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第二部

第十二章 母子草、芽立つ  其の一

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 江の看病や秀忠たちの祈りが通じたのか、朝日が昇る頃には国松の熱は下がり始めた。その知らせを朝餉あさげを取りながら聞いた秀忠は、安堵して政務へと向かう。 
 昼前になると国松は、まだ熱があるものの、小さな声で「おなかがすきました」と言った。 
 医師が「このまま熱が下がれば、大事ございませぬ」と言い、江は、甘酒を飲ませてやりながらホッと一息ついた。 

「御台様、あとは私がついておりまするゆえ、おやすみになってくださいませ。」 
 利勝の妹、国松の乳母めのとであるきよが申し訳なさそうに長身の体を折る。 
「私がついておりながら、若様にこのようなお苦しみを与えてしまい、誠に申し訳ありませぬ。」 
 昨日から、清は言葉を変えながら何度謝っているだろう。しっかりものの兄に似ず、いつもはどこかのんびりとした空気をまとっている清であるがゆえに、その身を縮める様子で自分を責めているのが、江にも伝わってきた。 
「そなたのせいではない。そのような時期ころなのじゃろう。そなたこそ、ずっと国松と一緒なのじゃから、うつらぬように気を付けよ。」 
 江は小さなあくびを噛み殺しながら、よく尽くしてくれる乳母を気遣った。 
「ありがとうござりまする。兄に馬鹿にされますほど、体だけは丈夫にできておりまするゆえ、ご心配には及びませぬ。」 
「そうか? したが、目の下が黒うなっておるぞ。」 
「御台様こそ。」 
 目の下のクマを差し合い、二人は顔を見合わせて笑った。笑いながらも江は少しあくびが出てくる。 
「そうじゃな、少し休ませてもらおうか。」 
 利勝と同い年の江にとって、清は妹のような存在であった。清も江を姉のように慕っている。 
 (清の言葉に甘えよう)。 
 そう思いながら、江は控えていた医師に今一度確認をした。 

「もう懸念はないか?」 
「また再びお熱が上がるやもしれませぬが、昨日さくじつのようにはならぬかと。」 
「そうか。義父上ちちうえ様と義母上ははうえ様のご加護があったのでしょう。」 
 江は国松を撫でてやり、枕元の錦の袋に手を合わせる。清も同じように、神妙な顔で手を合わせた。 
「あとは、竹千代わかさまで止まっていただければ……」 
 ふと漏らした医師の言葉に、睡魔が襲ってきつつあった江の目が、カッと開いた。 
「今、なんと言うた?」 
 聞き違えたかと思って、江はきつい口調で医師に問いただす。 
竹千代いちのわかさまが今朝方けさがたよりお熱を出しておられます。御台様はご存じなかったのですか?」 
 医師は国松を気遣いながら、ささやかな声で淡々と報告した。 
「知らぬ。聞いておらぬぞ。民部! そなたは聞いておったか?」 
 離れて控えさせている民部卿に江は少し大きな声を出して訊く。
 何事が起こったのかと、民部卿は慌てて立ち上がった。 
「何をでございますか?」 
 江に近づきながら、民部卿が訊く。 
「竹千代が今朝方から熱を出しておるそうじゃ」 
竹千代わかさまが?」 
 自分の驚いた声に国松が目を丸くしたのを見て、民部卿は声を低めた。 
「い、いえ。なにも聞いておりませぬ。」 
「なにゆえ福は言うて来ぬのじゃ。」 
 両手を握りしめ、唇を震わせながら、江もやっとなんとか小声でこらえた。 
「竹千代のもとへ参る。」 
 口を真一文字に結び、グッと天を睨み付けて、江は立ち上がった。 

「ははうえ……」 
 国松が心細そうに江を呼ぶ。江はたまらず、再び国松の枕元に座った。 
「国松……」 
 江は、国松の頭をそっと撫でてやる。まだ熱い。江の眉間に皺が寄る。心配いらないと言われても、予断は許さないのだ。江が唇を噛んだ。 
「御台様、少しおやすみになられてからにされては。」 
 江が心の中で様々な葛藤をしているのを、小さな頃から仕えている民部卿めのとは見てとった。そして何より、民部卿は疲れた顔をした主人ごうの体が心配であった。 
「いや、参る」。 
 江は気丈にツンと顔をあげて、憮然と言い放ったかと思うと、国松に愛おしげな笑みを向け優しく言う。 
「国松、父上が『早う治せ。治ったら相撲を取るぞ』と仰せでしたよ。」 
「ちちうえが?」 
「それゆえ、清の言うことをよう聞いて早う治しなされ。母はまた来るゆえな。」 
「はい。」 
「よき子じゃ。」 
 江は名残惜しそうに、ゆっくり国松の頭を撫でた。 
「清、あとは頼むぞ。何かあったらすぐに知らせよ。」 
 国松の額の手拭いを冷たいものに取り替えていた清を、江はしっかり見つめ、あとを託した。 
 清も江をちゃんと見つめ返し、深く頷く。 
「はい。御台様もお疲れ出ませんように。」 
 清が恭しく礼をした。その礼に安心して、江は立ち上がる。皺だった蘇芳色の裾をひるがえして、江は竹千代のもとへと急いだ。 

◇◆

 竹千代は、国松が高熱を出して寝込み、母が看病についていることを知っていた。夜遅く、ゾクゾクとした悪寒おかんが背筋を上り、寒気がしたのを夜具の中でそのまま耐えていた。 
 (『気を付けましょうな』と福に言われたのに……。福がまた叱られるだろうか……) 
 竹千代は切なく布団にくるまっていた。 

 昨日、民部卿がやって来て、国松が高い熱を出したこと、風疫かもしれぬから充分気を付けることを福に細々と説明していた。そして帰り際、こう言ったのである。 
竹千代わか様、御台様が『くれぐれも気を付けるように』とおっしゃっておりましたよ。お健やかでお過ごしくださいね。」と。  
 (母上は、また情けない子だと思うのじゃろうな。) 
 竹千代は、目をギュッとつぶった。じっと寝てれば治ると思っていたのに、なんだか体の力が抜けていくような感じがする。 
 竹千代の体は少しずつ火照ほてるように熱くなっていった。 

 朝、竹千代を起こしに来た福の驚きようはない。即座に頭を冷やし、竹千代を励ました。 
「御台様にすぐお知らせして参ります。きっとすぐお越しくださいますよ。」 
 母を慕う竹千代にとって一番の薬は、自分でなく江なのを福は分かっている。 
 枕元から立ち上がろうとした福の袖を、竹千代は弱々しくつかんだ。 
「よい。…福がよい…」 
 竹千代は目をつぶったまま、そう言った。 
 母上はまだ国松を看病しているだろう。一晩中看病しただろう。きっとお疲れのはず。なにより、情けない子だと思われたくない。 
 竹千代は、江に熱を出したと知られたくなかった。 
「しかし…」 
 江より自分を選んでくれたのを福は嬉しく思いながらも、御台様に報告しなければ怠慢だ思われるだろうと考える。 
「よい……。黙っておれ。」 
 竹千代はかすかな声で命令した。 
 福がキリッと口許を引き締める。 
(なんと言われようと、竹千代わかさまのめいに従うことにしよう。そして、なんとしてでも治して差し上げなければ。) 
 福の決心は早かった。 
「では、御医師様にだけ見ていただきましょう。」 
 福がそう言うと、竹千代は目をつぶったままの赤い顔でこっくり頷いた。 
 急いで医師を呼びにやり、そのあと福はただひたすらに竹千代の体を冷やしていた。 


**** 
蘇芳色…深い赤紫色。
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