1 / 53
序章
しおりを挟む
知らない、ということはある意味、生きていく上で一番の強みになり得る。例えば仲良くしていると思っていたはずの友人が、知らぬ所で陰口を叩いていたり、例えば親密な関係にあると信じていた異性には、別の相手がいたり。例えば、この世には「吸血鬼」が確かに存在し、人知れず生き血を啜る機会を窺っている、という事実も、知らなければ、それは取るに足らないことなのだ。
ガチャリ、と重たい音を立てて鍵を閉めた。ドアを見つめたまま、深いため息を落とす。
「大丈夫、頑張れ」
そう自分に言い聞かせて、吐き出した分の空気を吸い込む。生温い空気が肺を満たすが、生きている実感は湧いてこない。毎日のルーティンとも呼べる行動を終えて、やっと私はドアに背を向けた。長く続く無機質な廊下が、せっかく吸い込んだ空気を逃がしてしまう。
重い足を一歩一歩進め、安全な自宅から、遠ざかっていく。
「おはよう、葉月ちゃん」
後ろから突然声をかけられて、思わず体が大きく震えてしまう。大げさに驚いた私を見て、声をかけてきた張本人である坂口さんもまた、驚いた顔を浮かべていた。
「ごめんね、驚かせちゃったかな」
そんなこと、と言いながら小さく手を左右に振って見せた。情けなくて、彼の顔すらも見れずにいる私に、彼は優しく笑って見せる。
「今度からは、前に回り込んでから声をかけるようにするよ」
「それはそれで、びっくりしますね」
平常心を装っているが、早まる鼓動がそれをいつも以上に難しくさせた。人と話すのは、未だに苦手だ。そもそも話している相手が本当に「ヒト」なのかもわからないという恐怖が、じわじわと足元からよじ登ってくるようだ。
いつも感じのいい微笑みと口調で声をかけてくれる坂口さんは、私の働く小さな本屋の店主だ。今時珍しい、個人経営の店だが、その小規模さ故か、それとも坂口さんの趣味故なのか、他の書店では取扱いのないような貴重な書物なども扱っているとかで、経営は何とか成り立っている状況らしい。
人づきあいが恐ろしく苦手な私は、大学卒業と同時に、この坂口書店へ就職をした。十代の頃から行きつけだったその本屋は居心地がよく、何故か落ち着く空間だった。もともとの本好きもあって、私は毎週のように足を運んだ。やがて、当時はまだ店主ではなかった坂口さんに声をかけられるようになった。
最初のうちは、彼が何故話しかけてくるのかがわからず、ただ怖くて、逃げる様にその場から立ち去った。そんな私に、彼はめげる事なく顔を合わせる度に優しく声をかけ続けた。初めて声をかけられてから、恐らく数か月が経った頃、私はようやく、首を縦か横に振る以外で、彼の言葉に答えた。その時彼が見せた花のように明るい笑顔は、きっと一生忘れないだろう。
「はい、どうぞ」
ドアを押さえて、私を先に通してくれる。ありがとうございます、と軽く頭を下げると、彼はにこりと笑って頷く。
「あれ、そう言えば。店長、どこから来たんですか」
肩にかけていた鞄をレジカウンターの下へ置きながら尋ねた。
坂口書店は、店舗兼住まいになっているので、彼は店舗の二階にあたるところで生活をしている。九時の開店に合わせて出勤をする私を、彼はいつもレジの奥で出迎えた。まだ私が、客だった頃と同じように。
「やっと気付いてくれたか」
そう笑って、彼は眉尻を下げる。私より十も年上であるはずの彼の笑顔は、いつだって少年のように無邪気そのものだ。
「ほら、これ買ってきた。後で食おうぜ」
そう言って、彼は私の鼻先に手に提げていたビニール袋を掲げる。
「何ですか、これ」
「何ですかって……。まったく、若い乙女が何言ってんだ。この前テレビでも特集組まれてた、生カステラだよ」
そうですか、と答える私の目の前から袋を引込めると、入れ替わりで彼の顔が近づいてくる。腰を屈めて顔を近付けた彼は、呆れた目をしている。
「いやいや、そこはもっと盛り上がろうぜ。カステラだぜ? しかも、生。な?」
「何が、な? なんですか。私、別に甘い物は……っていうか、近すぎます」
三歩、後ろへ下がった私を見て、彼は更に呆れた顔をする。曲げていた腰を伸ばすと、袋を持っていない方の手を私の頭へと乗せる。
「そうか、お前ポテチ派だもんな。忘れてた。今度は、生ポテチを買ってきてやる」
ため息をついて、彼はくるりと背を向けた。そしてレジ横から奥のバックヤードへと入って行った。冷蔵庫を開ける音が微かに聞こえたので、生カステラとやらを仕舞ったのだろうと思った。
「生ポテチって……じゃがいもじゃん」
ひょこっと顔を出して、悪戯っ子のような笑顔が浮かんだ。
「バレたか」
ガチャリ、と重たい音を立てて鍵を閉めた。ドアを見つめたまま、深いため息を落とす。
「大丈夫、頑張れ」
