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過去の傷 ※暴力表現あり
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自宅の鍵を開けると、目に痛い程の白い明かりが容赦なく差し込んでくる。家を出る際には、いつでも玄関の電気は点けたままにしてある。というのも、帰宅が十八時半頃になるのが常なので、薄暗い玄関を見るのが嫌で常に明るくしているのだ。
短い廊下を通って、リビングへ繋がるドアを開ける。リモコンを手に取りスイッチを押すと、暖かなオレンジ色の明かりが辺りを照らした。小さな本棚の上に飾られた写真に無意識に目をやり、ただいま、と呟く。もちろん返事はないが、毎日のルーティンになっていた。
写真の中では、両親と私が笑っている。写真を撮った日の事は、今でもよく覚えている。
私の十三歳の誕生日だった。両親は私の為に細やかなパーティを開いてくれた。母は得意の料理を何品も作り、そのどれもが私の好物だった。こんなに食べれらないよ、と笑う私に、お父さんが食べるから大丈夫よ、と母も笑った。父は私の欲しがっていた仔猫を胸に抱き、プレゼントだよ、と照れくさそうにしていた。真っ白でまだ小さな猫に、私はミルクと名前を付けた。暖かくて、ふわふわしていて、初めて「愛おしい」という感情を理解させてくれた。
その半月後、その全てが唐突に、そしてあまりにも残酷に奪われた。
中学に入学した時に、私はテニスを始めた。学校での部活動だったが、同級生の仲間や先輩にも恵まれて、毎日楽しく練習をしていた。そしてあの日、十月も終わりに差し掛かり、日が短くなり始めていた頃だった。寄り道をせずに帰るように親から言われていたにも関わらず、私は同じテニス部の仲間たちと練習後のグラウンドに座り込んだまま、話に夢中になっていた。冷たい秋風や暗くなっていく空など気にもならない程夢中で話したのは、確か当時好きだったクラスメイトの男子のことだったと記憶している。誰もが一度は経験するであろう、何の変哲もない日常な筈だった。
いよいよ帰らなくてはまずいという時間になり、それぞれが帰路へとついた。家まで数メートルというところまで、友人がその角を曲がって別れた。
暗い道に少しだけ不安を覚えつつも、いつもの帰り道だということで、さほど警戒もしていなかっただろう。実際、家について玄関のドアを開けると同時に後ろから突き飛ばされるその瞬間まで、私は背後に人がいることにさえ気がついてはいなかった。
玄関に倒れ込んだ私は、打ち付けた膝の痛みと混乱で、声も出せずにいた。私を突き飛ばした張本人は、私の襟を掴んで力任せに引き起こした。そこで初めて母が顔を覗かせて、見知らぬ男に掴まれている私を見て悲鳴を挙げた。お母さん、と助けを求めて声を出したような気もするが、はっきり覚えてはいない。
男は母の方を見ると、何故か口角を上げてにたりと笑った。そして左手を私の襟から離すと、その人差し指をピンと立てて、自分の口元へと当てて見せた。静かにするように、と母へ無言のメッセージを送った後、私へとその不気味な笑顔を向けた。あの邪悪な笑顔は、今でも脳裏にしっかりとこびりついている。
男は私を家の中へと押し込むと、そのまま土足であがり込み、母に居間へ案内するようにと告げた。男の落ち着き払った声と態度がかえって恐怖を煽り、私は既に涙を流していたように思う。
居間のソファへと勢いよく腰を降ろした男は、その膝の上に私を座らせようとした。それに母が抵抗し、私を取り返そうと腕を掴んだ。すると男は、座ったまま勢いよく母の顔面を殴りつけた。目の前で起きた出来事が理解できず、泣き喚いて母へ縋り付こうとする私を、男は離さなかった。そして、静かにこう言った。
「抵抗しなければ、誰も傷付けない。さぁ、どうする?」
母を見れば、床に倒れて口から血を流していた。どうやら、口の中を切ったようだ。母は私の名を呼び、必死にこちらへと這ってきている。私が嫌がればまた母が酷い目に遭うのかと思うと、身体が固まって動かなくなった。逃げ出してしまいたい、大声で助けを求めて母を救いたい。そう思うのに、動く事は愚か声を出す事すらままならず、床を這う母を泣きながら見ていた。
