記憶を失くした冷血皇子を森で拾ったら、のんびりスローライフに波乱フラグが立ちました

初瀬

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第17章

離宮(2)夜の回廊と湯のほとり

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 その夜、ふたりは数人の使用人を伴い、物音がするという回廊の地下へ足を踏み入れた。
 薄暗い灯りのなか、古びた扉がひとつ、静かに佇んでいる。

 使用人によれば、その扉はふだん誰も使わないはずなのに、夕方に閉めたと思えば、翌朝にはいつの間にか開いていることが何度もあったという。

「ロー…で、殿下、ここに王家の誰かが幽閉されていたって……本当ですか?」
 キールがおそるおそる尋ねる。

「そんな話は聞いたことがない。よくある噂話だろう」
 ローレンツはあっさりと一蹴し、そばに控える使用人たちを見やった。
「それで、お前たちは確認もせずに放っておいたのか?」

「……はい。その噂のせいで、どうにも近寄る気になれなくて……」
「音はしても、誰も夜中に確かめに行こうとは……」
 使用人たちはそう言いながら、どこか気まずげに視線を逸らす。

 扉の前に立つと、確かに錠前が外れていた。
「……開いてる」

 キールは扉の隙間にそっと耳を寄せた、その瞬間。

「……にゃあ」

 とぼけた声が薄闇を破った。
 ふっくらとした灰色の猫がのそりと姿を現し、すん、と鼻を鳴らしてこちらを見上げる。

「……猫……?」

「どうやら、“幽霊”の正体はこいつだったようだな」
ローレンツは呆れたように眉をひそめる。
「回廊を通り道にしていたわけか。地下の音もこいつがネズミと格闘でもしていたんだろうな」

「まったく、くだらん」
 そう言って溜息をつくローレンツの隣で、キールはしゃがみ込み、猫を抱き上げる。

「この子、かわいい……!」
 目を輝かせながら声を上げたその様子に、周囲の空気がわずかに和らいだ。

 けれど次の瞬間、はっとしたように顔を向ける。
「で、でも、あのタペストリーは……? どうして、あんな不吉な図案を……?」

 問いかけに、対応していた離宮の執事があっけらかんと答えた。

「ああ、あれですか。去年、布が劣化して破れてましてね。新しく刺し直したんですよ。地元の刺繍師にお願いしました」

「刺繍師に……?」

「ええ、“見た目が綺麗な星座を選んで並べてみました”と、誇らしげに話しておられましたが?」

「…………。」

 キールは目を見開いたまま、言葉を失った。
 背筋を駆け抜けたあの冷たい戦慄と、母が遺した警告、それがただの美的センスの結果だったとは。

(……そんなことで、災厄の星図を知らずに再現してしまうなんて……!)

 偶然? それとも、星々の悪戯か。
 なんとも言えぬ気味悪さに、キールは小さく猫を抱きしめた。

 使用人たちが去り、残された空間にしばしの沈黙が落ちた。
 灰色の猫はキールの腕のなかで気ままに喉を鳴らしている。

 その様子を見ながら、ローレンツがわずかに口角を上げた。

「これで、幽霊騒動も無事解決だな」
 わざとらしい安堵の息をついて、どこかからかうような声音だった。

「……っ! からかうなよ」
 キールはむっとしたように顔を赤らめ、猫の耳のあたりを撫でながら視線をそらす。

「いや、まさか本気で怖がってたとは思わなかったから」
 ローレンツは笑いをこらえるように喉を鳴らし、「それも化け猫かもしれないぞ」と冗談めかして言い添えた。

「へ……変なこと言わないで!」
 キールがふくれっ面で言い返すと、猫はちょうどローレンツの足元へとふいっと降り立ち、すん、と鼻を鳴らして回廊の向こうへ去っていった。

 その後ろ姿を目で追ったローレンツは、肩の力を抜くようにひと息つく。
 そしてそのまま、くるりと扉のほうへ向き直り、肩越しに言った。

「じゃあ、さっきの一件も済んだことだし、温泉でも行くか?」

 静かに差し出されたその言葉に、キールの胸がぽっとあたたかくなる。
 ローレンツとの距離がまた少し近づいた気がした。

「……うん」素直な笑みを浮かべて、キールはうれしそうに頷いた。



 離宮の奥庭。
 風の音もやわらぎ、夜の静けさが肌に心地よく触れるなか、ふたりは敷石の小径を並んで歩いていた。
 薄く立ちのぼる湯けむりが、庭の片隅に建つ湯殿を、ほのかな灯の中に浮かび上がらせている。

 中へ入ると思った以上に広々としていた。
 天井は高く、梁からは木の香りがほのかに漂い、壁の一部は開け放たれている。
 そこからは奥庭の闇と、淡く瞬く星々が覗いていた。

 「すごい……これが温泉……!」

 湯気に包まれた石造りの浴槽に目を奪われながら、キールが小さく息をのむ。
 薬草の香りが湯気に溶け込み、森の空気とはまた違ったやさしい気配があった。

 キールは服の裾に手をかけ、ふと動きを止める。
 ちら、とローレンツを見やったあと、目を逸らして口を開いた。

 「……あのさ、一緒に入るの? 俺……ローレンツが出てから入るよ」

 「中は広い。なぜ別々に入る?」
 ローレンツはあくまで平然としている。
 「なんなら、背中でも流そうか?」

 「い、いらないっ……!」

 口を尖らせて言い返すキールの頬は、すでにほんのり朱に染まっていた。
 追いつめられたように目を泳がせながら、観念したように服を脱ぎはじめる。

 そそくさと浴槽に向かい、逃げ込むようにそろりと湯に身を沈めると、湯気のなかで白い肩が小さく震えた。

 「……あったかい……」

 その声が少し上ずっているのを、ローレンツは小さく笑いながら聞いていた。

「慣れていないなら、長湯はするなよ」

 ローレンツの声に、キールはふと顔を上げた。
 あの森の小屋で何度も見たはずの、その身体が視界に鮮やかに飛び込んでくる。

 細身でありながら鍛え上げられた胸板。
 凛と伸びる長い手足。
 筋肉の陰影がまるで彫刻のように美しかった。
 思わず息をのむ。

 ローレンツは無造作に浴槽の縁に腰掛け、ゆっくりと体を湯に沈めた。
 その一つひとつの動作が、キールの心臓の鼓動を速めていく。

 キールも知らず知らず、肩まで湯に浸かる。
 じわりと熱が身体に染みわたりながらも、胸の奥はまるで煮られているかのように熱く焦がれていた。

 視線は何度もローレンツの裸体に吸い寄せられ、乱れる鼓動を必死に隠しつつ、
 ただ静かに湯の温かさに身を委ねていた。

「顔が赤いな。大丈夫か?のぼせたんじゃ……?」

「うん、大丈夫……これくらい……あれ……?」

 言い終わらぬうちに、視界がふらりと揺れた。
 湯に浸かりすぎたのか、頬が熱くなり、頭もぼうっとしてくる。

「キール!」

 ローレンツの声が耳に届いた瞬間、世界が傾く。
 気づけば、裸のまま、裸のローレンツの腕の中に抱かれていた。

「……!!!」

「ああもう……言っただろう、油断するなと」

「だ、だって……それに近すぎるよ!っていうか、裸で……!」

「温泉なんだから、当たり前だ」

 落ち着き払って言うローレンツに、キールはどうにも反論できない。
 だけど、どうしても視線が定まらない。
 それは湯にのぼせたせいか、ローレンツのせいか、もう分からなかった。
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