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第二部
第十二章 母子草、芽立つ 其の三
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「民部殿、もそっと近う。」
「いいえ、私も御台様と共に若様方の部屋に行っておりまするゆえ。」
「そう言わず、近頃は耳が少し遠くなっておりまする。」
部屋の入り口近くから動かない民部卿と、奥にいる大姥局の押し問答が続いている。どうなるのかと見ている周りの侍女たちが、急に揃って平伏した。
「民部ではないか、いかがした。」
秀忠がすぃと鴨居を避け入ってきた。
「こっ、これは上様。」
民部卿が慌てて通り道をあけ、頭を下げる。
「上様、いかがされました?」
いつものように上座を空けながら、このような時間に戻ってきた秀忠に(何かあったか)と大姥局は気遣う。大股で部屋の奥まで進んだ秀忠は、どっかりと腰を下ろし、乳母の問いに答えた。
「うむ。国松の熱が下がったと聞いたゆえ、見舞うてやろうかと思うてな。」
「なっ! なりませぬ!!」
笑顔でのんびりとした秀忠の言葉が、民部卿の慌てた大声に断ち切られた。
「ん?いかがした。」
秀忠は、いつものように鷹揚に声をかける。
「しっ、失礼いたしました。ただ今、竹千代さまが高いお熱を出しておられます。」
民部卿もいつものように頭を下げたが、そのあとは厳しい顔で言うべきことを報告した。
呑気な顔をしていた秀忠の顔も、にこやかだった大姥局の顔も一瞬で険しくなる。
「なんじゃと?」
「風疫の疑いが強いということですか?」
「さようにございます。」
眉間と口許の皺をより深くした大姥局の問いかけに、民部卿は手をついたまま答えた。秀忠の溜め息が聞こえる。
「そなたがここにおるということは、江は竹千代の看病をしておるのか?」
「それが……」
秀忠の問いかけに、民部卿は困ったように口ごもり、上目遣いにちらりと大姥局を見る。
「なにかあったのですね。それで私のところへ?」
「はぁ。まぁ…」
大姥局の穏やかな言いようにも、民部卿はまだ口ごもっている。大姥局がそれと察し人払いをした。民部卿がキッと顔を上げて話始める。
「それが…」
「民部、もそっと近う寄れ。」
秀忠が、入り口近くにいるままの民部卿の話を遮り、声をかける。
「いえ、私も若様方の部屋に参りましたゆえ。上様にうつると御台様に叱られまする。」
江がとりわけ秀忠にうつらないよう心を砕いているのを間近で見ている民部卿は、首を横に振る。
「私のことは案ずるな。そこでは外に聞こえるぞ。近う寄って報せよ。」
苦笑いをしている秀忠の言葉に、民部卿は後ろを振り返り、はたと気づいたような顔をした。
「さようでございますね。では。」
秀忠と大姥局の方へ少し近づいた民部卿は、竹千代をめぐっての一騒動を報告した。
大姥局は時々目を閉じるくらいで、身動きもせずジッと聞き入っており、秀忠は苦虫を噛み潰したような顔を落ち着きなさそうに動かしていた。
「そのようなわけで御台様を休ませてここに参った次第でございます。」
「またか……」
報告を締めくくった民部卿に、秀忠は不機嫌な顔で大きな溜め息をついた。
ところが、大姥局は上様の溜め息を意に介さず、民部卿の顔をジッと見つめて確認した。
「しかし、そのおかげで、御台様はおやすみになられておるのですね。」
「はい。」
「御台様は、寝ずの看病をされ、そのまま竹千代さまのところへいかれた……」
「はい。清殿ともども、目の下を黒うされて、寝ずの番を。」
民部卿の返答に、大姥局はニッコリと笑った。
「民部殿、竹千代さまは御台様がお疲れなのを見てとったのでありましょう。」
「さようでしょうか。」
「いつもと違うご様子の御台様に心痛められたのに相違ありませぬ。『福がいるからおやすみください』と言いたかったのですよ。言葉足らずのところは、誰かによう似ておられる。」
大姥局は、首を傾げた秀忠を見て「フフ」と笑った。秀忠は誰とも目を会わせず、頭をガリガリと掻いた。
「福殿のことは……」
わずかに含み笑いをした民部卿だが、すぐに真顔になり、一番の気がかりを大姥局に問うてみる。
「さて……福の真意は判りかねますが…、……ただ、こうは考えられませぬか? もし、竹千代さまのご様子がお悪くなると、御台様の守り仏が淀の方様からいただいたものゆえじゃと言われましょう。それを事前に防いだのだと。」
