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鬼峰家の血筋
深夜の密事
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「度々お騒がせして申し訳ございません、旦那様がお会いになられるそうです」
唐突な出迎えだった。館の当主、鬼峰肇慶は事件当日からの連日の疲れで、凛冴とは明日の正午に会う手筈となっていたのであるが。
メイド長の佛木杏樹が話すところによると、凛冴の人柄や日ごろの生業の件を聞かされているうちに、肇慶がどうしても今すぐ会ってみたいと申し出たらしい。
「こちらです……」
杏樹の案内に従い、肇慶の待つ居間へ向かう凛冴。廊下を移動する途中、凛冴にあてがわれた部屋に寝具を運び入れていた契と会い、契は凛冴と杏樹に深々と辞儀をした。
凛冴は契とすれ違う際、先ほど食堂で対話していた時と同じ不穏な気配を察した。契本人には相変わらず自覚は無い様子だが、凛冴の危惧は増していく。
凛冴が居間に入った時、肇慶はソファに腰を下ろして、束ねられた書類に目を通している途中だった。奥には四角い門のような形状をした暖炉が備えられており、炎が煌々と燃えていた。
「旦那様、凛冴様をお連れしました」
杏樹がそう言うと、肇慶は書類をテーブルに置き、杏樹に目配せをした。杏樹は当主に深々と頭を垂れると、扉の外へ退いた。
「凛冴さん。まあ、立ち話もなんですから、こちらへかけてください」
肇慶が向かい側の席へ座るよう、凛冴を促す。凛冴は軽く会釈し、腰を下ろす。
「わざわざお越し頂いたのに、お待たせしてすみませんね。……ただ、私としても今回の件には頭を悩まされているものでして。一刻も早い解決を、と願っているのです」
肇慶は温和な声色で話し始めた。まだ外見上の年齢は三十代後半ぐらいと思われ、物腰は大分年を得ているような印象がある。
凛冴は黙していたが、注意深く相手の思惑を探っていた。契のものと同じ、おぼろげに揺蕩う影の残滓を感じていたからだ。
「あなたのことは杏樹から聞いています。何でも祓魔師として、悪霊の類を払っているとか」
「……私が祓うのは、人間の霊魂などではありません」
「そうですかな? 確か、杏樹の話では、要するにエクソシストと呼ばれる職種だそうで……」
「確かに、私が祓うものは時として悪魔や悪鬼と称されることもあります。ただ、西洋の教会に属するエクソシストとは違いまして。私の家も、元来、神道に根付いているものです。悪霊悪鬼……そう言われる存在の多くは、古くは神と呼ばれていたのですから」
「まあ、肩書などは何でも宜しい。あなたにこの一件を片付けられるかどうか……それが重要なのですから」
肇慶は一見理知的に見えるが、その一方で、まるで凛冴の身体の線をなぞりながら、値踏みをしているかのような視線を向けてくる。凛冴は背筋に冷たいものを感じていた。
「既にご存じと思いますが、我が鬼峰家は、鬼羅山に封じ込めたと伝えられている鬼の封印を守り続けてきた一族の末裔なのです。近年は、その教えも薄らいでいましたがね。……あの、六年前の大災害が起こるまでは」
「木途村を巻き込んだ鬼羅山の山崩れ、ですね」
肇慶は大きく頷いて見せた。
「そうです。あれは、事前に十分な調査が行われないままに土地開発を急いだがために起こってしまった。あの事故で木途村の住民はほぼ全滅……多くの尊い命が失われてしまいました。工事に関与していた私の父も巻き込まれてしまい、帰らぬ人に……」
肇慶に兄弟はなく、母親は事故の数年前に他界しており、他に跡取りはいなかった。それまで県外に出ていた肇慶は、親の葬儀のために館へ戻り、そのまま次期当主の座に納まったのだという。
「つむぎは……木途村の数少ない、生き残りの一人でした。身寄りのいなくなった彼女には、この館で働いてもらうことにしましたが、とても健気で……利口な、良い娘でしたよ。それが、あんなことになってしまいまして」
肇慶が沈痛な面持ちとなる。
「正直、あの事故の後も、私は半信半疑だった……鬼羅山の鬼の話などというものは。杏樹からは散々聞かされていましたがね。ただ……つむぎの惨状を目の当たりにして、私も考えを改めざるを得ない。己の果たさねばならない責任というものに対する使命感を、ね」
あの土砂災害は公けでは不慮の事故として片づけられたが、中には鬼の仕業と騒ぐ者もいる。結果として、鬼峰家の存在が世に広く知られるきっかけにもなっていた。
