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もつれはじめる糸
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一度出て行ったはずの男性は、その数分後に真っ赤な薔薇の花を手に店へと戻ってきた。そして、綺麗な手に傷を付けてしまって申し訳ない、とその薔薇を私に差し出した。四本の薔薇が小さなブーケ状に纏められたものを手にした男性の姿はあまりに美しくて、不気味なほどだった。
怪我をしたのは自分の不注意だし、男性には何の落ち度もないと何度説明をしても聞き入れては貰えず、最終的にはこちらが折れて小さな花束を受け取る事にした。男性は満足そうに微笑むと、また来ます、と言い残して立ち去ってしまった。
「あんな奴、本当にいるんだ」
言葉の節々からこれでもかと言うくらい滲み出ている刺々しさに気付かない振りをして、カウンターの後ろに置いた花束を一瞥した。
「何がです?」
わざとらしくとぼけてみると、彼は大げさにため息をついた。
「さっきの客だよ。ちょっと紙で指切ったくらいで勝手に手を握ったり、わざわざあんなプレゼントまで持ってきちゃって。いきなり薔薇の花って……何の映画だよって感じ。かっこつけすぎだよな、まったく」
ふてくされるようにカウンターに頬杖をついて、ぶつくさと文句を垂れている。自分はいきなり襲いかかってきた癖に、手を握っただけの男性を批難する資格はないだろう、と内心思ったりする。
「でも、素敵な人でしたよ。花なんて、産まれて初めて貰いました」
花を見ながら答えた言葉は、心からのものだった。誰かに、ましてや男の人に見とれてしまったのも、誰かの声が心地いいと、もっと聞いていたいと思ったのも、誰かのことを知りたいと思ったのも、全てが初めての経験だった。優しく包んでくれた僅かに体温の低い大きな手が、忘れられずにいる。
「なに、葉月ちゃん、ああいうのがタイプなの? 嘘でしょ?」
声を荒げて詰め寄ろうとする彼を手を伸ばして軽く制止すると、目を大きく開けて口をあんぐりと開けた。
「何ですか、その顔」
彼は更に目を大きくすると、両手で頭を抱え込んだ。行動の全てが大げさで、どこかやかましく感じさせるのは、初めて会った頃から何も変わらない。
「はいはい、どうせ俺はあんなイケメンじゃないですよ。何だよ、生カステラじゃなくて花にすればよかった」
「そういう話じゃないですけど。カステラは美味しかったですよ」
そう言うと彼は頭を抱えていた両手を解いて、胸の前で腕組みをしてじっとこっちを見やった。じっとりとした視線に耐えられなくて目を逸らせば、耳に届くのは小さなため息だけだった。
「嘘付け。甘いもん嫌いな癖に」
どこか拗ねたような口調で、彼がそう言った。
「嫌いじゃないです。ただ、あまり好んでは食べないだけです」
「同じじゃん、それ」
少し笑った彼がそう言って、カウンター横にある鍵を手に取った。それは店の外に下ろすシャッターの鍵で、時計を見れば時刻は既に十六時を回っていた。
「時間だから、上がっていいよ。閉店作業は俺がやっとくから」
シャッターを閉めるのはいつも私の仕事なので手を伸ばすと、彼は私の手が届かない所まで手を引き、首を横に振った。
「いいよ、怪我してるんだろ」
「そんな、怪我っていう程じゃないです。紙でちょっと切っただけですよ。もうとっくに血も止まってますし」
いいから、と彼は鍵を持っていない方の手で私の肩を抑えた。その何気ない仕草でさえ、私の身体を大きく震わすのには充分だった。昨日までならば、これくらいの接触は平気だったのに、と悲しくなる。
「すみません」
慌てて手を離した彼に謝ると、真剣な口調でそれを遮った。
「謝らないでって。俺が悪いんだから」
俯く私に、彼は続けた。
「葉月ちゃん、俺が怖い?」
伸ばしかけた手を止めて、彼は私が答えるのを待った。耐え難い沈黙から逃れようと首を横に振ろうとするが、体が思う様に言う事を聞かない。
「少し、怖いです」
絞り出すように答えた私に、彼は何も言わない。ぎゅっと握りしめた自分の拳に視線を落としていたが、長く続く沈黙に耐えかねて顔を上げた。
本当は、今にもみっともなく泣きだしてしまいそうだった。あの日全てを失い、祖母を頼り一人この地へ来た私は、編入した中学校でも、進学した高校でも友人を一人も作らず、祖母以外誰とも口を利かなかった。そんな中で、懲りずに声をかけ続けてくれた坂口さんは、私にとって救世主のような存在だった。彼は確かに特別だった。しかしそれは恋愛感情とはまた違い、絶対の信頼を彼においていたのだ。まさか彼が、私を一人の女として見ているだなんて、夢にも思っていなかった。
