左遷も悪くない

霧島まるは

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5巻

5-1

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 1 妻のおなかに触れる男


「おはようございます、ウリセス」

 ウリセス=アロは、妻にそう声をかけられる──夢を見た。
 反射的にパチリと目を開けた自分に気がつき、彼はさっきの声が現実ではないことを理解した。
 部屋の暗さと体内時間から、まだ真夜中だろう。
 暗くても分かる。ここは彼の寝室ではない。もっと正確に言えば、彼と妻の寝室ではない。
 寝台の広さが違う。ぬくもりが違う。匂いが違う。夏の最終日とは言え、夜の気温は彼がおのれの身で覚えているものより一段低い。
 それもそうだろう。いまウリセスがいるのは、自国ミルグラーフではない。つい三年前まで剣を交えていた敵国、ベキア王国なのだから。
 嫌な予感と気配はウリセスの産毛うぶげ逆撫さかなでる。寝台から起き上がり剣を握る。優雅ゆうがに寝間着など着てはいなかった。軍服のまま、いつでも臨戦態勢に入る準備はできていた。


 ウリセス=アロは、ミルグラーフ王国の軍人である。
 ベキア王国との八年にも及ぶ戦いの中、鬼神のごとき活躍で昇進の道を駆け上がったものの、終戦後にあっさり南西部の田舎町に左遷された、世渡りの下手な男でもある。現在の肩書は連隊長という立派なものだが、実際率いている兵数はその肩書からすると少ない。見栄えのいい肩書を与えられただけということは、彼自身よく知っていた。
 だが彼は、左遷先で不幸だったわけではない。妻をめとり、頼もしい義兄弟と出会い、有能な補佐官も得た。長らく疎遠そえんにしていた年の離れた妹とも、縁あって何とか一緒に暮らしている。そしてもうすぐ、初めての子供が生まれる予定だった。
 一部を除いては、穏やかで幸福だったと言っていいだろう。しかしそのたった一部は、これまでずっとウリセスのどこかにまとわりついてきた。
 彼はそれを打ち払うために、国境を越えて異国まで来たのだった。


「おはようございます、ウリセス」

 時はさかのぼり、夏の下月しもつき十三日。いつも早朝五時に目が覚めるウリセスは、寝台の隣で同じ時に目を覚ました妻に声をかけられた。

「ああ……おはよう、レーア」

 ゆっくりと寝返りをうってこちらを見る妻は、薄い掛布を大きなおなかで持ち上げていた。いまにも張り裂けるのではないかと思うほどのそのおなかに、彼はそっと手をのせる。来月の初めには生まれる予定だ。
 隣国ベキアとの停戦記念式典に招集されることが決まってから毎朝晩、ウリセスは妻のおなかに触れるようにしていた。
 彼は出産予定日に、このレミニの町にいることは出来ない。陣痛で苦しむ妻の部屋の外で、熊のようにウロウロと歩き回ることも出来ないし、赤ん坊の産声うぶごえを聞くことも、産婆と妻の次に赤ん坊を抱くことも、痛みに耐えて子を産んだ妻をすぐにねぎらうことも出来ない。
 それならばせめて出立の日まで、まだ見ぬ我が子と妻に毎日触れておきたかった。
 大きな手のひらを注意深くレーアのおなかに当てると、時折不思議な振動を感じることがあった。その正体が最初は分からなかったが、妻に「いまおなかを蹴飛ばしました」と教えられ、驚きと共に理解した。
 臨月りんげつになり、それは本当に顕著けんちょになったという。決して長い時間触れているわけではない彼が、それに遭遇出来たのだから。夏用の薄い夜着のせいかもしれない。一度などはこれは本当に足ではないかと思えるほど、触っていた彼女のおなかの形が変わったことがあった。
 さすがに心配して、「中から蹴られて、腹は大丈夫なのか?」と聞いたが、妻は何とも困った笑みを浮かべながら大丈夫だと答えた。蹴られても問題はないが、感触としては形容しがたいもののようだ。
 今朝はまだ赤ん坊は寝ているのか、触れるおなかの感触も静かだった。

