砂に描いた夢

Bella

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好意

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 レジカウンターの後ろに置いてある背の高い椅子に座って、店内をボーっと眺めていた。
 日々の業務である在庫管理や新入荷の準備は、一時間前に全て終えてしまった。あとは、来店する客の相手をするのが主な業務になるわけだが、ただでさえ本屋の生き残りが厳しくなってきている昨今、客など一時間に一人来れば良い方だ。
 店の奥へと目を配れば、確かにそこには見た事も無いような専門書や、明らかに古いであろうよくわからない本がズラリと並んでいる。その前方に設けられたコミックコーナーとの対比が、実に不可解な景色となっている。鮮やかな表紙が大半を占めるコミックに対して、濃い茶色や灰色など、決して美しいとは形容し難い色合いがじっとこちらを見つめ返してくるようだ。

「はい、葉月ちゃん。暇じゃない? 本でも読んでていいよ?」

 そう言うのは、もちろん坂口さんで、店主とは思えないような発言をしながら、するりとコーヒーを差し出してくる。奥に籠って何をしているのかと思えば、コーヒー豆を挽いていたようだ。

「あ、ありがとうございます。確かに暇ですけど、そんなんでいいんですか」

 いいんじゃない? とコーヒーを啜って彼が笑う。コーヒーの香りと、本の香り。そして彼の醸し出す穏やかな空気が、とても心地良かった。

「うちが暇なの、葉月ちゃんも昔から知ってるでしょ。葉月ちゃん頭いいのに、こんな冴えない就職先で本当に良かったの?」

 私の隣に腰を降ろして、頬杖をついている。眠たそうな瞳が、まっすぐ私を捕えている。

「頭良くないです。それに、人付き合いが苦手だから、坂口さんが貰ってくれなかったら、今頃野垂れ死んでたかもですし」

 これは本音だ。人と目を見て話す事すら出来なかった私に、就職など出来るはずもなく、彼が声をかけてきたのは、卒業を翌月に控えていた頃だった。


「片瀬さんて、今大学四年生でしょ? 卒業後はどうするの?」

 買ったばかりの本を渡しながら、彼はそう尋ねてきた。この時、初めて声をかけられてから七年程が過ぎており、さすがの私も、目を見て話せるようになっていた。今でも、きちんと目を見ながら会話ができる、唯一の人物だ。
 私は俯いて、何も決まっていない、と答えた。絶望しかなく、この先どう生きて行こうかと途方に暮れていたのだ。十三で両親を失った私を代わりに育ててくれた祖母は、両親の保険金を使い、何とか私を大学まで出してくれた。決して裕福ではない年金暮らしの祖母に、これ以上迷惑はかけられないと、そう考えていた。
「それなら、ここで働く?」軽い口調で放たれたその言葉は、もういっそ死んでしまおうかと半ば本気で考えていた私を、心底驚かせた。
 彼が言うには、当時店主を務めていた彼の父親の容体が良くなく、春で引退が決まっていたそうだ。父親と二人で切り盛りをしていた店を、春からは一人で守っていくつもりだったらしい。アルバイト募集の広告が、そう言えば店先に貼ってあった、と思い出していたのを覚えている。
 あれから、三年の月日が流れた。


「野垂れ死にって、大げさな」

 彼が笑うのに合わせて、カウンターがキシキシと音を立てた。

「本当です。しかもアルバイトじゃなくて、きちんと正社員で雇って頂いて……本当、感謝してます」

 ポツポツと話す私の顔をじっと見つめて、ふと彼が真剣な顔つきになった。その表情に、何故か緊張感が高まったのがわかる。助けを求める様にコーヒーへ伸ばした手を、突然掴まれる。意図せずして、小さな悲鳴が漏れた。

「葉月ちゃんがその気なら、ずっとこの店にいていいんだよ」

 意味ありげにそう呟いた彼が、椅子から腰を浮かした。前のめりになって近付いてくる彼から精一杯離れようとして、バランスを崩してしまった。彼は慌てた様子で私の名を呼んで、掴んでいた右手をグッと引き寄せた。

 ガチャン、と音が聞こえた時には、私は既に床に転がっていた。座っていたはずの椅子は、足下で倒れている。

「葉月ちゃん、大丈夫? ごめん」

 優しく引き起こして、心配そうに顔を覗き込んでくる。全てが突然過ぎて、混乱しつくしていた。まだ掴まれている右腕を軽く振ると、彼はすぐに離してくれた。そして、倒れていた椅子を起こして、小さく息を吐いた。

「ごめん。そんなに怖がると思わなくて」

 右手をあげたが、ビクついた私を見て、すぐにその手を下げた。彼なりに、精一杯気を使ってくれているのだろう。

「いえ、あの……ごめんなさい」

 俯いたままの頭に、いつもの柔らかい笑い声が落ちてきた。

「謝らないでよ。俺が悪いんだよ。そんなつもりじゃなかったんだけど、怖がらせてごめんね」

 そう言うと椅子を定位置に戻して、ポンポンと二度椅子を叩いて座るように促した。大人しく言う事を聞いた私は、どうしていいかもわからず、ただ下を向いていた。
 うーん、と唸るような声がして、困ったような声がすぐに聞こえた。

「まいったな。せっかく心を開きかけてくれてたのに、馬鹿な事したな」

 それが独り言なのか、それとも何らかの返答を期待しているのかもわからずに、ただ目をきつく閉じて俯くことしかできない。

「もう二度とあんなことしないって約束する。本当、最低だな、俺」

 いつも優しくしてくれた彼が一瞬見せた、男の顔が脳裏にこびりついて、怖くて堪らない。しかし、隣で佇む彼からは、見なくてもわかるくらいにしょんぼりとしたオーラが漂っていて、自分のしたことを、心から悔いているように思えた。
 震える両手を膝の上できつく握って、おずおずと彼を見上げた。彼は、悲しそうな瞳をしていた。

「手が震える程、怖がらせちゃったか。でも、葉月ちゃんへの気持ちは嘘じゃないんだ。それだけ、知っておいて」
「気持ちって……」

 蚊の鳴く様なその声は、あまりにも弱弱しくて、頼りないものだった。

「さすがに、もうわかるでしょ。ずっと好きだった。だからって無理強いするつもりも、気持ちを押し付けるつもりもないから、安心して」

 彼はそう言って、いつものように穏やかに微笑んだ。
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