顔を上げた私を見て、彼はにっこりと歯を見せて笑った。どうやら、私が顔を上げるのを待っていたようだ。予想外の反応に戸惑う反面、彼の笑顔に安心し、そして罪悪感を覚えていた。
彼は両手を肩より少し高く挙げて、降参するようなポーズを見せた。その意図が分からずにただ佇む私に、彼は更に続けた。
「もう、絶対しないから。まさかキスであんなに怖がると思わなかったんだけど、怖がらせちゃったのは事実だし」
すみません、と謝罪の言葉がまた口をつく。
私も、もうすぐ二十四になる。普通に生きてきたこの年代の女ならば、キスの一つや二つで大げさに椅子から転げ落ちたりはしないはずだ。例えそれが、恋愛感情を抱いていない相手からの行為であったとしても。
「葉月ちゃん、今まで付き合った人とかいないの?」
突然の質問だったが、目を見たままゆっくりと首を横に振った。すると彼は、驚いたように目を丸くさせた。
「本当に? そんなに綺麗なのに、もったいないな」
褒め言葉でさえもどこか居心地が悪くて、眉間に皺が寄るのがわかる。
「嘘じゃないよ。葉月ちゃんみたいな子、そういないよ」
それがお世辞や嘘ではない事は、彼の口調と真剣な態度が証明していた。恥ずかしさと居心地の悪さが頂点に達した時、彼が一歩こちらへ足を踏み出した。逃げたくて足が一瞬反応したが、そうすれば彼を更に傷付けてしまいそうで、震える足に力を入れていた。
「さっきの、あの客だったら……」
そう言いかけて、視線をカウンターの後ろへと泳がせた。釣られるように視線を向けると、そこには真っ赤な薔薇のブーケが置かれていた。
「あいつだったら、葉月ちゃんも逃げないのかな」
悪戯の様にも、悲しんでいるようにも見える表情を作った彼がそう言って、親指の腹でそっと私の頬を撫でた。熱を帯びたその指は、一瞬唇をなぞって離れていった。
口を開いて何かを言おうとした。それを彼が遮って、くるりと背を向けた。
「はい、この話はもうお終い。俺はシャッター閉めちゃうから、葉月ちゃんは裏から帰って」
そう言うと一度だけ振り返り、お疲れ様、と笑った。私も同じ言葉を返して、裏口を通って店を後にした。
帰り道で思う事は、あの時坂口さんが遮らなければ、私は一体何を口にしていただろう、ということだけだった。
男性のひんやりとした指先を思い出しながら、自分は彼に迫られたら逃げられるだろうか、などとくだらない事を考えていた。
怪我をしたのは自分の不注意だし、男性には何の落ち度もないと何度説明をしても聞き入れては貰えず、最終的にはこちらが折れて小さな花束を受け取る事にした。男性は満足そうに微笑むと、また来ます、と言い残して立ち去ってしまった。
「あんな奴、本当にいるんだ」
言葉の節々からこれでもかと言うくらい滲み出ている刺々しさに気付かない振りをして、カウンターの後ろに置いた花束を一瞥した。
「何がです?」
わざとらしくとぼけてみると、彼は大げさにため息をついた。
「さっきの客だよ。ちょっと紙で指切ったくらいで勝手に手を握ったり、わざわざあんなプレゼントまで持ってきちゃって。いきなり薔薇の花って……何の映画だよって感じ。かっこつけすぎだよな、まったく」
ふてくされるようにカウンターに頬杖をついて、ぶつくさと文句を垂れている。自分はいきなり襲いかかってきた癖に、手を握っただけの男性を批難する資格はないだろう、と内心思ったりする。
「でも、素敵な人でしたよ。花なんて、産まれて初めて貰いました」
花を見ながら答えた言葉は、心からのものだった。誰かに、ましてや男の人に見とれてしまったのも、誰かの声が心地いいと、もっと聞いていたいと思ったのも、誰かのことを知りたいと思ったのも、全てが初めての経験だった。優しく包んでくれた僅かに体温の低い大きな手が、忘れられずにいる。
「なに、葉月ちゃん、ああいうのがタイプなの? 嘘でしょ?」
声を荒げて詰め寄ろうとする彼を手を伸ばして軽く制止すると、目を大きく開けて口をあんぐりと開けた。
「何ですか、その顔」
彼は更に目を大きくすると、両手で頭を抱え込んだ。行動の全てが大げさで、どこかやかましく感じさせるのは、初めて会った頃から何も変わらない。
「はいはい、どうせ俺はあんなイケメンじゃないですよ。何だよ、生カステラじゃなくて花にすればよかった」
「そういう話じゃないですけど。カステラは美味しかったですよ」