「無理に起きなくてもいいぞ」

 見ているのが心配になるほどの大きな腹で、レーアは起き上がろうとする。

「大丈夫です。最近は体調がとてもいいんですよ」

 彼女は笑ってそう言うので大丈夫なのだろうが、ウリセスの目からは言葉通りには見えないので困る。ひとつの動作をすることが、いままでよりもっと遅くなり、寝台に座ることすら「ふぅ」と息を吐いている様子を見れば、それもやむを得ないだろう。
 せめて一緒に階段を降りるくらいはしようと、彼は自分の着替えを終えて妻を待った。
 自分が不在の間は一階の客間を寝室として使うのはどうかと、先日、ウリセスは提案した。その他の事情も踏まえて打ち合わせをした後、その方向で話が決まった。階段の上り下りがなくなるだけでも、ウリセスは少し安心出来る。
「その他の事情」の方は、ウリセスの不在時にこの家を守るために必要な準備だった。
 彼の家には現在、妻と実の妹のジャンナが暮らしている。年の離れた妹はもともと都の実家にいたのだが、家を継いだ一番上の兄と大喧嘩おおげんかをして、遠いこの地まで家出をしてきたという、問題のある娘だった。いまではすっかりこの家に馴染なじんだが、ウリセスの目から見ればまだまだ危なっかしい。
 だが家事という点においては、夫のウリセスよりも明らかにレーアの役に立っていることは間違いなかった。
 ただジャンナも、か弱い女であることは間違いない。片や臨月の妊婦の妻、片や年若い妹。その二人を置いていくことを、ウリセスが心配せずにいることは不可能だった。
 更に言えば、ウリセスには敵がいる。彼の曲がらない性質をかたきにする中央の貴族だ。それは彼の左遷の大きな原因でもあった。
 過去に都の実家が狙われそうになったこともあるため、ウリセスはその敵を見過ごすことは出来なかった。不在の間、家族に隙があるとよからぬおおかみを呼び寄せる可能性を生む。
 それらの問題を引き受けてくれるのが、妻の実家であるコンテ家である。結婚した後、レーアの義兄弟には何度となく助けられてきた。今回もまた、彼らの世話になることになっている。

「お待たせしました」

 着替えを終えた妻に左腕を貸し、右手には鍛錬用の木剣という出で立ちで、彼は妻をともなって寝室を出た。
 夏の五時過ぎ、外は明るくなってきているが、家の中にはまだあちこち薄暗いところが残っている。廊下ろうかなどがその最たる場所だろう。より用心してウリセスはゆっくりと歩く。
 階段に差し掛かり、彼は妻がちゃんと手すりに手をかけるのを確認してから一度妻の顔を見る。レーアもまた夫を一度見て息を合わせてから一歩ずつ降りる。
 いまの彼女は、自分のおなかで足元が見えない状態だ。階段は普段の慣れを頼りに、足で探りながら下りなければならない。ウリセスの左腕が、ぎゅっと握られる。
 ウリセスとて、こんな妻を置いて家を空けなければならない自分に、心苦しさがないわけではない。後ろ髪を引かれないわけでもない。
 この朴念仁ぼくねんじんな男をして、結婚前と自分が変わったことを思い知る瞬間だった。おのれが石と鉄でできているわけではないことを知った。ただ国を守る軍人としてだけではなく、ウリセス=アロ個人として生きていることを思い知った。

「明後日には……」

 階段の最後の一段を、特にゆっくり下り終えた後、レーアがぽつりとそう言った。

「い、いいえ……何でもありません」

 左腕からそっと妻が離れそうになったので、空いてしまった左手でもう一度妻の肩を抱いて引き寄せ、ぽんぽんと叩く。

「……」

 これまでの人生で、気の利いた言葉が話せた試しがない。レーアが何を言いたいか分かっているというのに、それにうまくこたえられない。
 そして彼は妻から離れ、階段の脇から奥庭へと向かった。これから台所へ向かう妻が足を止めたまま、自分を見ているのが分かる。
 外に出る直前、ウリセスは扉を半分開けて外の光を屋内にわずかに引き込みながら振り返る。
 妻は、小さく微笑んでいた。
 明後日──それは、ウリセスが隣国ベキアに向けて出立する日だった。