そう自分に言い聞かせて、吐き出した分の空気を吸い込む。生温い空気が肺を満たすが、生きている実感は湧いてこない。毎日のルーティンとも呼べる行動を終えて、やっと私はドアに背を向けた。長く続く無機質な廊下が、せっかく吸い込んだ空気を逃がしてしまう。
重い足を一歩一歩進め、安全な自宅から、遠ざかっていく。
「おはよう、葉月ちゃん」
後ろから突然声をかけられて、思わず体が大きく震えてしまう。大げさに驚いた私を見て、声をかけてきた張本人である坂口さんもまた、驚いた顔を浮かべていた。
「ごめんね、驚かせちゃったかな」
そんなこと、と言いながら小さく手を左右に振って見せた。情けなくて、彼の顔すらも見れずにいる私に、彼は優しく笑って見せる。
「今度からは、前に回り込んでから声をかけるようにするよ」
「それはそれで、びっくりしますね」
平常心を装っているが、早まる鼓動がそれをいつも以上に難しくさせた。人と話すのは、未だに苦手だ。そもそも話している相手が本当に「ヒト」なのかもわからないという恐怖が、じわじわと足元からよじ登ってくるようだ。
いつも感じのいい微笑みと口調で声をかけてくれる坂口さんは、私の働く小さな本屋の店主だ。今時珍しい、個人経営の店だが、その小規模さ故か、それとも坂口さんの趣味故なのか、他の書店では取扱いのないような貴重な書物なども扱っているとかで、経営は何とか成り立っている状況らしい。
人づきあいが恐ろしく苦手な私は、大学卒業と同時に、この坂口書店へ就職をした。十代の頃から行きつけだったその本屋は居心地がよく、何故か落ち着く空間だった。もともとの本好きもあって、私は毎週のように足を運んだ。やがて、当時はまだ店主ではなかった坂口さんに声をかけられるようになった。
最初のうちは、彼が何故話しかけてくるのかがわからず、ただ怖くて、逃げる様にその場から立ち去った。そんな私に、彼はめげる事なく顔を合わせる度に優しく声をかけ続けた。初めて声をかけられてから、恐らく数か月が経った頃、私はようやく、首を縦か横に振る以外で、彼の言葉に答えた。その時彼が見せた花のように明るい笑顔は、きっと一生忘れないだろう。
「はい、どうぞ」
ドアを押さえて、私を先に通してくれる。ありがとうございます、と軽く頭を下げると、彼はにこりと笑って頷く。
「あれ、そう言えば。店長、どこから来たんですか」
肩にかけていた鞄をレジカウンターの下へ置きながら尋ねた。
坂口書店は、店舗兼住まいになっているので、彼は店舗の二階にあたるところで生活をしている。九時の開店に合わせて出勤をする私を、彼はいつもレジの奥で出迎えた。まだ私が、客だった頃と同じように。
「やっと気付いてくれたか」
そう笑って、彼は眉尻を下げる。私より十も年上であるはずの彼の笑顔は、いつだって少年のように無邪気そのものだ。
「ほら、これ買ってきた。後で食おうぜ」
そう言って、彼は私の鼻先に手に提げていたビニール袋を掲げる。
「何ですか、これ」
「何ですかって……。まったく、若い乙女が何言ってんだ。この前テレビでも特集組まれてた、生カステラだよ」
そうですか、と答える私の目の前から袋を引込めると、入れ替わりで彼の顔が近づいてくる。腰を屈めて顔を近付けた彼は、呆れた目をしている。
「いやいや、そこはもっと盛り上がろうぜ。カステラだぜ? しかも、生。な?」
「何が、な? なんですか。私、別に甘い物は……っていうか、近すぎます」
三歩、後ろへ下がった私を見て、彼は更に呆れた顔をする。曲げていた腰を伸ばすと、袋を持っていない方の手を私の頭へと乗せる。
「そうか、お前ポテチ派だもんな。忘れてた。今度は、生ポテチを買ってきてやる」
ため息をついて、彼はくるりと背を向けた。そしてレジ横から奥のバックヤードへと入って行った。冷蔵庫を開ける音が微かに聞こえたので、生カステラとやらを仕舞ったのだろうと思った。
「生ポテチって……じゃがいもじゃん」
ひょこっと顔を出して、悪戯っ子のような笑顔が浮かんだ。
「バレたか」
0
あなたにおすすめの小説
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結保証】
星森 永羽
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】お父様の再婚相手は美人様
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
シャルルの父親が子連れと再婚した!
二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。
でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる