砂に描いた夢

Bella

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序章

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 知らない、ということはある意味、生きていく上で一番の強みになり得る。例えば仲良くしていると思っていたはずの友人が、知らぬ所で陰口を叩いていたり、例えば親密な関係にあると信じていた異性には、別の相手がいたり。例えば、この世には「吸血鬼」が確かに存在し、人知れず生き血を啜る機会をうかがっている、という事実も、知らなければ、それは取るに足らないことなのだ。


 ガチャリ、と重たい音を立てて鍵を閉めた。ドアを見つめたまま、深いため息を落とす。

「大丈夫、頑張れ」

 そう自分に言い聞かせて、吐き出した分の空気を吸い込む。生温い空気が肺を満たすが、生きている実感は湧いてこない。毎日のルーティンとも呼べる行動を終えて、やっと私はドアに背を向けた。長く続く無機質な廊下が、せっかく吸い込んだ空気を逃がしてしまう。
 重い足を一歩一歩進め、安全な自宅から、遠ざかっていく。


「おはよう、葉月ちゃん」

 後ろから突然声をかけられて、思わず体が大きく震えてしまう。大げさに驚いた私を見て、声をかけてきた張本人である坂口さんもまた、驚いた顔を浮かべていた。

「ごめんね、驚かせちゃったかな」
 
 そんなこと、と言いながら小さく手を左右に振って見せた。情けなくて、彼の顔すらも見れずにいる私に、彼は優しく笑って見せる。

「今度からは、前に回り込んでから声をかけるようにするよ」
「それはそれで、びっくりしますね」

 平常心を装っているが、早まる鼓動がそれをいつも以上に難しくさせた。人と話すのは、未だに苦手だ。そもそも話している相手が本当に「ヒト」なのかもわからないという恐怖が、じわじわと足元からよじ登ってくるようだ。

 いつも感じのいい微笑みと口調で声をかけてくれる坂口さんは、私の働く小さな本屋の店主だ。今時珍しい、個人経営の店だが、その小規模さ故か、それとも坂口さんの趣味故なのか、他の書店では取扱いのないような貴重な書物なども扱っているとかで、経営は何とか成り立っている状況らしい。
 人づきあいが恐ろしく苦手な私は、大学卒業と同時に、この坂口書店へ就職をした。十代の頃から行きつけだったその本屋は居心地がよく、何故か落ち着く空間だった。もともとの本好きもあって、私は毎週のように足を運んだ。やがて、当時はまだ店主ではなかった坂口さんに声をかけられるようになった。
 最初のうちは、彼が何故話しかけてくるのかがわからず、ただ怖くて、逃げる様にその場から立ち去った。そんな私に、彼はめげる事なく顔を合わせる度に優しく声をかけ続けた。初めて声をかけられてから、恐らく数か月が経った頃、私はようやく、首を縦か横に振る以外で、彼の言葉に答えた。その時彼が見せた花のように明るい笑顔は、きっと一生忘れないだろう。

「はい、どうぞ」

 ドアを押さえて、私を先に通してくれる。ありがとうございます、と軽く頭を下げると、彼はにこりと笑って頷く。

「あれ、そう言えば。店長、どこから来たんですか」

 肩にかけていた鞄をレジカウンターの下へ置きながら尋ねた。
 坂口書店は、店舗兼住まいになっているので、彼は店舗の二階にあたるところで生活をしている。九時の開店に合わせて出勤をする私を、彼はいつもレジの奥で出迎えた。まだ私が、客だった頃と同じように。

「やっと気付いてくれたか」

 そう笑って、彼は眉尻を下げる。私より十も年上であるはずの彼の笑顔は、いつだって少年のように無邪気そのものだ。

「ほら、これ買ってきた。後で食おうぜ」

 そう言って、彼は私の鼻先に手に提げていたビニール袋を掲げる。

「何ですか、これ」
「何ですかって……。まったく、若い乙女が何言ってんだ。この前テレビでも特集組まれてた、生カステラだよ」

 そうですか、と答える私の目の前から袋を引込めると、入れ替わりで彼の顔が近づいてくる。腰を屈めて顔を近付けた彼は、呆れた目をしている。

「いやいや、そこはもっと盛り上がろうぜ。カステラだぜ? しかも、生。な?」
「何が、な? なんですか。私、別に甘い物は……っていうか、近すぎます」

 三歩、後ろへ下がった私を見て、彼は更に呆れた顔をする。曲げていた腰を伸ばすと、袋を持っていない方の手を私の頭へと乗せる。

「そうか、お前ポテチ派だもんな。忘れてた。今度は、生ポテチを買ってきてやる」

 ため息をついて、彼はくるりと背を向けた。そしてレジ横から奥のバックヤードへと入って行った。冷蔵庫を開ける音が微かに聞こえたので、生カステラとやらを仕舞ったのだろうと思った。

「生ポテチって……じゃがいもじゃん」

 ひょこっと顔を出して、悪戯っ子のような笑顔が浮かんだ。

「バレたか」
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