砂に描いた夢

Bella

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言霊

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 石丸さんが言うには、この催眠にかけられると、場合によっては記憶に障害が残ることがあるらしい。短期的な欠乏であることもあれば、酷ければ精神が崩壊してしまうような酷い後遺症が残ることもある、と彼は目を伏せて言った。その声には、落胆と怒りだけが滲んでいた。

「史弥さんが、私にその催眠を?」
「間違いないだろう。それで、君の居場所を聞き出そうとしたんだ」
「でも、どうして? 私の居場所を知って、一体……」

 三人の目が、私を冷たく見据えた。そこに映し出されているのは、『哀れみ』だ。

「恐らく、君を…………」

 石丸さんが声を詰まらせた。悔しそうに目を閉じて、私から顔を背けた。その先は、言われなくてもわかった。

「私を、殺すため? あの男と、史弥さんはずっと繋がっていて、それで、私に近付いたってことですか?」

 泣き叫びたいのに、何故か涙が出なかった。思ったよりも冷静な声が出て、石丸さんは驚いたように顔を上げた。そして、小さく頷く。

「恐らく……。俺だって信じられない。俺は、あいつを実の息子のように想っていた。いや、今でもそう思っている。あいつは、誰よりも優しくて、繊細な男だと、そう思っていた。君と出逢って、あんなに嬉しそうで優しい目をするあいつを初めて見た。俺は、あいつを信じたい」

 私も、と言いかけた私を遮って、低い声で唸る。

「でもね、あいつが君を裏切っていて、君をとうとう手にかけるために動き出したとしか考えられない状況だ」

 心臓を掴まれたように、身動きが取れない。石丸さんが、私の肩を掴んでいる。しっかりしろ、そう語りかけてくるような力強い目をしている。

「史弥の尾行をしていた警官二人が、遺体で見つかった」

 冷たい事実が私を掴み、地獄へと引きづり込もうとする。

「史弥の行方も、あの男の行方もわかっていない。それから……」

 石丸さんが鞄から取り出した写真を見て、私は嗚咽を漏らした。あの女性警官が隣に来て、背中をさすってくれる。その写真に写っていたのは、史弥さんと、とても美しい女性だった。祖母が殺されたあの日店に来て、史弥さんの書いた本を買っていった、あの美女だ。
 史弥さんの運転する車の助手席に座った彼女は、彼の隣に相応しいほど妖艶な笑みを浮かべながら、ハンドルを握る彼の腕に手を置いていた。史弥さんが一体どんな表情をしているのかは、怖くて見れなかった。いつものように優しく笑っているのだろうか。それとも、彼女のように妖艶に、口元を歪めているのだろうか。

「君の店に本を買いに来たというのは、この女で間違いないね?」

 確信にも近い口調で尋ねた石丸さんに頷くと、彼は素早く立ち上がり、二人の部下に指示を出した。あまりに早口で、私には何と言ったのか聞き取れなかったけれど、香川さんはすぐに部屋を後にし、女性は心配そうに私を見つめてから、小さく微笑んで部屋を後にした。

「俺はここに残るよ。君が眠る時には外へ出るけど、それまではここにいる。構わないね?」

 拒否権などありもしないであろう私は、大人しく頷いた。


 時計の針の音だけが響く室内で、私は膝を抱えてベッドに座っていた。窓辺には石丸さんが立っていて、機械のようにじっと外を睨み続けている。

 神様は、私に余程の恨みがあるのだろう。世界で一番愛した人さえも、あまりに残酷な方法で私から奪うのか、と自らの呪われた運命を口汚く罵ってやりたくなる。

「石丸さん」

 小さな声で呼ぶと、彼は視線をこちらに向けた。

「史弥さんは……私のことなんて、最初から愛してなかったんですね」

 そんなわかりきったことを何故聞くのか、と彼に出会ったばかりのころの私は言っただろう。おとぎ話から抜け出てきた不思議の国の王子様のようだった史弥さんの姿を思い出していた。古びた本屋に佇むその姿は本当に美しくて、この世の物だとは信じがたい程だった。あんな人が私を必要として、まして愛してくれたなど、幻影にすぎない。わかっているのに、私は彼が与えてくれた幻に、頭まで浸かってしまったようだ。彼が見せてくれた笑みも、名前を呼んでくれた声も、全てが嘘だったなんて受け入れることができずにいた。

 石丸さんは、小さなため息を落として、また窓の外を眺めた。

「それは、わからない。少なくとも、俺には本当に君を心から愛して、大切に思っているように見えたよ。だからこそ、あいつが君に催眠をかけようとしたことも、今のこの状況も、納得がいかないことだらけなんだ」

 横顔でもわかるほど深い皺を眉間に刻み込んで、石丸さんは話す。

「あいつの考えていることがわからないなんて、初めてだ」
「私は、いつもわからない。いつも不思議で、優しくて、温かくて……。それなのに、私のことは、いつだってお見通しで」