「だが、はっきり言って、私はこの分野においては門外漢だ。だから、きみのような専門家の力がどうしても必要なのです。……杏樹の受け売り、ですけどね」
凛冴の脳裡に、この館のメイド長の姿が思い起こされる。杏樹……彼女は、鬼峰家の役目を肇慶に教え込んだらしい。この館の事情を一番知っているのは、おそらく杏樹なのだろう。
(アイネは……何かを感づいていたらしいけど。あの庭師……)
アイネが散歩していた庭には、樹々の手入をしている初老の庭師の姿が垣間見えた。この館で見かけた一番の年長者と言えば、彼になるが……。
「杏樹に聞かされた話では、解き放たれた鬼がもたらす災厄を終わらせるには、もう一度彼奴を封じ込める他ない……と」
肇慶は両手をテーブルの上に乗せて前かがみになり、ソファから立ち上がった。
「方々を頼った末、見込みのある者はあなたしか見つからなかった……そう、杏樹は言いました。今の私には、あなたの力を信じるしかない。私はもう、つむぎのような犠牲者を出したくないのです。……どうか、宜しくお願いします」
深々と頭を下げる肇慶。凛冴も一礼し、強い意志を露わにして言う。
「はい、任せてください」
「私も出来るだけのことは致します。我が鬼峰家の使命を果たすためにも」
暖炉の火は消えかかっている。虚ろ気に揺れる火の光が、居間を弱々しく照らしていた。
時刻は夜の十一時を過ぎた頃。凛冴は寝室に戻っていた。凛冴が持ち込んだ荷物もここに置かれている。リュックサック一つ分であったが。
寝室には高級感のある黒色のレザーベッドが備えられている。馴染みの無い代物だった。
ベッドの傍らにある窓は崖と面しており、昼間は近くの街並みを見下ろすことができたが、今は深い霧がかかっていて、夜景はあまり見えなかった。
「何かございましたら、この鈴を鳴らしてくださいね。すぐに参りますので」
寝所を整え、部屋の掃除を終えた契が、古風な木版のついている電動式の呼び鈴を、卓の上にそっと置いた。
「……お守りは、持っていませんね」
「え?」
凛冴の発言に、首をかしげる契。少し間をおいて、凛冴に食事を出した際に渡された小袋のことを思い出したらしく、少し慌てた様子で話し始めた。
「あ……ああ、それは……わたしの部屋に、置いてあります」
凛冴が小さくため息をつく。
「あれには、魍魎の霊力を弱める香と、私の思念の一部を封じた依り代が入っています。もし、危険が迫った際は、必ずあなたの助けになるはず」
「は……はい」
凛冴には、契から気味悪く思われているという自覚はあった。それでも、凛冴は本気で彼女のことを心配していたのである。
契が去ってからも、凛冴は落ち着かなかった。契への危惧もあるが、館の環境が自分には合わないのだと実感している。
卓の横の座椅子に腰を下ろし、窓の外をぼんやりと見つめる。明日は朝早くから事件の調査を開始するつもりであったが、慣れない高級毛布ではすぐに寝付けそうにもない。
(あの子……大丈夫かな)
脳裡によぎるのは、契の顔。少し日焼けした小麦色の肌に、短めのバードテール型の髪型が印象的だ。
(また、犠牲者を出すことは防がなければ)
凛冴は、純粋に彼女を助けたいという想いに突き動かされていた。
凛冴は座椅子から立ち上がり、契の出ていった扉を見据える。そのまま、意を決した足取りで、扉をくぐった。
暗い回廊の中。気配を押し殺して忍び歩く、凛冴。
消灯時間を過ぎていたが、幾つかの部屋でまだ仕事を続けているメイドたちが起きていた。だが、まるで闇と一体化したような凛冴の動きは、並の人間が相手ならば、まず気取られることも無い。
凛冴は契の様子を窺い、一先ずの無事を確かめるつもりであった。まだ魍魎は活発化していなかったが、いつ動き出すかもわからない。
(この匂い)
凛冴は人の匂いというものに敏感であった。
廊下の曲がり角、この先に契の部屋がある。様子を見ようと近寄ったが、ふと別の気配を感じ、足を止める。
(あれは……)
凛冴は傍らの階段の影になっているところへ、身を隠した。廊下を歩いてきたのは……杏樹だった。
杏樹の冷たい表情が、廊下の足元を照らす弱々しい照明を反射して、青白く映っていた。
息をひそめて杏樹の動向を観察する凛冴。杏樹は凛冴の存在に気付いた風もなく、そのまま契の部屋のある方へ向かっていく。
暫しの間、凛冴は微動だにせず、じっとしていた。程なくして、杏樹が元来た道を引き返してきた。
……また、別の誰かが近づいてくる。杏樹が立ち去り、入れ替わりに現れたのは――現当主、肇慶。
(鬼峰?)
