ツバサを抱いて眠れ

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第一章 この人生の主役は誰?

第6話 意思の力を侮るなかれ

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 時刻は夕方の六時半。半開きの窓の向こうでウェストミンスターの鐘が茜空に鳴り響くのを聞きながら、二畳のキッチンでベーコンを短冊切りする。

 本当なら今日はコンビニ弁当を買う予定だったのに。
 トイレから戻って鎮痛薬を飲んでいた時のことだ。「今夜は真知おばさんが忙しくらしく夕飯を作りに来られない」と子どもが寂しそうな顔で言ってきたのだ。
 つまり、今夜、この子どもを部屋に泊めなくてはいけなくなってしまったということだ。まったく、他人を部屋に上げることさえ頑なに拒否してきたというのに。カレンダーを見ると、仏滅。うーお。
 二つ目の不文律を破る羽目になって、ゲッソリしながらオムライスの準備を進める。いや、泊める義務も責任もないんだけれど、良心の呵責が、だって八歳だし……なんて悶々としていると、隣にひょっこりと金髪が現れる。

「ベーコンは嫌いじゃ」

 お泊まりセットを隣の二○二号室から持って来た美夕ちゃん……いや、美夕様がせつない表情を浮かべて言う。(この時代劇口調はいつまで続くのだろうか)

「いや、そんな顔をされても他に材料がないから……オムライスしか用意できないんですよ。じゃあ魚肉ソーセージは食べられる?」
「嫌いじゃ」
「ええー。ウィンナーは?」
「嫌いじゃ。野菜はないのか?」
「野菜……」

 買った記憶がないからあるわけないのだが……と思いながら、大家さんから譲ってもらった中古の小型冷蔵庫を開ける。先程ベーコンを取った時と中身は変わらず、炭酸水などの飲料物と日持ちがする加工食品、卵、調味料、半分だけ残った豆乳しかない。

「あ、ネギがあった!」

 冷凍室にガビガビに凍った業務用の刻みネギを見つけて、嬉々として振り返る。

「美夕様、ありましたよ野菜が。ネギとウィンナーで炒めましょうか?」

 意気揚々として私が尋ねると、

「いらぬ。おぬし、まさかいつもこんな食生活をしとるのか?」

 と真顔で問われる。そんな冷たい目で見なくても……私は切ったベーコンをフライパンに入れ、冷凍ご飯を電子レンジに入れピッと解凍ボタンを押す。

「まぁ……その、普段の食事はコンビニで買ってくることが多いですし、自炊は土日だけしかしないし。冷蔵庫が小さいから、変に作ると余っちゃって腐らせちゃうんですよ……一食分だけ作るのって難しいんですから。生ゴミの処理も面倒だし……今日はオムライスだから、かなり豪華というか」
「目が泳いでおるぞ。おぬし、本当はもっと栄養のある食事を摂ったほうがいいと自覚しておるくせに、楽なほうへ逃げておるのじゃないか。コンビニでも野菜は買えるし、アイスを退かせば作り置きも冷凍できるじゃろ」
「その……アイスはストレス社会で生き抜く社会人のオアシス的なアレで……」

 解凍が済んだご飯を電子レンジから取り出し、シンクの上に置く。冷えたフライパンの中に不揃いに並んだベーコンを炒めようとすると、美夕様の声が私の手を止める。

「それにトイレに何度も立っておるな。生理痛が辛いのは、食生活が荒んでおることも関係しておるのではないか? 血の巡りが悪そうじゃ。運動はしておらぬのか?」
「運動? ……いや、一応、通勤でチャリは漕いでますけどぉ」

 片道十分のチャリ通なので、これを運動と呼んでいいのかは不明だが。
 美夕様は大きく「はあ」と溜息を吐いたあと、

「おぬし……だからそんなに足がむくんでおるのじゃな。靴下の痕がさっきチラリと見えたが……」

 そう言ってしゃがみ込み、私の靴下をムンズと力強く掴んだかと思いきや、勢いよくずり下げる。

「見よ! この古代遺跡のようなむくみ!」
「や、やめろー! 勝手に靴下を下ろすなー!」
「まったくお手本のような瘀血おけつよのぅ」
「お、おけつ?」

 聞き慣れない単語に、私はムダ毛が生え揃った臑を丸出しにしたまま固まる。
 そうじゃ、とお代官様ばりに威厳ある声音で美夕様が続けて言う。

「皮膚が青白くて、シミや痣も多い。目の下もクマもひどい。姿勢も悪いし、呼吸も浅い。口角が下がりっぱなしで、尻も垂れておる」
「お、おい、前半はいいとして、尻が垂れているのは三十五歳の年齢のせいですよ!」
「年齢など関係ないわ。意識の問題じゃ。瑞世、おぬしはツバサでの自分の姿を見てはおらぬのか?」
「ツバサでの自分の姿……?」

 悪夢の中では初っぱなから手枷をつけられて洞窟の中に寝かされていたのだ。鏡があるわけもないし、そもそも自分の姿を確認する余裕などなかった。

「見ていませんけど……」
「ツバサの中のおぬしは、今よりも少し背が高く、顔つきや身体つきもしっかりしておるように見えた。目は紫水晶のように輝き、その身に纏っておる雰囲気もずっとずっと勇ましかったぞ。今のおぬしは自信も誇りも見失いかけとる。まるでしおれたナスのようじゃ」
「ナス……」

 思わずガーンと頭の中でショックの鐘が鳴り響く。ツバサという悪夢の世界で三割増しのビジュアルになっていたとして、現実世界では「しおれたナス」とは。たしかに、最近は夏でも肘や膝がかさついているし、万年猫背だし。
 美夕様の言うとおり、猫の化物に食われる直前、獣の黄金色の瞳に映った自分の顔が別人のように見えたのはたしかだが……。
 私がどんよりとした雰囲気で落ち込んでいると、見かねた美夕様が諭すような声音で続けて言う。

「瑞世、意思の力じゃ。意思の力をうまく使えば、己で勝手に作り出した限界や常識、諦めといった幻想を作り替えることができる。ツバサの中にいる時、おぬしはきっと理想の自分の姿に今よりも近付いておったはず。おぬしが『本来こうありたい』という意識が、現実世界でのみ通用する言い訳や常識で邪魔されておらんかったからじゃ」

 美夕様の言葉を聞いて、私はずり下がった靴下を上げながらふと思い出した。おばあちゃんがカセットテープに残していた言葉――。

「『己の遺伝子を呪う前に、意思の力で能力を超えなさい』……?」
「おお、瑞世。その通りじゃ。分かっておるではないか! そうじゃ、意思の力は人間にとってすべての源じゃ。ツバサの世界では、現実世界よりも強く己を解放することができる。だから、次は化物に勝てるぞ、瑞世」

 無茶苦茶なことを言ってご機嫌良く励ましてくる美夕様に、私は金色のつむじを見下ろす。
 小学二年生の子どもが、うちのおばあちゃんと同じようなことを言うなんて。人生何週目……いや、それよりもこの子はどうしてツバサについてこんなに詳しいのだ。
 私は鼻からずり下がってきた眼鏡を直しつつ、美優様に尋ねる。

「美夕様、過去にもツバサに行ったことがあるんですか?」

 私が問うと、「まぁ、一度だけ」と小さな声で答える。

「一度だけって、その時はひとりで? それとも大人の誰かと一緒に?」
「ひとりじゃ……だが何者かに殺されすぐに死んだ」
「殺された……」
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