 外を睨んでいた石丸さんが、憐れみと優しが入り混じった視線を私に投げる。

「前にも言ったが、君は本当にあいつのことが好きなんだな。こんな状況になっても、まだ」

 石丸さんはその目に一層力を込めて、私を見つめる。

「あいつが君を傷つけようとするなんて、俺には信じられない。しかしさっきも言ったが、あいつの裏切りを決定づける証拠があまりにも多すぎる。俺は君を守る。そこに、何の心情もいらない」

 そんな、と声をだした私に、石丸さんは優しく微笑んで見せた。初めて見せたその表情に、胸がひどく傷んだ。

「だから、俺の分まで君はあいつを信じていてやってくれないか。こんなことを頼める立場じゃないのは百も承知だ。こんなことになる前に、対処すべきだった。史弥が何かに巻き込まれているなら、気づいてやるべきだった。あいつが本当に君を傷つけるつもりなら、君から力づくで引き離すべきだった。そう、最初に会ったあの時にね」

 悔しそうに、その笑みが歪んでいく。

「君があいつを信じ続けた結果、これが……本当に奴の裏切りなら、君の心は壊れてしまうのだろう。それでも俺は、君だけは奴を信じてやってほしい。君の代わりに俺だけが傷ついて済むのなら、喜んでそうする。だけど……あいつは俺のたった一人の息子なんだ。困ったときに頼らせてやることもできなかった情けない父親かもしれないが……俺は、最後まであいつの父親でいてやりたい」

 悲しそうにそう話す石丸さんを見て、私は安心していた。彼がそう思っていたことが、嬉しかった。

「私は、きっと石丸さんにあんな奴信じちゃだめだって言われても、例え史弥さんに目の前で裏切りを告白されても……それどころか、きっと彼に命を奪われることになっても、信じてると思います。それに、石丸さんのことも、私信じてます」

 少し驚いた顔をして、私の表情を探る。

「前に言ってくれましたよね、石丸さん。私の家族を奪った犯人は、必ず俺が捕まえるからって。あの言葉のおかげで、私は今も安心して夜に眠れるんです。だから、石丸さんが史弥さんのことを信じてくれていて、安心しました。これで、私も堂々と彼を信じることができますから」

 石丸さんは、納得したように頷くと、少し困ったように笑った。


 それからしばらくして、石丸さんは部屋の外で見張るから、と言った。昨夜も寝ていない様子の彼を心配したけれど、大したことではないと軽くあしらわれてしまった。

 シャワーを済ませてベッドにもぐりこんだが、眠れるはずがなかった。史弥さんのことは信じているけれど、あの男のことや女性のこと。疑える要素ばかりが増えて、優しい史弥さんの面影がじわりと滲んでしまいそうで怖かった。部屋の電気も点けたまま横になっていたが、私は堪らずスマホを手に取った。トークアプリを開いて、史弥さんの名前を探す。と言っても、他には店長しかいないのだから、探す手間もない。

『史弥さん』

 たった一言だけ、メッセージを送った。これが正しいことなのか、もはやそれすらもわからない。石丸さんが知ったら、怒るだろうか。
 私の送ったメッセージには、数分で既読マークがついた。そしてすぐに、返事が来る。トークの画面を開きっぱなしにしているので通知もならない。これなら、ドアの外にいる石丸さんにも気づかれない。

『葉月』
『話せるの?』

 立て続けに、彼からメッセージが来る。見慣れた自分の名前なのに、史弥さんに呼ばれているようで、字面を見ているだけで心臓が高鳴る。

『メッセージなら。石丸さん、部屋の外にいます』
『そうか。彼は、ずっと傍にいる?』

 何の意図がある質問だろうか、と勘繰ってしまうのが悲しくて目を伏せた。

『うん、ずっと』
『そうか。それは安心だ』

 なんて返したらいいのか、わからなくなった。途端に不安と孤独が押し寄せてきて、何かに縋りつきたくなる。私は、なんて弱いのだろう。

『葉月』

 史弥さんの声が、聞こえたような気がした。

『ごめんな』

 ふいに現れた謝罪の言葉に、私は身を起こした。いよいよ心臓がばくばくと高鳴って、落ち着かなくなる。息が苦しい。

『どうして謝るの?』

 既読はつかない。

『史弥さん』

 やはり、つかない。

『愛してる』

 いつまでも既読のつかない片道の想いを、私は声に出して呟いた。史弥さんに届くはずもないのに、と自らをあざ笑った時、部屋のドアを小さく叩く音と、石丸さんの声が聞こえた。

 届かなかった私の声は、少なくとも別の誰かには聞こえていたようだ、と胸を撫でおろす。

 よかった、私は消えてはいない。この胸の痛みは気のせいなんかじゃないと、絶望にも似た安堵を覚えていた。
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