凛冴は違和感を覚えていた。肇慶に対する契の影と似たような気配は先ほども感じていたが、それとは違う、得体の知れない何か――。
肇慶は角を曲がり、契のいる部屋の方へ歩いていった。メイド長の杏樹はともかく、当主である肇慶が夜遅くにこんな場所を徘徊しているというのは、不穏な気がしてくる。
(今すぐ、動くべきか。それとも……)
相手はこの館の最高責任者だ。下手に騒動を起こせば、今回の事件から外されるかもしれない。それでも、凛冴には、今感じている危機感から目を背けるのが躊躇われた。
(せめて、動向を見届けるだけでも)
意を決した凛冴は、そっと廊下に出て、肇慶の後を追う。
(……あ)
曲がり角に差し掛かったところで、聞こえてきたもの。それは……女性の喘ぎ声。
契の声だ。
凛冴は慎重に覗き込む。見ると、契を背後から羽交い絞めにした肇慶が、彼女のメイド服の中に両手を潜り込ませ、乳房と秘部を弄んでいた。
「うぅ……あ……ふぁぁ……」
契の理性はすっかり蕩けかかっており、細められた瞳は虚ろだ。契を愛撫しながらその様子を眺める肇慶は、口元に笑みを浮かべていた。
「きゃふぅぅぅ……は、あはぁ……かあ……ぁああん!」
ひときわ大きな嬌声。契は慌てて口元を抑え、誰かに聞かれてはいないかと周囲の様子を窺った。凛冴は契の視線から逃れるように、闇の中へ身を潜める。
「あ……あの、旦那様」
自分を抱いている当主に向かって、弱々しく哀願するような声を出す契。
「ん? ……なんだね」
「きょ、今日は危険日だって言いましたよね? それに、まだ仕事も残っておりますし、あの……どうか別の日に」
「ふん……杏樹には後で私から言っておく。契は気にしなくていい」
肇慶には、意に介する様子は全く無い。
「で、でも……」
「それとも、契は私とするのは嫌だというのかね?」
「いえ、決してそのようなことは。……ただ、私みたいな下賤な身の者では恐れ多いかと」
「そう、自分を卑下するのよしたまえ。契はとても良い子だよ。だからこそ……契には、私の子供を産んで欲しいと思っている」
「旦那様……」
凛冴は、肇慶と最初に顔を合わせた時点で、彼が館のメイドとの密事に及んでいることに、察しがついていた。恐らく、肉体関係があるのは、契一人ではあるまい。この館には、一人の庭師と、肇慶よりは年上と思われる杏樹以外には、不自然なほどに若いメイドの姿しか無かったというのもあるが、それ以上に、凛冴は臭いで感づいていた。
行為はどんどんエスカレートしていく。凛冴はその様子をつぶさに観察していた。
「旦那様……せめて……つ、続きは、部屋の中で」
契のか細い声。肇慶の求めに対して、もう観念した様子だ。
「そうだな。その方がゆっくり楽しめる。じゃ、行こうか」
肇慶と契が連れ立って、廊下の奥にある一室へと歩んでいく。その間、肇慶は契の背中に滑り込ませている腕を抜かず、彼女の肌を直にさすり続けていた。
このまま後をつけるべきか――逡巡する凛冴。だが、不意に現れた気配で、その考えも中断された。
《なぁにを、出歯亀やっているんだい、この女は》
暗がりの中で瞳を妖しく光らせている、三毛猫の姿。
「アイネ……」
凛冴にアイネと呼ばれた三毛猫は凛冴に向かって尾を向けると、てくてくと廊下を歩いていった。凛冴も諦めた様子で、アイネの後ろから付いていく。
《おやぁ? 続きは見ていかないのかい?》
悪戯っぽいアイネの言葉が、凛冴の心に這い込んできた。
「もう、いいよ」
ぼそりと呟く、凛冴。その言葉には、冷めた感情が吐露されている。
《まるで穢れを知らない、少女のような物言いだねぇ》
クスクスと笑うアイネ。三毛猫の喉もゴロゴロと鳴っていた。
唐突な出迎えだった。館の当主、鬼峰肇慶は事件当日からの連日の疲れで、凛冴とは明日の正午に会う手筈となっていたのであるが。
メイド長の佛木杏樹が話すところによると、凛冴の人柄や日ごろの生業の件を聞かされているうちに、肇慶がどうしても今すぐ会ってみたいと申し出たらしい。
「こちらです……」
杏樹の案内に従い、肇慶の待つ居間へ向かう凛冴。廊下を移動する途中、凛冴にあてがわれた部屋に寝具を運び入れていた契と会い、契は凛冴と杏樹に深々と辞儀をした。