男は私の顎を指先で掴み、力尽くで顔を男の方へと向けさせた。
「俺の言う事聞けるよね、葉月ちゃん」
母が繰り返し呼ぶ名を聞いてか、男はそう言って再びにたりと笑った。私は泣きながら、首を縦に振った。男は満足そうに頷くと、いい子だね、と頭を撫でた。母は泣き叫ぶような声で悲鳴を挙げて、その場から立ち上がった。走り寄って来た母を止めようと腕を伸ばしたが、男の動きはそれよりも早かった。母の首を左手で掴んで動きを封じると、そのまま勢いをつけて壁へと投げつけた。叫び声をあげた私に、男が宥める様に「しー」と、優しく言った。
母は気を失ったようで、その場でぐったりと倒れ込んだままだ。母を見つめて泣きじゃくる私を宥める様に抱き締めた男から煙草の匂いがして、吐きそうになったのを覚えている。
母を呼び続ける私に苛立ったのか、男は大きな手で私の口を塞ぐと、黙るようにと告げた。
「葉月ちゃん、お母さんに死んでほしくないよね? なら、いい子にできるでしょ」
頷く事しか出来ない私に満足をしたのか、男は手を離すと、赤くなってしまったね、そう言って口の周りをズルリと長い舌を伸ばして舐めまわした。そしてにたりと笑い、ソファの背もたれへと身体を預けた。
それから一時間もしないうちに父が帰宅したが、その間も男は私から手を離さず、身体中を撫でまわし、首や頬などに気が済むまで唇を這わせた。気が狂ってしまう、そう思った直後に父が帰宅した。
父は若い頃、空手で全国優勝こそ逃したものの、準優勝の経験のある人だった。当時も週末になれば近所の道場で子供たちを相手に空手を教えていた。その父が、私を抱えたままの男に刃向う事すら許されずに倒れていく姿を見るのは、何よりも辛かった。どれだけ傷付けられても、父は立ち上がる事を止めようとはしなかった。少し前に目を覚ました母はドアノブに手首を結び付けられており、好き勝手殴られる父を直視できずにいたようで、泣きながら目を逸らしていた。
「葉月、お父さんが助けてやるから」
父は最期まで、そう繰り返していた。顎も歯も砕かれ、唇が擦り切れてもまだ、父はそう言い続けた。そして、自らが作った血だまりの中で命を落とした。
短い廊下を通って、リビングへ繋がるドアを開ける。リモコンを手に取りスイッチを押すと、暖かなオレンジ色の明かりが辺りを照らした。小さな本棚の上に飾られた写真に無意識に目をやり、ただいま、と呟く。もちろん返事はないが、毎日のルーティンになっていた。
写真の中では、両親と私が笑っている。写真を撮った日の事は、今でもよく覚えている。
私の十三歳の誕生日だった。両親は私の為に細やかなパーティを開いてくれた。母は得意の料理を何品も作り、そのどれもが私の好物だった。こんなに食べれらないよ、と笑う私に、お父さんが食べるから大丈夫よ、と母も笑った。父は私の欲しがっていた仔猫を胸に抱き、プレゼントだよ、と照れくさそうにしていた。真っ白でまだ小さな猫に、私はミルクと名前を付けた。暖かくて、ふわふわしていて、初めて「愛おしい」という感情を理解させてくれた。
その半月後、その全てが唐突に、そしてあまりにも残酷に奪われた。
中学に入学した時に、私はテニスを始めた。学校での部活動だったが、同級生の仲間や先輩にも恵まれて、毎日楽しく練習をしていた。そしてあの日、十月も終わりに差し掛かり、日が短くなり始めていた頃だった。寄り道をせずに帰るように親から言われていたにも関わらず、私は同じテニス部の仲間たちと練習後のグラウンドに座り込んだまま、話に夢中になっていた。冷たい秋風や暗くなっていく空など気にもならない程夢中で話したのは、確か当時好きだったクラスメイトの男子のことだったと記憶している。誰もが一度は経験するであろう、何の変哲もない日常な筈だった。
いよいよ帰らなくてはまずいという時間になり、それぞれが帰路へとついた。家まで数メートルというところまで、友人がその角を曲がって別れた。