大姥局は、ゆっくりと言葉を選びながら知恵を授ける。
「ああ、なるほど。さようでございますね。御台様にはそのように申し上げまする。」
力強く頷き、大姥局を尊敬の眼差しで見つめた民部卿は、肩の荷を下ろしたように明るい声になった。
ところが、民部卿に笑顔が戻ったところで大姥局の顔が急に曇る。
「素直にお聞き届けになればようございまするが……」
「……無理じゃな……」
大姥局の言葉に、ここまで黙っていた秀忠がチロリと二人を見て、ポツリと漏らした。
「……無理…でございましょうね……」
秀忠と大姥局を上目遣いに見、笑顔の残った困り顔で民部卿が呟いた。
「竹千代だけでのうて、淀の方様まで絡んでおるからの。この上なく頭に血が上っておろう。」
秀忠は冷静に江の状態を言い当てる。
「申し訳ありませぬ。私がふがいないばかりに……」
民部卿が、自分の育て方が悪かったのだと江をかばった。
「そなたのせいではない。福のことになると意固地になる江が悪いのじゃ。福もじゃがな。」
秀忠は、今の大事なときにいがみ合う二人に怒りを覚えている。
「…竹千代さまを取り上げられたと思うておられますゆえ。」
秀忠の怒りを感じつつ、民部卿は江をかばった。
「わかっておる。」
「…はい…」
ぶっきらぼうに答える秀忠に、民部卿が消え入るような声で頭を下げるのをみて、大姥局が助け船を出した。
「福には私から言いおきましょう。」
「かたじけのうござりまする。」
民部卿は大姥局に深々と頭を下げた。
「まぁ、なんにせよ江が倒れる前に休めたのはよかった。竹千代の手柄じゃな。」
民部卿に八つ当たりしそうになっていたのに気づき、話を変えるため、秀忠は無愛想に息子を誉める。
「さようでございますね。大姥さま、ありがとう存じました。では、私はこれにて。」
民部卿が、来たときよりはスッキリした顔をして暇ごいの礼をした。
「民部殿もお疲れの出ませんように、ご自愛なされませ。」
「そうじゃぞ、民部。江を支えられるのはそなたしかおらぬゆえな。」
「もったいのうござりまする。」
秀忠の言葉に民部卿はこれ以上ないほどの礼をし、部屋から出ていった。その足音が聞こえなくなると、秀忠は肩を落とすほどの大きく長い溜め息をつき、目の上を押さえた。
「茶を…、入れてくれぬか。」
「はい。」
茶の準備をし、急須に茶葉を大姥局が入れる頃、黙っていた秀忠が乳母に険しい声で呟いた。
「大姥、下がるのはまだ早いぞ。」
「それは、困りましたな。」
大姥局はお茶を注ぎながら、少しも困っていないように微笑みを浮かべてのんびりと返事をした。
(世子の話はしばらくできぬじゃろうな)。
秀忠は、お茶を味わいながら、グッと奥歯を噛み締めていた。
「いいえ、私も御台様と共に若様方の部屋に行っておりまするゆえ。」
「そう言わず、近頃は耳が少し遠くなっておりまする。」
部屋の入り口近くから動かない民部卿と、奥にいる大姥局の押し問答が続いている。どうなるのかと見ている周りの侍女たちが、急に揃って平伏した。
「民部ではないか、いかがした。」
秀忠がすぃと鴨居を避け入ってきた。
「こっ、これは上様。」
民部卿が慌てて通り道をあけ、頭を下げる。
「上様、いかがされました?」
いつものように上座を空けながら、このような時間に戻ってきた秀忠に(何かあったか)と大姥局は気遣う。大股で部屋の奥まで進んだ秀忠は、どっかりと腰を下ろし、乳母の問いに答えた。
「うむ。国松の熱が下がったと聞いたゆえ、見舞うてやろうかと思うてな。」
「なっ! なりませぬ!!」
笑顔でのんびりとした秀忠の言葉が、民部卿の慌てた大声に断ち切られた。
「ん?いかがした。」
秀忠は、いつものように鷹揚に声をかける。
「しっ、失礼いたしました。ただ今、竹千代さまが高いお熱を出しておられます。」
民部卿もいつものように頭を下げたが、そのあとは厳しい顔で言うべきことを報告した。
呑気な顔をしていた秀忠の顔も、にこやかだった大姥局の顔も一瞬で険しくなる。
「なんじゃと?」
「風疫の疑いが強いということですか?」
「さようにございます。」
眉間と口許の皺をより深くした大姥局の問いかけに、民部卿は手をついたまま答えた。秀忠の溜め息が聞こえる。
「そなたがここにおるということは、江は竹千代の看病をしておるのか?」
「それが……」
秀忠の問いかけに、民部卿は困ったように口ごもり、上目遣いにちらりと大姥局を見る。