凛冴は契とすれ違う際、先ほど食堂で対話していた時と同じ不穏な気配を察した。契本人には相変わらず自覚は無い様子だが、凛冴の危惧は増していく。
凛冴が居間に入った時、肇慶はソファに腰を下ろして、束ねられた書類に目を通している途中だった。奥には四角い門のような形状をした暖炉が備えられており、炎が煌々と燃えていた。
「旦那様、凛冴様をお連れしました」
杏樹がそう言うと、肇慶は書類をテーブルに置き、杏樹に目配せをした。杏樹は当主に深々と頭を垂れると、扉の外へ退いた。
「凛冴さん。まあ、立ち話もなんですから、こちらへかけてください」
肇慶が向かい側の席へ座るよう、凛冴を促す。凛冴は軽く会釈し、腰を下ろす。
「わざわざお越し頂いたのに、お待たせしてすみませんね。……ただ、私としても今回の件には頭を悩まされているものでして。一刻も早い解決を、と願っているのです」
肇慶は温和な声色で話し始めた。まだ外見上の年齢は三十代後半ぐらいと思われ、物腰は大分年を得ているような印象がある。
凛冴は黙していたが、注意深く相手の思惑を探っていた。契のものと同じ、おぼろげに揺蕩う影の残滓を感じていたからだ。
「あなたのことは杏樹から聞いています。何でも祓魔師として、悪霊の類を払っているとか」
「……私が祓うのは、人間の霊魂などではありません」
「そうですかな? 確か、杏樹の話では、要するにエクソシストと呼ばれる職種だそうで……」
「確かに、私が祓うものは時として悪魔や悪鬼と称されることもあります。ただ、西洋の教会に属するエクソシストとは違いまして。私の家も、元来、神道に根付いているものです。悪霊悪鬼……そう言われる存在の多くは、古くは神と呼ばれていたのですから」
「まあ、肩書などは何でも宜しい。あなたにこの一件を片付けられるかどうか……それが重要なのですから」
肇慶は一見理知的に見えるが、その一方で、まるで凛冴の身体の線をなぞりながら、値踏みをしているかのような視線を向けてくる。凛冴は背筋に冷たいものを感じていた。
「既にご存じと思いますが、我が鬼峰家は、鬼羅山に封じ込めたと伝えられている鬼の封印を守り続けてきた一族の末裔なのです。近年は、その教えも薄らいでいましたがね。……あの、六年前の大災害が起こるまでは」
「木途村を巻き込んだ鬼羅山の山崩れ、ですね」
肇慶は大きく頷いて見せた。
「そうです。あれは、事前に十分な調査が行われないままに土地開発を急いだがために起こってしまった。あの事故で木途村の住民はほぼ全滅……多くの尊い命が失われてしまいました。工事に関与していた私の父も巻き込まれてしまい、帰らぬ人に……」
肇慶に兄弟はなく、母親は事故の数年前に他界しており、他に跡取りはいなかった。それまで県外に出ていた肇慶は、親の葬儀のために館へ戻り、そのまま次期当主の座に納まったのだという。
「つむぎは……木途村の数少ない、生き残りの一人でした。身寄りのいなくなった彼女には、この館で働いてもらうことにしましたが、とても健気で……利口な、良い娘でしたよ。それが、あんなことになってしまいまして」
肇慶が沈痛な面持ちとなる。
「正直、あの事故の後も、私は半信半疑だった……鬼羅山の鬼の話などというものは。杏樹からは散々聞かされていましたがね。ただ……つむぎの惨状を目の当たりにして、私も考えを改めざるを得ない。己の果たさねばならない責任というものに対する使命感を、ね」
あの土砂災害は公けでは不慮の事故として片づけられたが、中には鬼の仕業と騒ぐ者もいる。結果として、鬼峰家の存在が世に広く知られるきっかけにもなっていた。
「だが、はっきり言って、私はこの分野においては門外漢だ。だから、きみのような専門家の力がどうしても必要なのです。……杏樹の受け売り、ですけどね」
凛冴の脳裡に、この館のメイド長の姿が思い起こされる。杏樹……彼女は、鬼峰家の役目を肇慶に教え込んだらしい。この館の事情を一番知っているのは、おそらく杏樹なのだろう。
(アイネは……何かを感づいていたらしいけど。あの庭師……)