「前からお願いしていた通り、今夜お邪魔します」

 始業前、ウリセスが連隊長室に入ると、補佐官のエルメーテが挨拶の後にそう切り出してきた。
 これまで何度も何度も念を押されていたので、忘れるはずもなかった。補佐官は夕食に招かれることについて念を押しているというよりは、明後日からの長期出張に自分が同行することへの最終確認をしているように、ウリセスには感じられた。
 今回、ウリセスが隣国との停戦記念式典への出席を決めるのは早かった。元より中央からの招集である。本人が重病、あるいは管轄地域に深刻な不安があり動けないというような、よほどの理由がないと断ることは不可能だ。
 事前に式典の情報を得ていたこともあり、ウリセス自身の覚悟は決まっていたが、彼には仕事上もうひとつ考えなければならないことがあった。
 それは、エルメーテを同行させるかどうか、ということだ。
 連隊長補佐官であるエルメーテは、事務能力と情報管理においてズバ抜けた力を持っている。社交性が高く、行動は抜け目がない。日常生活でこなせる仕事の範囲も広く、非常に役に立つ男だった。
 だがそんな彼にはただひとつ、大きな欠点がある。
 それは、腕っぷしがとにかく弱い、ということだ。
 何度か無理に引っ張っていって直接訓練をつけたことがあるが、その腕前は新兵に毛が生えた程度。頭で基礎は理解しているものの、その通りに身体を動かせない。基礎訓練が圧倒的に足りていなかった。
 ウリセスの指示で、多忙な時期でなければ二日に一度は基礎訓練に参加させているとはいえ、本人のやる気が低ければ、身に付きづらい。
 今度ウリセスが行くところは敵国である。現在は交戦中ではないため、形式上は隣国と言う表現を使うが、実質的には互いが互いを疑い監視し続けている状態だ。
 停戦の記念式典を共同で開催するのも、多くの思惑が入り乱れた結果である。二国の仲がいいか悪いかは、二国だけの問題ではない。その他の国境を接した国、接していなくとも無関係ではない国が、間諜スパイなどを放って常に監視している。
 現時点でこの二国は、握手をしているように見せていることが互いにとって都合がいいから、そうしているだけのことだった。
 そんな表面上の笑みを浮かべている敵国に、ウリセスは行かねばならない。しかも、背後から味方に斬りつけられる危険がある状態で、だ。
 ウリセスが左遷されるきっかけを作った貴族は、中央の軍でふんぞり返っている。
 前を見ても敵、後ろを見ても敵。そこへ、自分の身も守れない補佐官を連れていくことは、ウリセスにとって非常に頭の痛い問題だった。
 式典へ出席するよう通達書が届いた日、彼はエルメーテに向かってこう言った。

「荒事が起きる可能性が高い。しかも、こちらが不利な状況で、だ」

 補佐官はこう答えた。

「ええ、よく知っています。知った上で同行を申し出ています」

 エルメーテは、一歩も引かなかった。

「乱戦で死ぬと分かっている部下を、連れては行けない」

 その言葉に、補佐官は頬をぴくっとひくつかせた。男としての自尊心が傷ついたのだろう。だが、少しの沈黙の後、エルメーテはそのひきつりを消してこう言ったのだ。

「危なくなったら、僕は逃げも隠れもします。テーブルの下だろうが、暖炉の灰の中だろうが、恥も外聞がいぶんもなくそうします。そこが僕と連隊長閣下の大きな違いです」

 剣を持って戦うだけが男ではないのだと、エルメーテはこれまで何度となくその姿を彼に見せてきた。ウリセスがウリセスとしてしか戦えないように、エルメーテもまたエルメーテとしてしか戦えないことを、彼に言葉で伝えようとする。
 そしてついに、ウリセスは「分かった」と答えた。
 補佐官はそれに、一瞬動きを止めて天を仰ぎ、大きな吐息をつきながら再びウリセスへと視線を戻し、今更ながらに部下ぶって「ご理解いただけて恐縮です」と答えたのだった。