「なにかあったのですね。それで私のところへ?」
「はぁ。まぁ…」
大姥局の穏やかな言いようにも、民部卿はまだ口ごもっている。大姥局がそれと察し人払いをした。民部卿がキッと顔を上げて話始める。
「それが…」
「民部、もそっと近う寄れ。」
秀忠が、入り口近くにいるままの民部卿の話を遮り、声をかける。
「いえ、私も若様方の部屋に参りましたゆえ。上様にうつると御台様に叱られまする。」
江がとりわけ秀忠にうつらないよう心を砕いているのを間近で見ている民部卿は、首を横に振る。
「私のことは案ずるな。そこでは外に聞こえるぞ。近う寄って報せよ。」
苦笑いをしている秀忠の言葉に、民部卿は後ろを振り返り、はたと気づいたような顔をした。
「さようでございますね。では。」
秀忠と大姥局の方へ少し近づいた民部卿は、竹千代をめぐっての一騒動を報告した。
大姥局は時々目を閉じるくらいで、身動きもせずジッと聞き入っており、秀忠は苦虫を噛み潰したような顔を落ち着きなさそうに動かしていた。
「そのようなわけで御台様を休ませてここに参った次第でございます。」
「またか……」
報告を締めくくった民部卿に、秀忠は不機嫌な顔で大きな溜め息をついた。
ところが、大姥局は上様の溜め息を意に介さず、民部卿の顔をジッと見つめて確認した。
「しかし、そのおかげで、御台様はおやすみになられておるのですね。」
「はい。」
「御台様は、寝ずの看病をされ、そのまま竹千代さまのところへいかれた……」
「はい。清殿ともども、目の下を黒うされて、寝ずの番を。」
民部卿の返答に、大姥局はニッコリと笑った。
「民部殿、竹千代さまは御台様がお疲れなのを見てとったのでありましょう。」
「さようでしょうか。」
「いつもと違うご様子の御台様に心痛められたのに相違ありませぬ。『福がいるからおやすみください』と言いたかったのですよ。言葉足らずのところは、誰かによう似ておられる。」
大姥局は、首を傾げた秀忠を見て「フフ」と笑った。秀忠は誰とも目を会わせず、頭をガリガリと掻いた。
「福殿のことは……」
わずかに含み笑いをした民部卿だが、すぐに真顔になり、一番の気がかりを大姥局に問うてみる。
「さて……福の真意は判りかねますが…、……ただ、こうは考えられませぬか? もし、竹千代さまのご様子がお悪くなると、御台様の守り仏が淀の方様からいただいたものゆえじゃと言われましょう。それを事前に防いだのだと。」
大姥局は、ゆっくりと言葉を選びながら知恵を授ける。
「ああ、なるほど。さようでございますね。御台様にはそのように申し上げまする。」
力強く頷き、大姥局を尊敬の眼差しで見つめた民部卿は、肩の荷を下ろしたように明るい声になった。
ところが、民部卿に笑顔が戻ったところで大姥局の顔が急に曇る。
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「……無理じゃな……」
大姥局の言葉に、ここまで黙っていた秀忠がチロリと二人を見て、ポツリと漏らした。
「……無理…でございましょうね……」
秀忠と大姥局を上目遣いに見、笑顔の残った困り顔で民部卿が呟いた。
「竹千代だけでのうて、淀の方様まで絡んでおるからの。この上なく頭に血が上っておろう。」
秀忠は冷静に江の状態を言い当てる。
「申し訳ありませぬ。私がふがいないばかりに……」
民部卿が、自分の育て方が悪かったのだと江をかばった。
「そなたのせいではない。福のことになると意固地になる江が悪いのじゃ。福もじゃがな。」
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「…はい…」
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民部卿は大姥局に深々と頭を下げた。
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「さようでございますね。大姥さま、ありがとう存じました。では、私はこれにて。」
民部卿が、来たときよりはスッキリした顔をして暇ごいの礼をした。
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「はい。」
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