砂に描いた夢

Bella

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不思議な人

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 気まずくなってしまった空気を払拭しようとしたのか、困ったように笑ったあと、坂口さんは何かを思い出した様に顔を上げて私の横を通り過ぎて奥の部屋へ向かった。肩が触れそうな程近くを通った彼に、意図せずして身体に緊張が走った。そんな私に、彼は悲しげな瞳を一瞬向けて、何も言わずに通り過ぎた。

 いつもの椅子に座ったまま、時計の秒針の音に意識を集中させた。過去のイメージに囚われそうになった時、私はいつもこうすることで、叫びだしたくなる衝動を抑えつけていた。
 それでも、完全に逃げ切る事などは不可能だ。特に、先刻のようなことがあればそれは尚の事で、目をきつく閉じて、自分自身を慰める様に両腕を自らの身体へ巻きつけた。

 骨が砕けてしまうのでは、と本気で思う程強い力で床に肩を押し付けられ、欲望に狂った瞳がゆっくりと、全身をなぞる様に下から這い上がり、やがてありとあらゆる光が私の中から奪われたあの日の記憶が、鮮明に蘇る。
 酷い吐き気に見舞われて、右手で口を覆った。僅かに嗚咽が漏れた頃、どさりと目の前で重たい本が落ちる音がした。

 驚いて開いた瞳に映ったのは、カウンターの上へ積み重ねられた数冊の分厚い本だった。それらはどれも一目でわかる程古びた本で、読書が好きな私でさえ、読み切るのにどれだけの歳月がかかるだろうかと思わず不安になるような厚みだった。間違いなく、異質なオーラを放っているあの棚に陳列してあったものだろう。

「あの、お願いします」

 本を呆然と眺めていると、ふいに頭上から声が落ちてきた。慌てて顔を上げると、そこには長身の男性が一人、佇んでいた。
 坂口さんとのやり取りの前も、その後も、確かに店は空っぽで、誰かが入ってきた気配すら感じなかったのに、この男性は一体いつから店内にいたというのだろう。纏まらない思考を必死にかき集めようとする私の顔をじっと見つめていた男性は、困惑した様に眉尻を下げると、再び口を開いた。

「えっと……会計、お願いできますか」

 薄く形のいい唇を微かに開いて放たれた声は低く穏やかで、聞きほれてしまうような魅力が確かにあった。薄い灰色の瞳を細めて、男性は小さく笑う。長めの前髪がその仕草に釣られてふわりと揺れた。その動作全てが美しく思えて、何故か私は、目の前にいる男性から目を逸らせずにいた。

 長くて細い指が、目の前でひらひらと揺れる。うっかり見とれてしまいそうになるが、やっとの思いで正気に戻った私は、慌てふためいて目の前に積まれた本へと手を伸ばした。

「大変失礼いたしました。お会計ですね」

 いつになく早口でそう捲し立てて、本を裏返してバーコードを捜した。しかし本のどこを探してもそれは見つからず、くるくると本を回すようにしていると、またしても穏やかな声が届く。

「それ、とても古い本だから、貴女が捜しているものは見つからないかも」

 貴女、などと呼ばれたこともない私は、手を止めて真っ直ぐこちらへ向けられている瞳へと視線を向けた。はっきりとした顔立ちの中に、薄い雨雲のような色をした瞳が浮かぶのをとても綺麗だと思った。
 これが良くなかった。その美しい瞳に意識を吸い取られ、自分の手に貴重な書物が握られている事をすっかり忘れてしまったのだ。するり、と両手の隙間から本が落ちる感覚がし、ピリっと小さな痛みが指に走る。それと同時に、男性が素早く動いたのがわかった。

「おっと」

 小さな声でそう漏らした男性の大きな右手には、先ほどまで私の手の中にあったはずの本がしっかりと握られていた。その光景に、一気に血の気が引いていく。

「大変申し訳ありません、すぐに代わりの本を……」

 どうか彼の持つこの本が、入手するのも困難なほど貴重な物ではありませんようにと願いながら、カウンターから出て古書コーナーへ向かおうとした私の肩を、男性は腕を伸ばして制止した。触れるか触れないか、というギリギリの位置で腕を止めると、やはり穏やかに口を開いた。

「気にしないで。これで大丈夫ですよ。それより……」

 一瞬で鋭くなった視線に戸惑う隙すら与えずに、気が付けば私の右手は、大きな手の中に包まれていた。ひんやりとした手で私の手をすくい上げて、じっと食い入るように見つめている。

「あの、お客様?」

 男性は指から視線を一気に外すと、少しだけ鋭さを残したままの瞳を私に向けた。何も言えなくなってしまう私に、男性はそっと微笑んだ。

「お待たせって、あれ? 葉月ちゃん、どうかしたの?」

 男性の唇が薄く開かれたその時、奥から坂口さんが戻った。両手には生カステラと思われるお菓子の乗った皿を持っている。カウンター越しに立っている私達を見て、坂口さんの視線が尖る。

「うちの従業員に、何か御用ですか?」

 カウンターへ皿を置くと、坂口さんは肩を並べて私に並んだ。私がそっと距離を取るように離れたことに気付いたのは、未だ手を握ったままでいる男性だけだった。見下ろすようにならないように気を使ってくれているのか、少し顎を引いている男性が、にこりと微笑んで私の手を離した。名残惜しむかのように宙に浮いたままの私の手を見て、男性が笑う。恥ずかしさの余りすぐに手を下げて俯いた私の名を、坂口さんが呼んでいる。

「彼女、私のせいで指を切ってしまったようで。手当てをしてあげてください」
「そんな、お客様のせいではありません。私の不注意です」

 すぐに訂正をした私に、坂口さんが覗き込むようにして手を伸ばした。怪我をしたと言った指を確認しようとしたのだろうが、私は右手を背後に隠すようにして、彼から遠ざけた。

「大した怪我じゃないです。少し、切れただけです。店長、レジ代わって貰えますか?」

 そう言いながら、カウンターの下から袋を取り出して血が付かない様に注意をしながら本を入れやすいように広げた。坂口さんは少し不満そうだったが、三冊の本を見て素早くレジを叩いた。本の金額は、頭の中に入っているらしい。
 表示された金額を告げると、男性は軽く頷いてから支払いを済ませ、私の手から袋を受け取った。

「小さな怪我だと侮らないで。きちんと手当てをしてください」

 袋を受け取った指先が微かに触れたまま、男性は真面目な顔つきでそう告げた。それはまるで警告のようでもあり、背筋に冷たい雫が落ちたような感覚がした。
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