 2 義妹を見守った女


 その日レーアは、夕食が出来上がる過程を、台所のはしに置いた椅子に座ってゆったりと眺めていた。
 夏の台所は特に暑い。たとえ窓を開けて風を入れたとしても、火を使うために料理人はどうしても汗だくになるのを避けられない。
 ここでの主役は、レーアではない。彼女の義妹であるジャンナだ。ジャンナは今日の午後の予定を全て無しにして、料理に向き合っている。
 義妹は、もう台所の芋虫いもむしではない。彼女はここを自由に飛び回れるちょうになっていた。最初は、レーアに教えられるばかりだった。やる気もそれほどなく、成長は遅いかのように思われた。
 そこへ、エルメーテという起爆剤が現れた。ジャンナは彼に恋をし、浮かれた挙句、恋の相手であるエルメーテ自身に、一度強い言葉で叩き潰された。
 ここから、彼女は戦う力として料理を身に付けようとした。ウリセスが剣の稽古けいこをするように、ジャンナは包丁を握るようになったのである。
 そしてレーアの妊娠が、とどめとなった。
 戦う手段から家族を守る手段として、ジャンナは本当に責任を持って家事に取り組んだ。自分がやらなければ、食事が出来ないかもしれないという環境が、義妹を育てたことは間違いない。
 そしてジャンナは、レーアに教えられるばかりではなく、自ら新しい料理に挑戦し始めた。レーアの友人でありエルメーテの妹でもあり、料理屋の娘でもあるエリデにレシピを伝授され、この家の食卓に花を咲かせ始めた。
 彼女らしい明るいいろどりと、はっきりした味付け。料理には性格が出ると聞いたことがあったが、これほど違うのかとレーアが驚くほどだ。
 そんなジャンナが、今夜の料理のために懸命に腕を振るっているのを、レーアはもはや何の心配もなく、それどころか頼もしいと思いながら見守っていた。
 焼いたパンの上に潰したニンニクを塗り、塩、コショウで味つけしたカラフルな夏野菜を刻んで載せるブルスケッタ。オレンジ色が食欲をそそるカボチャのリゾット。豚肉のステーキを焼き、アーモンドとバジルを絡めてこうばしく仕上げる。
 パスタ生地にチーズやソーセージを挟み、多めの油で揚げるフリッターを作る時など、ジャンナは額に汗を浮かべながら最前線の兵士のように勇敢に戦った。揚げ料理は温度管理が難しく、普通の料理よりも更に気をつけることが多い。ジャンナを脅かすようにバチッと油が弾ける。それでも義妹は一歩も引かなかった。
 そして──ジャンナが一番最初に覚えた、塩漬け肉のシンプルなスープを完成させる。
 レーアは、その姿を最初から最後までちゃんと見ていた。義妹の成長の集大成であるそれらの料理は、まるで本当に花畑のようだった。色とりどりの料理の花が咲き乱れ、その根本には最初に覚えたスープという名の安定した地面がある。

「で……きた」

 ジャンナは、タオルでぎゅっと自分の顔をおさえた。決して男には見せられない、台所で戦い切った女の顔だった。

「お疲れ様、ジャンナ」

 そう声をかけると、義妹ははっとレーアの方を振り返った。すっかり料理に没頭していて、そこに彼女がいることさえ忘れていたかのような顔だった。

「レーア義姉ねえさん、どう? どう?」

 ジャンナは出来上がった皿を持ち上げてレーアに見せようと必死だった。だが、どの皿を持ち上げればいいか分からないかのようにオロオロとしている。

「落ち着いてジャンナ。どれもとてもおいしそうよ」

 そう笑って声をかけると、おなかの中が大きくぐにっと動いた。赤ん坊におなかを蹴られた瞬間だった。
「ふふ、あんまりおいしそうな匂いがするから、この子も食べたくてしょうがないみたいね」と張りつめたおなかを撫でて見せると、ジャンナはやっと笑った。

「早く出てらっしゃい、食いしん坊さん。おいしいご飯をいっぱい食べさせてあげるわよ」

 そうして義妹は、大きなおなかに向かって語り掛ける。ジャンナは叔母としては、レーアよりも先輩だった。都の実家においめいがいて、小さい子の面倒を見ることも嫌いではなかったようだ。
 これから子供を産むレーアにとっては、ジャンナは心強い協力者だった。義妹が家事を身に付けたいま、これから数多く助けられることになるだろうと、レーアは強く確信したのだった。