暗い道に少しだけ不安を覚えつつも、いつもの帰り道だということで、さほど警戒もしていなかっただろう。実際、家について玄関のドアを開けると同時に後ろから突き飛ばされるその瞬間まで、私は背後に人がいることにさえ気がついてはいなかった。
玄関に倒れ込んだ私は、打ち付けた膝の痛みと混乱で、声も出せずにいた。私を突き飛ばした張本人は、私の襟を掴んで力任せに引き起こした。そこで初めて母が顔を覗かせて、見知らぬ男に掴まれている私を見て悲鳴を挙げた。お母さん、と助けを求めて声を出したような気もするが、はっきり覚えてはいない。
男は母の方を見ると、何故か口角を上げてにたりと笑った。そして左手を私の襟から離すと、その人差し指をピンと立てて、自分の口元へと当てて見せた。静かにするように、と母へ無言のメッセージを送った後、私へとその不気味な笑顔を向けた。あの邪悪な笑顔は、今でも脳裏にしっかりとこびりついている。
男は私を家の中へと押し込むと、そのまま土足であがり込み、母に居間へ案内するようにと告げた。男の落ち着き払った声と態度がかえって恐怖を煽り、私は既に涙を流していたように思う。
居間のソファへと勢いよく腰を降ろした男は、その膝の上に私を座らせようとした。それに母が抵抗し、私を取り返そうと腕を掴んだ。すると男は、座ったまま勢いよく母の顔面を殴りつけた。目の前で起きた出来事が理解できず、泣き喚いて母へ縋り付こうとする私を、男は離さなかった。そして、静かにこう言った。
「抵抗しなければ、誰も傷付けない。さぁ、どうする?」
母を見れば、床に倒れて口から血を流していた。どうやら、口の中を切ったようだ。母は私の名を呼び、必死にこちらへと這ってきている。私が嫌がればまた母が酷い目に遭うのかと思うと、身体が固まって動かなくなった。逃げ出してしまいたい、大声で助けを求めて母を救いたい。そう思うのに、動く事は愚か声を出す事すらままならず、床を這う母を泣きながら見ていた。
男は私の顎を指先で掴み、力尽くで顔を男の方へと向けさせた。
「俺の言う事聞けるよね、葉月ちゃん」
母が繰り返し呼ぶ名を聞いてか、男はそう言って再びにたりと笑った。私は泣きながら、首を縦に振った。男は満足そうに頷くと、いい子だね、と頭を撫でた。母は泣き叫ぶような声で悲鳴を挙げて、その場から立ち上がった。走り寄って来た母を止めようと腕を伸ばしたが、男の動きはそれよりも早かった。母の首を左手で掴んで動きを封じると、そのまま勢いをつけて壁へと投げつけた。叫び声をあげた私に、男が宥める様に「しー」と、優しく言った。
母は気を失ったようで、その場でぐったりと倒れ込んだままだ。母を見つめて泣きじゃくる私を宥める様に抱き締めた男から煙草の匂いがして、吐きそうになったのを覚えている。
母を呼び続ける私に苛立ったのか、男は大きな手で私の口を塞ぐと、黙るようにと告げた。
「葉月ちゃん、お母さんに死んでほしくないよね? なら、いい子にできるでしょ」
頷く事しか出来ない私に満足をしたのか、男は手を離すと、赤くなってしまったね、そう言って口の周りをズルリと長い舌を伸ばして舐めまわした。そしてにたりと笑い、ソファの背もたれへと身体を預けた。
それから一時間もしないうちに父が帰宅したが、その間も男は私から手を離さず、身体中を撫でまわし、首や頬などに気が済むまで唇を這わせた。気が狂ってしまう、そう思った直後に父が帰宅した。
父は若い頃、空手で全国優勝こそ逃したものの、準優勝の経験のある人だった。当時も週末になれば近所の道場で子供たちを相手に空手を教えていた。その父が、私を抱えたままの男に刃向う事すら許されずに倒れていく姿を見るのは、何よりも辛かった。どれだけ傷付けられても、父は立ち上がる事を止めようとはしなかった。少し前に目を覚ました母はドアノブに手首を結び付けられており、好き勝手殴られる父を直視できずにいたようで、泣きながら目を逸らしていた。
「葉月、お父さんが助けてやるから」
父は最期まで、そう繰り返していた。顎も歯も砕かれ、唇が擦り切れてもまだ、父はそう言い続けた。そして、自らが作った血だまりの中で命を落とした。
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