アイネが散歩していた庭には、樹々の手入をしている初老の庭師の姿が垣間見えた。この館で見かけた一番の年長者と言えば、彼になるが……。
「杏樹に聞かされた話では、解き放たれた鬼がもたらす災厄を終わらせるには、もう一度彼奴を封じ込める他ない……と」
肇慶は両手をテーブルの上に乗せて前かがみになり、ソファから立ち上がった。
「方々を頼った末、見込みのある者はあなたしか見つからなかった……そう、杏樹は言いました。今の私には、あなたの力を信じるしかない。私はもう、つむぎのような犠牲者を出したくないのです。……どうか、宜しくお願いします」
深々と頭を下げる肇慶。凛冴も一礼し、強い意志を露わにして言う。
「はい、任せてください」
「私も出来るだけのことは致します。我が鬼峰家の使命を果たすためにも」
暖炉の火は消えかかっている。虚ろ気に揺れる火の光が、居間を弱々しく照らしていた。
時刻は夜の十一時を過ぎた頃。凛冴は寝室に戻っていた。凛冴が持ち込んだ荷物もここに置かれている。リュックサック一つ分であったが。
寝室には高級感のある黒色のレザーベッドが備えられている。馴染みの無い代物だった。
ベッドの傍らにある窓は崖と面しており、昼間は近くの街並みを見下ろすことができたが、今は深い霧がかかっていて、夜景はあまり見えなかった。
「何かございましたら、この鈴を鳴らしてくださいね。すぐに参りますので」
寝所を整え、部屋の掃除を終えた契が、古風な木版のついている電動式の呼び鈴を、卓の上にそっと置いた。
「……お守りは、持っていませんね」
「え?」
凛冴の発言に、首をかしげる契。少し間をおいて、凛冴に食事を出した際に渡された小袋のことを思い出したらしく、少し慌てた様子で話し始めた。
「あ……ああ、それは……わたしの部屋に、置いてあります」
凛冴が小さくため息をつく。
「あれには、魍魎の霊力を弱める香と、私の思念の一部を封じた依り代が入っています。もし、危険が迫った際は、必ずあなたの助けになるはず」
「は……はい」
凛冴には、契から気味悪く思われているという自覚はあった。それでも、凛冴は本気で彼女のことを心配していたのである。
契が去ってからも、凛冴は落ち着かなかった。契への危惧もあるが、館の環境が自分には合わないのだと実感している。
卓の横の座椅子に腰を下ろし、窓の外をぼんやりと見つめる。明日は朝早くから事件の調査を開始するつもりであったが、慣れない高級毛布ではすぐに寝付けそうにもない。
(あの子……大丈夫かな)
脳裡によぎるのは、契の顔。少し日焼けした小麦色の肌に、短めのバードテール型の髪型が印象的だ。
(また、犠牲者を出すことは防がなければ)
凛冴は、純粋に彼女を助けたいという想いに突き動かされていた。
凛冴は座椅子から立ち上がり、契の出ていった扉を見据える。そのまま、意を決した足取りで、扉をくぐった。
暗い回廊の中。気配を押し殺して忍び歩く、凛冴。
消灯時間を過ぎていたが、幾つかの部屋でまだ仕事を続けているメイドたちが起きていた。だが、まるで闇と一体化したような凛冴の動きは、並の人間が相手ならば、まず気取られることも無い。
凛冴は契の様子を窺い、一先ずの無事を確かめるつもりであった。まだ魍魎は活発化していなかったが、いつ動き出すかもわからない。
(この匂い)
凛冴は人の匂いというものに敏感であった。
廊下の曲がり角、この先に契の部屋がある。様子を見ようと近寄ったが、ふと別の気配を感じ、足を止める。
(あれは……)
凛冴は傍らの階段の影になっているところへ、身を隠した。廊下を歩いてきたのは……杏樹だった。
杏樹の冷たい表情が、廊下の足元を照らす弱々しい照明を反射して、青白く映っていた。
息をひそめて杏樹の動向を観察する凛冴。杏樹は凛冴の存在に気付いた風もなく、そのまま契の部屋のある方へ向かっていく。
暫しの間、凛冴は微動だにせず、じっとしていた。程なくして、杏樹が元来た道を引き返してきた。
……また、別の誰かが近づいてくる。杏樹が立ち去り、入れ替わりに現れたのは――現当主、肇慶。
(鬼峰?)