「ようこそ、いらっしゃいませ」

 仕事を終えて帰宅したウリセスと客人であるエルメーテを、ジャンナは万全の準備で出迎えた。
 調理の時の汗など、もはや微塵みじんも残っていない。綺麗きれいに化粧をし、髪を整えた美しい姿だった。

「本日は、お招きいただきありがとうございます。アロ夫人、ジャンナ嬢」

 それにエルメーテも、完璧な挨拶あいさつで返す。にこやかなその笑みは、いまのジャンナの姿にとても満足しているようにレーアの目に映った。
 二人の攻防は、冬からずっと続いていた。近すぎず遠すぎず、エルメーテの作った「節度」という名の強い境界線を挟んで互いに向き合ってきた。そのジャンナが、とてもにこやかにエルメーテに対応している。

「どうぞ、こちらへ。料理の準備はできてます」

 そして澄ました顔で、食堂へとエルメーテを案内する。ウリセスは、レーアに腕を貸すために玄関に残っていたので、自然に二つの組に分かれることになる。

「……自信作か?」

 ウリセスが、ちらりとレーアを横目で見ながら低い声で問いかける。それに彼女は、ぷっと笑ってしまった。あのジャンナの態度は、夫にはそう見えるのかと思うとおかしかったのだ。

「自信作の料理には間違いないですね……ただ」

 口元の笑いを左手で隠し、右手で夫の腕を取りながらレーアはこう続けた。

「今日のジャンナは、彼女自身の何もかもが自信作でしょうね」

 「……すごいな」
 食卓にずらりと並ぶ料理を見て、さすがのウリセスでさえそう呟かざるを得なかったようだ。
 食前酒を振る舞い終え、堂々とジャンナが最後の席につく。この堂々と、というところがいかにもジャンナらしかった。
 エルメーテは、食卓の上の全てを見ながらも、まだ何も言葉を放たない。
 ジャンナが席についてひと呼吸置いてから、この家のあるじであるウリセスが「遠慮せずに食べてくれ」と皆に食事を促した。
 レーアを除く三人は、食前酒に口をつける。レーアには酒ではなく、レモン水が用意されていた。ほのかな酸味とレモンの香りが、食欲をそそる。
 食前酒が落ち着くと、ついに料理に手がつけられ始める。フォークを手にしながらも、レーアはこの時、ジャンナよりも緊張していたかもしれない。いや、やはりジャンナが一番緊張していたに違いない。エルメーテが最初にブルスケッタを手に取り、ひとしきりパンの上のあでやかな具材を眺めた後に、半分ほどをその口に入れて噛み切ったからだ。しっかりと噛みしめているエルメーテに、この時ばかりはレーアもちらちらと視線を送っていた。
 ごくりと食べ物を呑み込む喉の動き。その口が再び開くまで、レーアはとても長い時間に感じられた。
 そして、エルメーテは言った。

「とてもおいしいですよ……ジャンナ嬢」

 点数は、なかった。点数をつけることは失礼だと言わんばかりに、彼は静かにしっかりとジャンナに語り掛ける。それに少しぼうっとしかけた義妹の表情が、はっと引き締まる。

「ありがとうございます、でも、まだまだです」

 ジャンナの返事はどこか、空々そらぞらしいものだった。「どうせここで喜んだら、途端に点数を減らすんでしょ」という疑いをぬぐい去っていない。レーアも、おそらくその通りだと思っていた。
 しかし、エルメーテが彼女の料理に満足しているのは間違いなかった。レーアはそれが嬉しくて、ようやく食事に手をつけることが出来た。
 おいしい食事と、静かな雑談。
 何故、今日ジャンナがこんなに頑張って食事を作ったのか、食堂にいる他の三人は全員その意味を理解しているので、誰もそれについて疑問を投げかけることはない。ただ四人一緒に過ごすこの時間を、みな存分に楽しもうとしている。
 ウリセスは途中で席を立ち、棚から新しい酒のボトルを手に取って戻ってきた。

「飲むか?」
「いただきます」

 短くエルメーテとやり取りをして、男同士うまい料理をさかなに酒をみ交わす。いつもと少し違う空気の中で、四人はとても穏やかな時間を過ごした。
 誰一人として、「明後日」以降の話をすることはなかった。


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