砂に描いた夢

Bella

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傷跡 ※暴力表現あり

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 もう立ち上がる事さえ苦痛であったはずの父は、最後に両手を床について立ち上がろうともがいた。そんな父を見て、男は両手を叩きながら声をあげて大笑いをしていた。散々殴り続けていたはずの男の手が全くの無傷であることに気付いたのは、この時だった。
 殴った方も手が痛いんだよ、と幼い頃に優しく教えてくれた父の言葉を思い出していた。

「お父さん、この人……人間じゃない」

 私の小さな声が、男の笑い声を止めた。男は鋭い瞳を私に向けると、やはりにたりと歯を見せて笑った。一瞬で鳥肌が全身に立ち、それを痛いと思ったのは初めての事だった。男はゆっくりと立ち上がり、私をソファへ座らせた。少しでも動いたら母を殺す、と脅すのも忘れはしなかった。

「葉月ちゃん、鋭いね。顔だけじゃなくて、頭もいいんだ」

 そう言いながら男は父へと歩み寄り、フラフラになった父の打撃をいとも簡単に受け止めた。

「そう、俺は人間じゃない。聞いたことあるかな、ヴァンパイアって。吸血鬼ともいうけど」
「吸血鬼……」

 その言葉を繰り返した私に、男は頷く。

「そ、俺は吸血鬼だよ。だからこんなオッサンがどれだけもがいても、一生勝てない」

 冷たい口調で顔色一つ変える事なく、男は握っていた父の拳を握り潰した。バキバキと骨の砕ける音が響いて、母は悲鳴を挙げた。父は既に、悲鳴を挙げられる程の体力も残されてはいないようだった。ぐったりとその場に倒れ込むと、ガクガクと震えて泡を吹いた。

「うわ、汚ないな」

 手を離した男は、倒れている父の頭に手を当てると、こちらを見て満面の笑みを浮かべた。やめてと叫びたいのに、声を出す事も出来ずにいた。母もそれは同じようで、恐怖に目を見開く様にして、二人を見つめていた。母は小さな声で父の名を呼ぶが、父には聞こえていないようだった。

 私達が見ている事を確かめるように見渡してから、男は先ほどと同じように、まるで紙風船でも潰すかのように簡単に父の頭を破壊してしまった。

 男はそのまま私の方へと向かい、ソファに手をついて血を拭き取った。男の手の跡そのままにべっとりとついた赤黒い血を見ていると、男が私の頬を掴んで引き寄せた。

「お母さんまで死んでほしくないよね?」

 男の瞳の奥で燃える炎は勢いを増し、もう誰にもこの男を止められないのだと、絶望の淵へと叩き落とされたことを改めて実感していた。
 それから男は、母の目の前で私を繰り返し暴行した。男の気が済むように扱われたが、肉体的に傷付ける様な事は何もせず、ただ延々と私の心と精神を蝕んでいった。


 父が事切れてからどれくらいが経ったのかも、自分がどれだけの時間男に弄ばれていたのかもわからないけれど、気が付いた時、私は自室のベッドの上にいた。いつも着ている寝間着を身に着けていて、昨夜の事など全てが悪い夢だった、一瞬そう思い込もうとした。しかし、身体中の痛みがそれを許さなかった。ベッドから降りるのも一苦労だったが、なんとか這い出る様に自室を出た所で男がまだそこにいた事に気が付いた。
 床に這いつくばっていた私を、階段の途中からニヤついた顔で見ている。男から目を逸らせず、端からボタボタと涙が落ちた。男は宙を仰ぐように呆れた様子を見せた後、ゆっくりと私へと近付いてきた。

「来ないで……」

 抵抗も虚しく、男は私の隣に膝を落とした。逃げようとする私を気にもせず、男は話した。

「大丈夫? 寝てた方がいいと思うけどな。ちょっと無理させちゃったかな、ごめんね」

 やけに優しい口調でそう言って、背中をポンポンと叩いた。男からはやはり煙草の匂いがして、意識的に顔を背けた。男は立ち上がると、階段へと足を運んだ。

「俺は帰るけど、葉月ちゃん寝てな? どうせ、家には他に誰もいないよ」

 匍匐前進のようにして男から離れようとしていた私は、その言葉を聞いて動きを止めた。恐る恐る顔を上げると、男は何食わぬ顔で振り向いた。

「どうした? 帰って欲しくない?」

 首を傾げている男に、震える声で尋ねる。どこかで答えをわかっていたのだろう。尋ねる前から、涙が溢れて止まらなかった。

「お母さんは」

 男はわざとらしく驚いた顔をして見せた後、顔の前で両手を合わせた。

「そう言えば約束してたっけ。すっかり忘れてた。ぎゃあぎゃあ煩かったから耳障りでさ」

 にたりと笑う男は、既に壊れてしまった私の心に惨たらしい止めを刺した。

「ごめん、殺しちゃった」

 冷蔵庫のプリンを食べちゃいました。まるでそんな告白でもするかのように、少しだけ悪びれた顔を浮かべた男はそう言うと、大きく広げた手を横に振って、またねと言い残して消えた。

 その日の夜、無断欠勤をした私の身を案じた担任が様子を見に来てくれるまで、私は自室の前で泣き続けた。声が枯れるまで両親を呼んだが、静かな家の中に悲しくこだまするだけだった。

 病院へ運ばれた私の元へ来た刑事が、自らを特別捜査官だと名乗った。「特別な事件」つまり、吸血鬼が絡んだ事件のみを担当していると言った。吸血鬼というものは、そんなに多いのかと震えた私に、彼はこう告げた。

「この世の中には、君が思っているよりも遥かに多くの吸血鬼が存在する。でもその多くは、俺たちと同じように生活をしているんだよ。俺達と同じものを食べるし、学校へ行って、仕事もしてる。もちろん人だって殺さない」

 ただね、と彼は怖い顔をして付け加えた。

「人間と同じで、中には頭のおかしい奴もいるんだ。身体能力が優れている分、奴らは人間の犯罪者よりもタチが悪い。俺達は、そういう奴らを追いかけている。君のご両親を殺して、君を傷付けた犯人も、必ず見つけてみせるから」

 病院のベッドの上で、ただ何となく彼の言葉を聞いていた。男を捕まえた所で両親は戻ってこないし、あの日受けた恐怖や屈辱が消えてなくなるわけでもない。男を捕まえることになど、もはや興味もなかった。

「捕まえるって、どうやってですか」

 空手有段者の父ですら赤子のように扱ったあの生き物を、一体どうやって捕まえると言うのか。この場を丸く収めて、私を安心させようとしているだけではないのか、そう思った。しかし彼はそんな私の思考を見据えた様に笑うと、少し離れて口を開いた。

「人間には無理だ。でも、俺には可能だ。その意味が、君にはわかるね」

 そう言い残して、別の刑事に何かを告げて病室を後にした。
 私はと言えば、つい先ほどまで話していた男が両親を殺した男と同じ吸血鬼であるという事実に、取り乱していた。声をあげて暴れる私を取り押さえて、もう一人の刑事が優しく宥めようとする。

「全ての吸血鬼が悪い奴じゃない。犯人は、きっと彼が裁いてくれるから」

 やがて駆けつけた医者に鎮静剤か何かを打たれたのだろう。記憶は、ここで途切れている。

 後から聞いた話によれば、吸血鬼は人間と見分けることはほぼ不可能で、ほとんどの吸血鬼が人間に紛れて生活しているとのことだった。それからというもの、全ての人が恐怖の対象でしかなくなり、私は誰とも話さなくなった。
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