?》

 アイネが問いかけると、周囲の空間が震え出す。

【先の接触でわかった。ようやく見つけたのだ……器を】

《器、ねえ……》

 アイネはそれだけ言うと、それまで乗っていた木の枝から幹へと飛び移り、軽い身のこなしで地面まで駆け下りた。

《ま、凛冴に手をださないなら、あたしがこれ以上見届ける意味もないね》

 そのまま立ち去ろうとするアイネを、魍魎の声が呼び止める。

【いや、これは私の器だ。だが、私の同志は、キミのお気に入りを変わらずに欲しているのだ】

 アイネは振り返り、目を細める。

《そうだろうねぇ》

【……それよりも、だ。これはキミにとっては、御津國の娘に対する裏切り行為ではないのかな?】

 相手の問いに、アイネが諦念したように答える。

《勧誘してきたのはお前の方だろうに。……まあ、そう思われて当然だとは思っているよ》

【ますます不可解だな。キミは、御津國の娘に入れ込んでいるのではないのか?】

《それは違うね》

 そう言い放つアイネの瞳の虹彩が、妖しく揺らめく。

《あたしが心を許したのは、凛冴じゃない。前にも言っただろう、御津國の行く末を見守ることがあたしの使命だと。凛冴が相応の才覚の持ち主であろうと無かろうと、あの人の血を受け継いでいる後継者であるのに変わりはない。……それだけだよ、あたしが今も御津國と共に居る理由は》
 
 アイネはそう言い残し、今度は一度も振り返らずに、足早に立ち去って行った。

 暫しの間、声の主は思案する。

【…………。やはり、相いれない存在であろうな】

 それが、その魍魎の出した結論であった。

【……姫岸小夜子……いや、鬼峰の血を継ぐ者よ。血の犠牲を払い続けながら待ち望んでいたが、ようやく真なる器に巡り合えたわ】

 魍魎の哄笑。それを聞き届ける人間はいなかったが、人の一生よりも長き時を生き続けてきた周囲の樹木が、この超自然的存在の鳴動に畏怖していた。
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