砂に描いた夢

Bella

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期待、望み、夢

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「何か久しぶりだな。こんな風に人と話すのは」

 軽く背もたれに緩く寄りかかり、足を持て余すように組んで斜めに座っている。テーブルの横から見えている足先は、黒く輝く革靴に包まれていた。

「久しぶり、ですか」

 彼の言葉を繰り返すと、うんと頷いて穏やかな表情を浮かべる。

「あまりプライベートで人と会う機会も少なくてね。仕事関係の相手だと気は抜けないし、いつだって礼儀正しくいなくてはと気を張ってしまう。だから、今日は葉月さんとここで逢えてよかった」

 ふわりと笑う彼の笑顔が眩しくて、心に深く突き刺さるような痛みすら覚えた。この笑顔が、今私だけに向けられているのかと思うだけで鳥肌が浮かぶのがわかる。これ以上彼と同じ時を過ごしたら、一体私はどうなってしまうのだろう。

「さっきも、お仕事の事おっしゃってましたね。お仕事、何をされてるんですか?」

 私の問いかけに、彼は一瞬だけ顔色を変えた。困惑するような、迷ったような、そんな表情だった。聞いてはいけないことだったかと思い、慌てて両手を振った。

「あ、あの、ごめんなさい。会ったばかりなのに、失礼な事を……」

 どうしよう、嫌われてしまう。そんな子供じみた考えが、私の脳裏によぎる。そしてそれは私の不安と恐れを餌にでもするかのように、グングンと大きく成長していく。
 しかし低く穏やかな笑い声が、雨雲のように心を覆った思考を吹き飛ばした。

「そんなに慌てないで。失礼だなんてことないよ。それに、会ったばかりだなんて、寂しいこと言わないで」

 甘い声でそんなことを言われてしまったら、私にはもはや言葉を返す術すらなくなってしまう。自分ではコントロールできない顔の火照りを感じながら、目の前で笑う史弥さんを見ていた。

「はは、真っ赤だ」

 体勢を変えて、右手で頬杖をついて身を乗り出す。優しく細めた瞳で、少しだけ困ったように笑っている。

「史弥さん、もしかして私で遊んでませんか」

 少しだけね、と笑って答える。それに反応してか更に熱を帯びる頬に手を当てて、無駄な抵抗を試みる。手先がいつもより冷たくて、自分が緊張しているのだと今更ながらに思い知った。

「凄いね、どんどん赤くなる。タコみたいだ」

 楽しそうに笑う史弥さんから目を逸らして、俯いて顔を手で仰いだ。しかし無駄な抵抗をすればするほど熱は増すばかりで、恥ずかしさのあまり逃げ出したくなる。
 するとふいに、頬に冷たい指先が触れた。私のそれよりも遥かに冷たく、滑らかで心地良い。顔を下げたまま史弥さんを見れば、やはり彼は私に手を伸ばして微笑んでいた。

「ごめんね、からかうつもりじゃなかったんだけど。あまりにも可愛かったから、つい」
「可愛いって……。ついって……」

 オウムのように彼の言葉を繰り返すだけの私の輪郭をなぞる様に手の甲で触れて、そのままするりと離れてしまう。

「少しは冷えた?」

 彼の行動の意図を理解して、一応こくんと頭を下げた。それを見て、彼はにこりと笑う。

「手が、冷たいんですね」

 その言葉に、彼はハッと息を飲んだ。まっすぐ向けていた目を一瞬で逸らして、一口コーヒーを啜った。

「そう、昔からでね。その分、心が温かいといいんだけど」

 冗談交じりに微笑んで、彼は話題を変えた。

「話は戻るけど、俺の仕事だけどね」

 興味のある話題に引き戻されて、私は自然と前のめりになった。それに気づいた彼が少し笑い、優しい目付きになる。

「さっきは言い淀んで、変に気を遣わせて悪かったね。実は、こう見えて少しだけ有名人でね。それで、普段はあまり仕事の話はしないようにしているんだよ」

 再びコーヒーに口を付けた彼は、続きを待つ私に視線を送った。

「有馬与八って、聞いたことある?」

 彼が口にした名前には、聞き覚えがあった。というより、本屋で働いていれば嫌でも目にする名前だ。ここ数年で聞く様になった名前ではあるが、新作を出せば必ずと言っていい程売り上げが一位になるような、人気の高い作家だ。