凛冴は違和感を覚えていた。肇慶に対する契の影と似たような気配は先ほども感じていたが、それとは違う、得体の知れない何か――。
肇慶は角を曲がり、契のいる部屋の方へ歩いていった。メイド長の杏樹はともかく、当主である肇慶が夜遅くにこんな場所を徘徊しているというのは、不穏な気がしてくる。
(今すぐ、動くべきか。それとも……)
相手はこの館の最高責任者だ。下手に騒動を起こせば、今回の事件から外されるかもしれない。それでも、凛冴には、今感じている危機感から目を背けるのが躊躇われた。
(せめて、動向を見届けるだけでも)
意を決した凛冴は、そっと廊下に出て、肇慶の後を追う。
(……あ)
曲がり角に差し掛かったところで、聞こえてきたもの。それは……女性の喘ぎ声。
契の声だ。
凛冴は慎重に覗き込む。見ると、契を背後から羽交い絞めにした肇慶が、彼女のメイド服の中に両手を潜り込ませ、乳房と秘部を弄んでいた。
「うぅ……あ……ふぁぁ……」
契の理性はすっかり蕩けかかっており、細められた瞳は虚ろだ。契を愛撫しながらその様子を眺める肇慶は、口元に笑みを浮かべていた。
「きゃふぅぅぅ……は、あはぁ……かあ……ぁああん!」
ひときわ大きな嬌声。契は慌てて口元を抑え、誰かに聞かれてはいないかと周囲の様子を窺った。凛冴は契の視線から逃れるように、闇の中へ身を潜める。
「あ……あの、旦那様」
自分を抱いている当主に向かって、弱々しく哀願するような声を出す契。
「ん? ……なんだね」
「きょ、今日は危険日だって言いましたよね? それに、まだ仕事も残っておりますし、あの……どうか別の日に」
「ふん……杏樹には後で私から言っておく。契は気にしなくていい」
肇慶には、意に介する様子は全く無い。
「で、でも……」
「それとも、契は私とするのは嫌だというのかね?」
「いえ、決してそのようなことは。……ただ、私みたいな下賤な身の者では恐れ多いかと」
「そう、自分を卑下するのよしたまえ。契はとても良い子だよ。だからこそ……契には、私の子供を産んで欲しいと思っている」
「旦那様……」
凛冴は、肇慶と最初に顔を合わせた時点で、彼が館のメイドとの密事に及んでいることに、察しがついていた。恐らく、肉体関係があるのは、契一人ではあるまい。この館には、一人の庭師と、肇慶よりは年上と思われる杏樹以外には、不自然なほどに若いメイドの姿しか無かったというのもあるが、それ以上に、凛冴は臭いで感づいていた。
行為はどんどんエスカレートしていく。凛冴はその様子をつぶさに観察していた。
「旦那様……せめて……つ、続きは、部屋の中で」
契のか細い声。肇慶の求めに対して、もう観念した様子だ。
「そうだな。その方がゆっくり楽しめる。じゃ、行こうか」
肇慶と契が連れ立って、廊下の奥にある一室へと歩んでいく。その間、肇慶は契の背中に滑り込ませている腕を抜かず、彼女の肌を直にさすり続けていた。
このまま後をつけるべきか――逡巡する凛冴。だが、不意に現れた気配で、その考えも中断された。
《なぁにを、出歯亀やっているんだい、この女は》
暗がりの中で瞳を妖しく光らせている、三毛猫の姿。
「アイネ……」
凛冴にアイネと呼ばれた三毛猫は凛冴に向かって尾を向けると、てくてくと廊下を歩いていった。凛冴も諦めた様子で、アイネの後ろから付いていく。
《おやぁ? 続きは見ていかないのかい?》
悪戯っぽいアイネの言葉が、凛冴の心に這い込んできた。
「もう、いいよ」
ぼそりと呟く、凛冴。その言葉には、冷めた感情が吐露されている。
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