そう言うと彼は頭を抱えていた両手を解いて、胸の前で腕組みをしてじっとこっちを見やった。じっとりとした視線に耐えられなくて目を逸らせば、耳に届くのは小さなため息だけだった。
「嘘付け。甘いもん嫌いな癖に」
どこか拗ねたような口調で、彼がそう言った。
「嫌いじゃないです。ただ、あまり好んでは食べないだけです」
「同じじゃん、それ」
少し笑った彼がそう言って、カウンター横にある鍵を手に取った。それは店の外に下ろすシャッターの鍵で、時計を見れば時刻は既に十六時を回っていた。
「時間だから、上がっていいよ。閉店作業は俺がやっとくから」
シャッターを閉めるのはいつも私の仕事なので手を伸ばすと、彼は私の手が届かない所まで手を引き、首を横に振った。
「いいよ、怪我してるんだろ」
「そんな、怪我っていう程じゃないです。紙でちょっと切っただけですよ。もうとっくに血も止まってますし」
いいから、と彼は鍵を持っていない方の手で私の肩を抑えた。その何気ない仕草でさえ、私の身体を大きく震わすのには充分だった。昨日までならば、これくらいの接触は平気だったのに、と悲しくなる。
「すみません」
慌てて手を離した彼に謝ると、真剣な口調でそれを遮った。
「謝らないでって。俺が悪いんだから」
俯く私に、彼は続けた。
「葉月ちゃん、俺が怖い?」
伸ばしかけた手を止めて、彼は私が答えるのを待った。耐え難い沈黙から逃れようと首を横に振ろうとするが、体が思う様に言う事を聞かない。
「少し、怖いです」
絞り出すように答えた私に、彼は何も言わない。ぎゅっと握りしめた自分の拳に視線を落としていたが、長く続く沈黙に耐えかねて顔を上げた。
本当は、今にもみっともなく泣きだしてしまいそうだった。あの日全てを失い、祖母を頼り一人この地へ来た私は、編入した中学校でも、進学した高校でも友人を一人も作らず、祖母以外誰とも口を利かなかった。そんな中で、懲りずに声をかけ続けてくれた坂口さんは、私にとって救世主のような存在だった。彼は確かに特別だった。しかしそれは恋愛感情とはまた違い、絶対の信頼を彼においていたのだ。まさか彼が、私を一人の女として見ているだなんて、夢にも思っていなかった。
顔を上げた私を見て、彼はにっこりと歯を見せて笑った。どうやら、私が顔を上げるのを待っていたようだ。予想外の反応に戸惑う反面、彼の笑顔に安心し、そして罪悪感を覚えていた。
彼は両手を肩より少し高く挙げて、降参するようなポーズを見せた。その意図が分からずにただ佇む私に、彼は更に続けた。
「もう、絶対しないから。まさかキスであんなに怖がると思わなかったんだけど、怖がらせちゃったのは事実だし」
すみません、と謝罪の言葉がまた口をつく。
私も、もうすぐ二十四になる。普通に生きてきたこの年代の女ならば、キスの一つや二つで大げさに椅子から転げ落ちたりはしないはずだ。例えそれが、恋愛感情を抱いていない相手からの行為であったとしても。
「葉月ちゃん、今まで付き合った人とかいないの?」
突然の質問だったが、目を見たままゆっくりと首を横に振った。すると彼は、驚いたように目を丸くさせた。
「本当に? そんなに綺麗なのに、もったいないな」
褒め言葉でさえもどこか居心地が悪くて、眉間に皺が寄るのがわかる。
「嘘じゃないよ。葉月ちゃんみたいな子、そういないよ」
それがお世辞や嘘ではない事は、彼の口調と真剣な態度が証明していた。恥ずかしさと居心地の悪さが頂点に達した時、彼が一歩こちらへ足を踏み出した。逃げたくて足が一瞬反応したが、そうすれば彼を更に傷付けてしまいそうで、震える足に力を入れていた。
「さっきの、あの客だったら……」
そう言いかけて、視線をカウンターの後ろへと泳がせた。釣られるように視線を向けると、そこには真っ赤な薔薇のブーケが置かれていた。
「あいつだったら、葉月ちゃんも逃げないのかな」
悪戯の様にも、悲しんでいるようにも見える表情を作った彼がそう言って、親指の腹でそっと私の頬を撫でた。熱を帯びたその指は、一瞬唇をなぞって離れていった。
口を開いて何かを言おうとした。それを彼が遮って、くるりと背を向けた。
「はい、この話はもうお終い。俺はシャッター閉めちゃうから、葉月ちゃんは裏から帰って」
そう言うと一度だけ振り返り、お疲れ様、と笑った。私も同じ言葉を返して、裏口を通って店を後にした。
帰り道で思う事は、あの時坂口さんが遮らなければ、私は一体何を口にしていただろう、ということだけだった。
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