「もちろん知ってます。ミステリーで受賞して話題になったけど、その後色んなジャンルの小説を出してますよね。私も、彼の作品は全部読みました」

 へぇ、と軽く相槌を打つ彼の目が爛々と輝いた。

「どれが一番好き?」

 頬杖をついたまま、彼が身を乗り出す。そうすることで、彼の顔がすぐ近くに迫り、一瞬呼吸が止まる。また茹でダコになってしまわないように、悲しいけれどほんの少しだけ彼から距離を保つことにした。

「えっと、『陽のあたる場所』です」
「即答したね」

 興味深そうに瞳を輝かせて、せっかく保ったはずの距離感を彼はいとも簡単に詰めてしまった。少し乗り出せば鼻先が触れてしまいそうな程近くにいる史弥さんに、意識を根こそぎ奪われそうになる。

「は、はい。最初から最後まで、本当に綺麗な作品で……。何度も読み返しています」

 ふうん、と喉を鳴らした後、彼は子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。その衝撃に、私の心臓が破裂してしまうのでは、と本気で心配になる。

「それは嬉しいな。あれは、特に力を入れた作品でね。いつもはそんなことしないんだけど、主人公に自分を重ね合わせて書いたんだよ」

 『陽のあたる場所』は有馬与八の作品の中でも特に悲しく、美しい作品だ。家族も友も、恋人さえも失った主人公が、陽のあたる暖かい場所を求めて彷徨い、愛を模索して生きる物語だ。主人公は心に深い闇を抱え、人と向き合う事を恐れていた。そんな主人公に自己を投影して、自らも陽のあたる場所へ導いて欲しいと、そんな願いを込めて読んでいた。

「主人公と史弥さんは、似ていないと思いますけど……」
「そう?」

 口を開いて何かを言いかけた彼の前に掌を差し出して、それを止める。彼は笑顔を浮かべたまま、私を見ている。

「え、ちょっと待ってください」
「うん、待ってる」

 口先で笑いを噛み殺しながら、彼はそう言う。今にも声をあげて笑い出しそうな、そんな顔をしている。

「有馬与八……」

 名前を口にすると、彼が頷いた。そして、長い人差し指をピンと立てて、自らの鼻先へとその先を持っていった。その行動が意味することは、一つしかない。

「産まれはドイツでね。ミドルネームがヨハネスっていうんだよ。だから、ヨハネス・アーレンス。日本風にしてアーレンス・ヨハネス。もっと日本っぽくして、有馬与八。結構気に入ってるんだ、このネーム」

 ヨハネス・アーレンスという美しい名前と、有馬与八というあまりに古風な名前が頭の中で繋がらず、混乱する私を見て、彼は楽しそうに笑う。

「驚かせちゃったかな? 仕事は作家なんだ。仕事柄色んな時代の資料が必要になることが多くてね。坂口書店さんには、本当にお世話になってるんだよ」
「でも、今まで来たことないですよね? あの時、私が手を切った時が初めてですよね」

 気に入って読んでいた本の作者が目の前にいて、しかもそれが初めての感情を抱かせた相手であることに酷く動揺したけれど、穏やかな瞳を見ていると、確かにあの美しい作品を作りだす人は、史弥さんのように美しい人であるはずだ、と変に納得していた。

「凄い、よく覚えてるね。他のお客さんのことも、いつ頃初来店したか覚えているの?」

 まさか、と首を横に振る。覚えているのは、史弥さんのことだけだ。一度でもすれ違っていれば、私は彼を忘れたりはしないはずだ。
 私の反応が予想通りだったことがそうさせたのか、彼は頬をふわりと緩めて笑った。

「あそこを教えてくれたのは、出版社の担当さんでね。資料集めに苦戦してた俺に、一度行ってみればと勧めてくれたんだ」

 コーヒーを飲みほした彼が、静かにカップをソーサーに戻した。一瞬外された視線はすぐに私の瞳を捕えて、緩やかな波を立てる。

「彼には感謝しないと」
「そうですね。店長の趣味で、変わった本が多いから。史弥さんの探している本が、これからもあのお店で見つかったら嬉しいです」

 そうすれば、彼は頻繁に店へ足を運んでくれるだろう。そんな打算を浮かべた自分に呆れた時、低い笑い声に意識を遮られた。

「うん、それもそうなんだけどね。俺の言葉の意味に、気付いていないね。はっきり口にした方がいいかな?」

 眉尻を下げて笑い、意味深な瞳を向けている。彼の言葉の意味するところに仄かに気付いて、一気に顔に血液が集中する。彼は、私に出逢えたことを少しでも嬉しく感じてくれているのだろうか。
 これが、私の思い違いでなければいい。口元に緩く握った拳を当てて笑っている彼を見ながら、ただそう願っていた。
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